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泣けたなら・・・ [詩・言葉]

思いっきり泣きたいな

この悲しみが、全部流れてしまうくらいに涙を流したならば
少しは心が軽くなるかもしれない・・・
思いっきり泣いて、泣いて、泣き疲れたら
この悲しみの勢力も少しは衰えてくれるかもしれない・・・


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過去・現在・未来 [詩・言葉]

過去に縛られることなかれ

今に戸惑うことなかれ

一寸先に振り回されることなかれ
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ゆっくりと、ゆっくりと [心]

いつも同じ苦しみがめぐってくる。 つくづく自分の本質はかわらないなぁと実感。
そんな時の流れの中で、私は今、何を聞いているのだろう。
虫の音。 秋の風音。 夜は静かに流れている。

もう、何も後悔はしない。
ただ時の流れに任せてみるのもいいものだと、今までとは違う私が見え隠れ。

やるせない嘆きも、肩を震わせる不安も、胸を締め付ける孤独も、みんな私の一部だものね。
ゆっくりと、ゆっくりと、そっと受け入れてあげよう。

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表裏一体の「生」「死」 [心]

今日まで、ものすごいスピードで人生を駆け抜けて来たように思います。
でも一方で、無動のままに淡々と時間を過ごして来たような気もしています。

この世の事実を受け止めるということは、とても難しいことですね。
たとえばそれが自身を楽にさせる事実であったならば、一見、受け入れやすいように思いますが、実際は深い欲望と無常を知らされる入口なのかもしれない…、という不安が目覚めてまいります。

人は、自身の「死」を肌で感じた時にこそ、自身の「生」と出会えるのではないでしょうか。
いつか、この身が死んで行くということ・・・。 その時のことをいくら空想したところで何の意味もありません。
「生」の裏に「死」あり。 「死」の裏に「生」あり。
ただ、「あぁ、私が死ぬんだ・・・」と、自分が死と共に歩んでいることを知った時、表裏一体に「今を生かさせてもらっているのだなぁ~」と、感じたのでございます。 南無阿弥陀仏
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「言葉」という凶器 [心]

その場に居ない人の話題で盛り上がるというのはよくあることだと思います。
特に、4,50代の女性にとって、他人の陰口ほど面白いものはないと思っていらっしゃる方も少なくはないでしょう。
しかし、その話は次から次へと尾ひれをいっぱいにくっつけて悪口を言われた当人の所へと運ばれて行くものです。

そんな噂話しが私の所へも伝わってきたのですが、その噂の当人である私には身に覚えのないこと・・・、そこで事の真意を噂を流したとされるAさんに直接確認することにいたしました。
「あなた(Aさん)は、私がMさんの話題を周囲の人に言いふらしていると言っているそうだけれど、なぜそんな嘘をつくのですか?」 と。
その時Aさんは言われました。
「わたしは、人間関係の渦には巻き込まれたくないのでそのような作り話を振り撒いた覚えはありません!」 と。
でも今回、私の元に伝わってきた「Aさんが面白おかしく私のことをネタにしていた」という話は、複数の人から私の耳に届いていたので、私はAさんを信じることができませんでした。

本当のことはわかりません。 ただ、その場に居ない、少なくとも表面上は「仲間」である人の話しをする時には、ほんの少しでも結構ですから、「もし、この場に居ないのが自分だったら・・・、 話題のエサにされているのが自分のことだったなら・・・」と、一瞬でかまいませんのでチョッと考えてみて欲しいなと私は思うのです。

「言葉」というものは、本当に恐ろしいものです。
その一言を口にした本人にはまったく悪気などなかったとしても、人の口から口へと伝言ゲームが拡大して行けば、必ずと言っていいほど伝言する度に私感が混じり、とんでもない話しへと変化してしまうということは、決して珍しいことでも特別なことでもありません。
そのことで、話題にされた本人がどれほど傷付くのか・・・、ショックを受けてしまうのか・・・。
その一言の真偽性の如何に問わず、相手を自死に追い込む事だって簡単に出来てしまうのです。
「言葉」とは、それほど鋭い凶器にも成りうるのだと言うことを、私たちは忘れてはならないと思うのです。
悪気も、殺す気もなく、その場限りの面白話しであったとしても、他者をネタにすることは、それほど重い責任を自分の吐いた言葉に課すべきではないでしょうか。
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ベストフレンド [真宗カウンセリング]

最近になって念願が叶い、仏教関係以外の新しい親友が出来ました。
たまたま駅のホームで出会って会話をしただけなのですが、お互いに意気投合して、それから時々Launchなどに誘ってくださるようになりました。
最初に話しかけられた時は英語だったのでイギリス人かと思いましたが、ドイツ人でした。
彼の名前はジミー。 仕事の都合で5年前より日本に住み、ドイツと行き来しているそうです。

私が所属しているとある団体では、「日本人は日本人らしく」をモットーとしている人が数多く見受けられ、私のようなアメリカ的な考えを持つ者は、ことごとく嫌われてしまいます。
例えば、Yes, No, をハッキリ言えば、「ストレート過ぎてキツイ」と言われますし、あいさつでHugをすることなど、異性のみならず、同性であっても陰口の対象となりますし・・・、握手をすることさえもためらわれるのが実情です。

もちろん、それぞれの国や地方によって文化の違いはありますので、それを「否定するな」とは言いませんが、日本人も少しくらいは「受け入れる」という考えを持っても良いのではないでしょうか?
もっとも公序良俗に反する行為は問題外ですが、すぐに他人のアラ探しをするという日本の文化には、ハッキリ言ってうんざりです。

ジミーとは何でも話しをします。 病気の話し、宗教の話し、恋愛の話しなどなど、話しは無制限です。
他の親友とジミーとの相違点は、「お互いの文化を認め合う」というところにあると私は感じました。
例えば、お互いに相手の話は基本的に最後まで聞きます。 もっとも意味のわからない単語の説明などで話しの腰を折ることはありますが・・・。
また、感情的な発言であっても、相手の立場に立った時に自分ならどう思うのだろう?との自己との対話をして、もしそこで心が動けば、「私だったらきっとこうするだろうなぁ~」との受け答えはしますが、相手の意見に対する評価することはまずありません。 たとえあったとしても、「It‘s Funny」とか、「It‘s Crazy」などの相づちをうつ程度です。

ジミーだからそれが出来るか、それとも相手が外国人だから出来るかは定かではありませんが、ただ今日フッと思ったのです。
仏法座談会の時に、「あの人は獲ている人」 or 「あの人はまだ獲ていない人」という他人や自己判断による色眼鏡で見る人が多々います。 もちろんこれは私自身の反省点でもありますが、座談会の場では自分の思いのたけをさらけ出して、そこにかかっている私の如来さまの御心に気付かせていただく場です。
にもかかわらず、誰かが発言したことに対して、それを自分の思いで評価したり、否定したり、時には自己の意見を相手に押しつけたりする場面も少なくはないように見受けられます。
それ故に、己をさらけ出すことの出来ない人が数くおられるのではないでしょうか。 「そのような非難を恐れていて聞き開けるか!」と言われそうですが、相手の意見を箱に入れず、「あぁ、この人はそうなんだ」のところで留めておいて、内観することが自然に出来たらいいなぁ~と思いました。

そういった意味で、一時的な場面であっても、「聞いている人」、「聞いていない人」という分け方はもうやめて、そこにいる全員がベストフレンドとして、「自分はどうなん?」って聞けたらいいのに!って思うのですが・・・。

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みにくいアヒルの子 [心]

「あなたは病気だから、気を使ってあげたのよ」 と ある方から言われた一言が忘れられません。
あれから、何度も 何度も 心の中で繰り返し、辛くなります。
そんな中、アンデルセン童話の『みにくいあひるの子』というお話しをフッと思い出しました。
おおかたの人が知っている物語だと思いますが、、、、、

     『みにくいアヒルの子』  作:アンデルセン

アヒルの群れの中で生まれ育ったヒナ鳥が、他の子どもたちと似ていないという理由により、いじめられて、退けものにされたあげく、群れを追い出されてしまいました。
ひとりぼっちになったヒナ鳥は、いろいろな群れに入ろうと試みるのですが、どの群れにも辛く当たられ、もう、生きて行くことに耐えられなくなってしまいました。
暗い冬空を見上げながら、「ひとりぼっちでは、辛すぎて生きていくことなんか出来ない・・・。 ならば、いっそ猟師にでも殺してもらおう!」と思って水辺へと行ったのですが、そこで水面に映った成長した自分の姿を初めて、「あぁ、自分はアヒルでもカモでもなく白鳥だったのだ」と知るのです。

いろいろな翻訳本が出ていますが、だいたいはこのようなストーリーで終わっています。
無垢な子供の頃は、「良かったね」で聞き終えていた童話でしたが、ひねくれた大人になった今、フッと思い出してみたらなんだか納得いかなくて・・・
自分が美しい白鳥だと知ったら死ぬ気がなくなったの?  たまたま仲間がいたからLUCKYだった?
じゃあ、醜かったら生きていてはいけないの?! 他の人と違ったら生きていちゃダメなの?!

「私が病気持ちだから、仏法を聞く以外に、何もしてはいけないの・・・・・?」
それを言われた時、病のことカミングアウトするんじゃなかった・・・、と後悔しましたが、後の祭りです。
もしも発作が起きれば誰だってみな迷惑がるでしょう・・・  それは私自身わかっていることす。

みにくいアヒルのままでは、誰も仲間に入れてくれないのも仕方のないことかもしれません。
そんな一言を気にし過ぎている私がアホなんです。 しょうもない大バカ者です。

でも、そんな私に、「奈っちゃんは何のために人間に生れさせてもらったの?」と聞いてくれたのは、Daneでした。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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真宗とカウンセリング [心]

BLOGがぼちぼちと書けるようになってきたのか、たまたま調子が上向いているからかはわかりませんが、病院のカウンセラーからも、「何でもいいので思ったことを吐露するようにしましょうね」と勧められました。

私が過去に数回ほど受けた真宗カウンセリングと、隔週で受けている病院での一般的なカウンセリングとは、まったく種類が違う… と言いますか、まったく次元の違うものだということが、最近になってやっとわかってきました。
つまり、私が真宗カウンセリングで求めてきたものを、一般のカウンセリングに求めるのは、鼻っから無理だったのです。

前にある人が、「真宗カウンセリングなんか生ぬるい、そんなところに逃げ込むな」と言っておられましたが、今の私にとって一般カウンセリングは、もう限界に来ているのではないかしら…、という気がしてならないのです。

この病気が再発しましてから三年が過ぎようとしていますが、治療はしていても悪化の一途をたどるばかりで、ここ半年前からは、新たに治すことの難しい病気にまで追い込まれてしまい、普通の生活が送れなくなってしまうところまで来てしまいました。
それでも人を憎むことが出来ない性格とか、辛いことは全部心の内に引っ込めてしまう性分というものは、入院や投薬で治るものではありませんし、カウンセリングで完治出来ることでもありません。
ただ、そんな自分を責めないための訓練と、過去を乗り越えることの出来るような訓練を徐々にこなしつつ、もう少し良くなったら、もう一度真宗カウンセリングを受けてみたいなという気持ちに今はなっていますが・・・、 これがコロッと変化するので厄介です。
ただ、今日はそれだけ調子が良いようです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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私そのままで [心]

今日から10月なのですね。 あと三ヶ月で「今年」と命名された年が終わりを迎えます。
そして私は、いつ終わるのかしら・・・・・

春から夏へ、夏から秋へ、そして秋から冬になり、やがてまた春が巡ってきます。
当たり前のことですが、季節は何度めぐり巡っても、一時として同じ「時間」はありません。
一昨年の秋を想い出しながら幸せに浸っても、去年の冬を想い出しながら懐かしさにくれたとしても、もう、済んだことです・・・。 振り返ったからと言って、嬉しく思い出すことは出来ますが、そこに想いを寄せても仕方のないことですし、例えば、過去に失敗してしまったことを教訓として活かすことも…、覚えておくことさえも出来ないような私ですから、今はただ、過去のことは出来る範囲で忘れてしまうように努力をしています。

それなのに、病院へ行くと無理に思い出さされるのですよね・・・。
結局、いつまでたっても過去という縄に縛られたままである自分を知らされるばかりです。
幼い頃の傷は、やがて成長と共に薄れて行くか、深層意識の蔵へと埋没してしまうものだと思っていました。
でも、引き金が引かれた瞬間、催眠術から覚めたように明確に記憶はよみがえってしまうのです。
これでは治療なのか…、悪化させるための療法なのか…、わからなくなってしまいました。

だから、というわけではありませんが、「生きる」って手さぐりなのです。
人生の分岐点に立たされる度に、どちらが「正しい」とか、「間違っている」とか決めたがるものでありますが、ある時、フッと気付いたのです・・・、 「な~んだ、何一つとして間違っていることなどなくて、だからこそ全部が全部間違っているんだ!!」って。
「わかる」とか「わからない」とか、グシャグシャに混んがらがった私が、わかるはずがないものを、信じていたのですね。

でも、妄想は止められません。
それに囚われることなく、自分の足で歩いて行くしかないのですね。
間違いを間違いと気付かされつつ、頑固に自分を貫き通そうとする私そのままで。
南無阿弥陀仏
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『法句経』 難き主を得 [仏法]

最近、原始仏典に興味を抱くようになって、中村元:著 『原始仏典』などを読んだのですが、その原始仏典の中でも最も古くて最もポピュラーなものの一つが『法句経』(Dhammapada)であるということを知りました。
その『法句経』には、お釈迦さまのお言葉が書かれてあるとのことでしたので、今、アルボムッレ・スマナサーラ:著 の 『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』という本を読み始めたのですが、時に釈然としないものも書かれてあります。
そこで、青空文庫の『法句経』(荻原雲來訳註)と照らし合わせながら読んでいるのですが、やっぱり、ふむふむフム~? と思うようなお言葉もありまして、『経』に対して、屁理屈で対応している自分、また、自分の考えの方が正しいと思っている自分、そして、自分勝手な解釈に読み合わせてしまっている自分というものが、よくよく見えてきます。

『法句経』は、26章からなり423の偈文で構成されている短詩型の教説を集成したものです。
第一章は、対句になっていて、例えば、

一, 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し穢れたる意を以て語り、又は働く時は其がために苦の彼に隨ふこと猶ほ車輪の此を牽くものに隨ふが如し。
(私訳 : 物事と言うのは、まず心が先行し、心こそが最大の原因であり、その心をもとに作りだされる。 もしもその人がけがれた心で、話しをたり、行動をしたならば、苦悩がつきまとうであろう、牛が荷を運ぶ時に車輪の足跡を残すように。)

二, 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し淨き意を以て語り、又は働く時は其がために樂の彼に隨ふこと影の離れざるが如し。
(私訳 : 物事と言うのは、まず心が先行し、心こそが最大の原因であり、その心をもとに作りだされる。 もしもその人がけがれなき心で、話しをたり、行動をしたならば、歓喜がついてくるであろう、その影がそのものから離れないように。)

全部が全部ではありませんが、モラルが書いてあるような経文であり、漢文や和訳故に、読む人その人の解釈一つで大きな読み違いをしてしまうという怖さもあります。
ただ私は私なりに、「釈尊は、何故このようなことを言われたのかしら?」などと考えたりしていると、まるでお釈迦さまと会話をしているようで楽しいと思って読んでおります。

最後に一つ 第十二章 160偈 より
一六十, 己を以て主とす、他に何ぞ主あらんや、己を善く調めぬれば能く得難き主を得。
(私訳 : 「私」という自己の主は、「我」でしかない。 この「我(自己中心)」の主であるのが私であるという他に、いったい何者がいるというのであろうか。 この「我(我執)」を よく よく 観させていただき、その意味を知る者は、得難き主と共になる。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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老少不定 [御法縁]

今日、通夜に行ってきました。
彼女からは、禅宗だと聞いていたのですが、お経(?)の最初から最後まで何度となく読みあげられる「南無妙法蓮華経~」
通夜式の後、葬儀場の人に、「日蓮宗ですか?」と尋ねたら、「日蓮系ですが法華宗です」とのことでした。
見慣れない祭壇に、聞いたことのないお経。
私は少し戸惑いながらも小さな声でただ一人、「南無阿弥陀仏」と称えさせていただきましたが、「南無妙法蓮華経」と口にしている人は、誰もいませんでした。
それにしても、宗派も知らずにお葬式を出すとは・・・? 今どきは、そんなものなのでしょうかね~?
隣りの式場から聞こえた『正信偈』の声が、とても有り難かったです。

しかしビックリしました。 金曜日の夜に、ご近所のお友達の旦那様がなくなられたと聞いた時は・・・。
だって、私の頭の中では、「ご近所での次の順番はあの人の番だな・・・」なんて勝手に死亡計画を立てていたのですが・・・、「老少不定!!」とズバリ指摘され、自分がそう思えても思えなくても、明日は我が身と言うのが真実。
いえ いえ、今、この瞬間に何が起こるかわからない、「今が後生ぞ!!」と指摘していただきました。 南無阿弥陀仏

彼女の旦那様ですが、身体中のアチコチが痛くてマッサージなどに通っていたそうですが、あまりの体調の悪さに総合病院にて検査をした結果、末期の肺がんだとわかり、それから、たった10日後の死亡だったそうです。

しかし、妻である彼女をはじめ、家族も親族もとても明るいのです。
確かに彼女の旦那様は婿養子に入られ、肩身の狭い思いをされた方だとは思いますが、まだまだ現役世代の夫を亡くし、あんなにも明るくしていられるのはどうしてだろう? と、ちょっと不自然さを感じました。
法華宗では、後生をどうとらえているのか気になりましたので ちょこっと調べてみましたけれどわかりませんでした。

明日は朝から葬儀で、午後からは初七日の法要がつとまります。
葬儀のお手伝いは大変ですが、またいろいろな発見に出会えることを不謹慎にも楽しみにしながら、自分の死はそっちのけに放っている私なのです。 南無阿弥陀仏

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つねに慈父母となりたまえり  [詩・言葉]

本願寺出版から出されている 法語カレンダー『心に響くことば』の2011年9月のお言葉は、親鸞さまが『教行信証・信文類』の中にて『涅槃経』を引用されたお言葉です。

      「  如来 一切のために つねに 慈父母となりたまえり  」

私には親がいました。 ですからこうしてこの世に生れ、今日まで生きてこられたわけですが、私には子供がおりませんので、残念ながら親の心というものを知ることはできません。
ただ、友達や周囲の親達の姿を通して「親」というものの大変さを想像することはできたとしても、それはほんのわずかな空想の世界の話に過ぎません。

ひとつハッキリ言えるのは、「あぁ、私はこの親の子であったのだ」と信に受けた時、「そうだったのだ! 親さまがいてくださって私でいられるのだ」、と心底喜べるのではないでしょうか。

私が母の介護をしていた時、私にとって母は親ではなく子供同然でした。
でも、母を亡くし、南無阿弥陀仏と出遇ってから、母はまぎれもなくこの世の親だった、この母の生き様、そして死に様を、私は決して無駄にしてはならないのだと知りました。

それが1,2年して、落ちるべきところまで落ちた私を受け止めてくださったのが、この世の親とは違う、私が子供の頃より探しに探し求めていた真の親さまでした。
私は何ひとつとして真実のわからない・・・、自分の力では何ひとつとし出来ない丸裸の赤ん坊のまま、ただ ただ 泣き叫びながら落ちて行くしかない者なのだ・・・、と知れた時に、初めて真の親さまの出遇う奇跡に恵まれました。
もちろん、それは一時的な思い込みかもしれません。
ただハッキリしているのは、落ちるしかない自分と、何が何でも助くるという真の親の願いを、「そうだったんだ!」と疑いなく知った瞬間は、今も鮮明に覚えています。

自分は大人だから何か出来ると思っている内は、決して子供の心にはなれません。
それは、己が如来さまの子供であることを知らない、とても とても 不幸なこと・・・、親さまである如来さまを一番悲しませることに他なりません。

大泣きしながら・・・、自分の欲ばかりを叫び散らしながら・・・、ジタバタと癇癪を起こすことしか出来ない赤子の自分なのだ知れた時にやっと、真の親さまの懐で甘えられるのではないでしょうか。
少なくとも私はそうです。 親さまを泣かせる度に、その親さまに甘えることしか出来ないのが私で、そんな時、自分の感情に関係なく「南無阿弥陀仏」と口にするしか出来ません。

それにしてもスゴイ言葉だと思います。
「親は」、「一切全てを引き受けて」、「常に間断なく」、「慈悲のこころで」、「父にも、母にも、なってって」、「私一人を救うとの誓いを実行してくださった」と言うことです。 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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念仏を称うべし [御法縁]

許されぬ恋があるように、許されぬ愛もある。
でも、何もかもを許してくださる愛があるから、私は生きていられる。
それなのに、生きているのが辛い・・・
生きていることが辛い・・・

今日、ある言葉をいただきました。

  自分が本当に悪いと思ったら念仏を称うべし
  自分は悪くないと思ったならば念仏を称うべし
  どちらかよくわからなかったら念仏を称うべし

  気がおかしくなったら、おかしくなったままに念仏を称うべし
  生まれたまま、ただ生きているままに念仏を称うべし

南無阿弥陀仏
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泣けないんだよね [日々雑感]

思いっきり泣きたいのに、泣けないんだよね。
泣き虫な私なのに、泣けないんだよね。
涙はこぼれ落ちるのに、泣けないんだよね。

一番最近泣いたのは、病院でのカウンセリングの時だったかな。
初めて言葉に出来た・・・  誰にも話せなかったことを・・・
ほんの少しだけど、話してはいけない過去を言葉に出来た・・・

カウンセラーの人には理解しがたい内容し難いはずだったのに、彼女は言いました。
「話してくれてありがとう」と・・・
思わず涙がこぼれ落ちた。
カウンセラーにも、誰にもわかってくれなくてもいい・・・
ただ、言葉に出来たことが嬉しかった。 ただ、聞いていただけただけで嬉しかった。

でも、枯れちゃった・・・
私自身が枯れちゃった・・・
泣きたいのに・・・、思い切り泣きたいのに・・・ 涙はこぼれるけど泣けないんだよね。
泣きたいのに、泣けないんだよね・・・・・・
如来さまを、こんなに泣かしているのに、私自身は泣けないんだよね・・・・・・
南無阿弥陀仏
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私は私なんだよね! [心]

人は、丸裸で生きることは出来ません。
私たちは衣服で身を包み、建て前と嘘で心を覆い被せて、隠すべきところはちゃんと隠していないと生きていかれないのが今の世の中です。

私は幼い頃から非常に引っ込み思案でした。
人との挨拶は、父から仕込まれた作法通りにこなし、その後は母や妹の影に隠れて何もしゃべれなくなってしまうほど人見知りが激しくて、とにかく人と接することが大の苦手でした。
それは小学5年生の頃まで続いたのですが、そこで第一回目の転記に迎え積極性に芽生えはじめたわけであります。 と言っても、人並み程度に言葉を交わすことができる程度で、積極的に友達を作るなんてことはまだまだ出来ませんでした。
二回目の転機は高校に入学した頃です。 父の目が私から離れたことと、積極性を持って物事に取り組める環境に置かれた良縁で、初めて自分からアレコレと行動するようになりました。
三回目の転機と言えるかどうかはわかりませんが、大学を出て銀行に就職したのをきっかけに、接客業が必要不可欠であったことや、社会の中で出世競争の波にうまく乗れるよう、積極性や建前などといった、世の中を上手に生きていくための知恵をたくさん身につけました。

でも最大の転機は、日本を離れたことにあります。
性別とか年齢とか、それにお互いの個性を越えて、人を選ばず積極的に他人との関わりを楽しむようになったのは、アメリカ生活で学んだことで、これが一大転機となりました。
でも、元々の性格である相手のことを考え過ぎて臆してしまったり、ついつい石橋を叩いてしまうところなど、まったく消えてしまったわけではありません。 ただ、「たくさんの人達とお友達になりたい!」 その思いだけで動いているにすぎないのです。

そんな考え方や行動は日本へ帰国してからも変わることなく、話したいなぁ~という人がいれば臆せずに声をかけてしまうし、私はそれを「楽しいこと」として位置づけるようになっていました。

しかしある方から、「それがあなたが一部の人から嫌われる原因なのよ!」と教えていただき、ここ二日間、真剣に考えました。
 
でも、正しい答えなんてないんですよね!

私は私でしかありえないから私の生き方しか出来ないし、嬉しいと感じた時は思いっきり喜んで、悲しいと感じた時は気が済むまで泣いて・・・ それが今を生きている私なのです。
こんな私を好きだと言ってくれる人もいれば、そんな私は嫌いだと言う人もいるでしょう。
でもそれって、当たり前のことなんですよね。
だけど私は、「私を好きでいてくれる人も、私を嫌ってくれる人も、私の方からは嫌いになりたくない」という昔からのモットーを変えるつもりはありませんし、頑固者ですから変えられないです。

それは理想論かもしれません。
だけど私は、こんな私のままで生きていくことしか出来ないし、これが私なんだもの!って・・・、 そんなベールがふわ~っと私の上に下りて来たみたいで、何だか急に幸せモードに入っちゃいました!
そのままの私で幸せを感じられるなんて最高だね! 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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理解と厄介 [座談会・懇親会]

昨日は、8月の支部法座でした。
自身が不安定な状態の中、初めて利用させていただく会場、久しぶりにご講師としてお迎えするG先生の体調、そして役員上層部間で日々強まる不協和音・・・、打ち合わせもないままにこの日が来てしまった・・・、そんな感じでの会場入りでした。

しかし、今回は知人(副住職)のお寺の本堂(冷房付き)を借りての御法座ということもあって、環境はすこぶる良く、初参加の10名を加えての40名をはるかに超える大所帯に、驚きと、嬉しさと、大変さで、目が回るような御座となりました。

この日のテーマは、「蓮如上人と『御文章』」。
でも・・・、私自身の気持ちはまったく外を向いていて、御法話中に何度も立席しなければならない立場に、ただ ただ 聞こえてくるのものは、自身の欲の叫び声と、特定の人に対する怒りの心のみ・・・。
それらを打ち消すようにお念仏を何度も何度も口に出させていただきました。 南無阿弥陀仏

そんな支部法座が終わってやっと帰れる! と安堵したのもつかの間、懇親会会場へ強制連行されて、一杯だけアルコールをいただいた後は、何度も帰るチャンスをうかがってはいたのですが、新規参加の方への対応をしていたので、なかなかタイミングがつかめず、挙句、ド壺に・・・

会話は支部の話しとなり、「仕事なんて、やらなければやらないで済んで行くよ!」と言う支部長と、その代行をして尻ぬぐいをしなければならない私の仕事量の多さにストレスはたまる一方・・・。
そのストレスが起因となり精神的にも不安定になってきて、「やらなければならないことをする時間がない・・・。 私がやらなければならない」 という新たなストレスが加わり、最近では、もう いっぱい いっぱいだと感じていて、メールをチェックすることも苦痛でした。
それが表面的にも出てしまったのでしょうか・・・、今度は本部の方から「私」外しが決まったと聞きました。
もちろん悪意でないことは説明を受けるまでもなくわかっています。 私に対する気遣いだと言うことも頭ではわかっているのです。
でも、私自身が、それがうまく受け入れができないのです。

昨日の懇親会でも、ある先輩から言われました。
「あなたのアメリカン的な性格はとても良いとは思うけど他人からは反感をかうのよ。 それでいて繊細な心をもっているからあなたとは一線を隔して直接関わりたくないの」と・・・・・
そこに先輩の隣に座って聞いていた支部長がここぞとばかりにアレコレと私の性格非難などを始められ・・・、「あぁ、この人は本当に自分ことが何も見えていないのに、自惚れだけは天下一品だなぁ~」、なんて冷静に彼を見ている私がありました。

先輩から言われたいことは理解できます。 けれど抑えていた疲れが ド~~~ッと噴出して来て、これをきっかけに懇親会を中座させていただくことにしました。

帰り道、地下鉄の改札口前で不意に倒れてしまったのですが、この時、なんだかすごく泣きたくなってしまったのですが、周囲の視線や、転んだ恥ずかしさもあったのでそこはグッとこらえて、駅で少し休ませていただいた。
そこへ何時く懇親会を中座した友人が現れて、彼が一緒に帰ってくれることになりホッと一安心。

でも・・・・・ いつまで続くんだろう・・・、このストレスは・・・・・
日々の生活に入り込んでしまった御法のお仕事からは、いろんなことを教えていただきます。
やっぱり私は仏法なんか大嫌い! ・・・。 とか・・・・・
でも、そのおかげで“南無阿弥陀仏”との出遇いは確実に増えています。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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ご挨拶 [心]

BLOGを、書きたくても書けなくなってしまってから、もう四ヶ月が過ぎようとしています。
きっかけとなった辛い経験は、遠い昔の想い出話しのようにも思えるし、つい昨日のことのようにも思えるし・・・・・  
でも、このままパソコンから逃げていては、何も仕事が出来ない・・・・・

特に気分の転換することががあったわけではないのだけれど、自分自身で第一歩を踏み出さなければいけないのだろうなと言う気がして、まずは、「何も書けない」という今の正直な気持ちを書くことにしました。

そんな自分の自分と向き合うことで、私は何に苦しんでいるのか…、何をためらっているのか…、何に怯えているのか… など、そんなことをほんの少しでもわかってきたならば、次はそれらを乗り越えるためにはどうしたらよいのかを考えていきたいと思います。

ここ数カ月、ご心配をくださった方々、励ましてくださった方々、どうもありがとうございました。
また、一歩ずつ、進んで行きたいと思います。


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自分は冷静です? [御法縁]

あれから体調は悪化の一途で・・・、まったく情けない限りでございます・・・、 いつ襲われるかわからない発作も怖いですが、それよりも自律神経系をやられてしまうと、正直、本当に辛いものがあります。

今日、友人から、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざをちょうだいいたしました。
「仏法に限らずとも、冷静な心持ちでいなくては、人の話は聞けませんよ!」ということを私に伝えたかったそうです。

そこで問題となるのが、「今、自分自身が冷静かどうか・・・?」ということを判断しているのは、私本人であるということです。 つまり、基準が「自分」iあるという自己判断であるということです。
しかし、「自分のことを正しく見る」とか、「冷静さを保つ」というのは、そうそう簡単に出来るようなものではなく、けっこう難しいものだと思うのです。
単純な例を申せば、飲酒をしてもうろうするほど酔っぱらった人などは、「まだまだオレは大丈夫~、酔ってなんかいなよ、まだまだいける」な~んて言ったセリフを耳にしたりしますが、他の人から見たならばどうでしょうか…? 疑問です。 逆に、ほんの少しだけ酔っている人などは、「ちょっと酔ったかな?」なんて、ある程度は自分を客観的に観察することが出来るでしょう。
しかしそれも、今ある自分の心の動き次第で、過剰評価したり、悲観的評価をしたりと、なかなか正確に自分を見るということは難儀なことでござます。 だって、私は常に「主観」であり、「客観」なんて出来ませんもの・・・。

今日の私は、とても落ち込んでいました・・・。
落ち込む原因となった昨夜の電話・・・、その電話でお話しくださった法友が心配して送ってくださったメールには、「調子に乗って自己を見失ってもダメだけど、落ち込んで自己嫌悪してもダメよ。 なぜならば、どちらの自分も自身(心)を見失っているということだからね」 と言った内容のことが書かれてありました。
自身を正しく見られない時は、人からの話しをちゃんと聞くことが出来ないということです。

しかし、いったいどれほどの人が、ちゃんと自分を見ることが出来ているのでしょうか・・・?
仏教的に簡単な言葉ですませてしまえば、「仏智に照らされてこそ、本当の自分を観させていただくのだ」ということを言われますが、今、私がここで申し上げたいのは、もっと軽く浅い今生的なお話です。

とある法友からメールを受け取った私は、世間一般的な評価では「過剰」と言われるほどの反応でその文面を読み、それを自分自身に受け取りました。 つまり、その文章にはひとつも「!」マークなど付いていないのにも関わらず、私にとってその文章は、かなり威圧的で、とても攻撃的で、冷血な冷たさをもった命令的な…、そんな弾圧的な、「!!!」マークだらけの文章として読むことしか出来ませんでした。

文章や言葉のやり取りと言うものは、お互いの人間関係におおいに反映されますし、その時の気分で大きく変わることもあるでしょう。
しかし、少なくとも相手に心意を伝えたいと思ったならば、「言い方(書き方)」というものをしっかりと考える必要があると私は思うのです。 そこには、文章の上手い・下手よりは、どれほど誠意を伝えられるか…、ということにあるのではないでしょうか。

現に、「元凶は君にあるんだからな」との私に対して弾圧的なメールを送ってきた人自身も、私からのメールのみならず、その他の人から送られたメールや言葉に対して、その人の心意を深く汲みとることなく、自分勝手な受け取り方で相手を攻撃したり、見くだしたり、又時には悲観的に読んだりと・・・。 結局、自分の「思い」のところでしか読むことしか出来ていないのです。 それが悲しいかな…、自身にわかっていないのです。

だからこそ、少しでも冷静な自分でいなければ、相手の話(メール)を聞くことは出来ません。
High tensionでも、feel downしていても、自己嫌悪したって、怒り心頭であっても、恐怖心を抱きながらでも、ダメなのです。
しかし、「自分は冷静だ」と思っている人(時)こそ、一番ダメなのかもしれませんね。

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突然のメール [御法縁]

今夜も眠れそうになくて・・・・・  雨が降っているせいでしょうか? なんとなくBLOGを書いてみる気になりましたので、書いてみようかな・・。

自分の行動や言動というものは、なかなか自分自身では、その善し悪しなどというものはわからないものです。
たいていの場合、自分のことは棚上げにして、「自分は善し」、「相手が悪し」と決めつけて曲げようとしないのが私たち凡夫の性ですからね~ぇ・・・、厄介なことです。
「人の振り見て我が振り直せ」ということわざではないですが、他人の立ち振る舞いを見て、まずは相手の悪愚痴が出てきます。 そしてことわざには、「我が振りを見直せ」とありますが、実際はこれに反して、我が過ちを直す人など、なかなかいないのではないでしょうか。 
しかし、お念仏の御いわれを聞いた人であればハタと気が付くはずです。 「あぁ、我が身も同じだなぁ~、人のことなど言える身か・・・」と。
たとえ謝罪することが出来なかったとしても、自分が言ってしまったことや、やったことに、あぁ…、恥ずかしいことをした・・・、なんてバカなことをしたんだ・・・、などという心が起こってくるのではないでしょうか?
今回の件では、わたしには、いったいどんな成り行きで、何故に相手が疑心暗鬼に誤解しているのかが全くわかりませんでしたが、「相手のせいにしているのはお互いさまだなぁ~、自分は言い訳ばかりだなぁ~」 と教えられました。

この話しは二日前の金曜日のことでした。
一方的に誤解された上で酷く罵られたメールを唐突に受け取ったのです。
私は何のことやらさっぱりわからないままでしたが、そのメールの文面からパニックに陥ってしまい、また発作に見舞われてしまいました。 そしてどうしたらよいのかわからなくなって、薬を乱用することしか出来ませんでした。
しばらくして少し落ち着いてきたところで、事の内容を確かめたく、そのメールに書いてあった名前の方に問い合わせてみたのですが、その方も、「彼が何を言いたいのか意味不明・・・。 妄念か…?!」と・・・・・。

でも、そのメールにはいつも同様に、「事の発端はオマエが原因で、オマエが悪いのだ!」と書いてあることから、私に対して謝罪を要求しているのだろうとは思ったのですが、でも、話しの脈絡がわからないのです。
ただ私に発作を起こさせたいのか・・・、れとも、また追い込んで楽しみたいのか…、とさえ勘ぐってしまうようなメールでした。

しばらくして発作は治まったものの、昨日も今日も体調はガタガタです・・・・・・。
つい数ヶ月前でした。 彼から、「僕のせいで病気になったのだから、僕が命がけで君の病気を治す!」、「君の病気を治すことが僕にとって最優先の課題なんだ!」などと言っていたあの言葉が、私の頭の中で空回りをしています・・・。
ああ・・・、本当に世間は虚仮だなぁ~ と、しみじみ身に沁みました。

もう一つ、ことわざをあげるならば、「人の悪きは、我が悪きなり」です。 つまり、相手が自分に対して悪意を持った態度を示してくるのは、こちら側に原因があったからだということです。
私は、なかなか反省など出来るような高等な人間ではありませんが、彼にとって私という存在は、「最も悪しき人間」なのだろうなぁ…」 ということくらいは推測出来るので、今一度、我が身を振り返ってみようと思っています。

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孤独とお念仏 [日々雑感]

本当は、誰もが皆、孤独なのです。
愛する人と二人で肌を触れ合っている時も…、永遠に続くかのように錯覚してしまう家族と共に過ごしている団欒の時も…、気のおける親友らと沢山で腹の底から笑って合って楽しんでいる時も…、そして、一人きりで青空を見上げている時も…、 みんな みんな、孤独なんです。
でも、孤独であることがイヤだから・・・、 孤独である自分を認めたくないから・・・、 だから皆、自分に嘘をついて、自分が孤独であることを忘れようとしているのです。

私は、病と闘いながら思いました。
「孤独だな・・・、 私は、独りぼっちだ・・・」と。  それは、とても寂しくて、悲しくて、怖いことでした。
そんな時に思い出したようにお念仏を称えるのです。
小さな 小さな声で、ぼそぼそっと、「なんまんだぶつ・・・ なんまんだぶつ・・・」と称えるのです。
でも、私が孤独であることには何ら変わりません。 
お念仏を称えたからとて阿弥陀さまと共感できて安心だなぁ~とも思えません。
ただ、孤独を孤独とあじ合わせていただいているのだと、そんなふうに思いました。

私の病は、身体も心も容赦なくむしばんでいきます。
だけども たった一つ、私のお念仏にだけは手を出せずにいます。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

私は孤独です。 一緒にいてくださる阿弥陀さまがおられようとも、孤独な私はここにいます。
だけど、そんな孤独を誤魔化さず、我が身に受け入れられるのは、お念仏のおかげだと思います。
「南無阿弥陀仏」は、私の孤独を癒してくれるおまじないでも、おもちゃでもありません。

私と共に、孤独を共感してくれる南無阿弥陀仏がここにあるから、私は孤独のままに生きていられるのだと私は思います。

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今後の目標 [日々雑感]

立て続けに大きな仕事を抱え込み、それらを何とか無事に終わらせることが出来まして、ホッと一息ついています。
ただ、無理を重ねせいでしょう・・・、少し体調を崩してしまいました。
今、また大きな仕事に取り掛かっています。
「一度でも、シンドイと感じたらやめてもいい」と言われましたが、私は、シンドイことが好きなのでやめる訳にはまいりません。 そんな天の邪鬼な私なのです。

そんな中で今一つどうしてもやりたいことがあります。
私から何も発表しなくても、既に一部のBLOGマニアの人たちにはご存知のことと思いますが、今、自分のBLOGの分散作業をしたいのです。 いわゆる仕分けですね (^-^;

今まで、namoamita に引き続いて、こちらのBLOGに移行しましても、仏法あり、ポエムあり、旅行記ありと、何でもかんでも書き込んでおりましたが、それらを分散させたいと考えております。
仕分け作業と申しましても、こちらに書いてあるものすべてを移行することは出来ませんので、今後書くBLOGについては、自分なり仕分けをしながら書いて行こうと思っております。
そ~ですねぇ~、 七月の初頭には皆さまにお知らせできますことを目標としたいですね!

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何もない [御法縁]

みなさま、お久しぶりでございす。 m(__)m

書きたくて 書きたくて 仕方のなかった時には、忙しくて書く時間がなかったり、体調が整わなかったりと書く御縁に恵まれずに、イライラッとした気持ちがここしばらく続いておりましたが、でも今日は、ホッと一息ついて、久しぶりにBLOGを書いてみようかなぁ~… なんて気持ちになったわけでありす。 が・・・・・
しかしながら、何もないんですね~~~。

もちろん、自分の中の感情は常に動いておりますし、自身を振り返りたいことや、外部に発信したいことなどはたっくさんございます。
でもこの『蓮華の薫るこの庭で』で書きたいことが、今は空ッポなのです。
つまり、私の中には、「仏」も、「法」も、それらの欠片すらも、何もないのです。

ですから、いざ書こうと思っても、私の中からは何も出て来ません。 出で来るものはしょうもない今生事の愚痴ばかりです。
いったい私から愚痴を取り除いたら何が残るのかしら? なんて考えてしまいます。
ここで、「仏法では、云々」といった講釈なんかしても仕方ありませんしね・・・

ただ、今は、本当に何もない自分だなぁ~ってところで、生きている・・・、生かさせていただいている意味をヌボ~ッと考えながら、眠気に襲われている、そんなところです。

   まことに知んぬ。 悲しきかな、愚禿鸞、
   愛欲の広海に沈没し、 名利の大山に迷惑して、
   定聚の数に入ることをよろこばず、
   真証の証に近づくことをたのしまず。
   恥ずべし、傷むべし。                  注釈版聖典「信巻」P266

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一日は20時間 [心]

BLOGにご感想やご意見をいただくのは、本当に嬉しいことですね。[黒ハート]
今までは、ほとんど気にしていなかったことなのですが、コメント欄を通して新たに問題定義をちょうだいしたり、お味わいをいただいたりしておりますと、このBLOGに書きたいことが次から次へと山のように湧き出てまいります。

今現在は体調の方も良いとは言えませんが、でも悪くもなく、デスクワークに支障をきたすようなことはほとんどありませんから、メールやBLOGのコメント欄などにお言葉をいただく中で、あれもこれもと書きたい気持ちがい~っぱい出て来て、とてもうずうずしているのですが・・・。
でも、今、急ぎの仕事を何件も抱えているので、なかなかBLOGにまで手が回らずに、書きたいのに書けないことが残念でなりません。

先日、そんな愚痴をある親友に漏らしたのです。
「一日が、あともう一時間でも長ければ、もうチョッとたくさんのことが出来るだろうに・・・」と。
そうしたから彼からこう言われました。
「奈っちゃん、一日は20時間しかないんやで え~ 一日が24時間??? そんなにもあったら、4時間も得したことになるやん!! えらいラッキーや!!!」 って。
[わーい(嬉しい顔)]スゴイでしょ、この発想。 自慢の親友なんです(^-^)v

私は、自分が人間であることも、地球が休みなく周り続けていることも、一日が24時間であることさえも、何もかも、すべてにおいて「当たり前」としてしかとらえていないのです。
でも本当は、「当たり前」なんてことは何一つとして存在しないのだと私は思うのです。
だってこの世の出来事でも、ホンのチョッと、1秒でも、1ミリでもズレていたら在りえなかった、起こりえなかったことだらけだと思いませんか?
科学者だって言います。 「地球の誕生は宇宙の奇跡だ」って。
じゃ~、宇宙の誕生は? それこそ奇跡でしょ?!
そんな奇跡の中に生まれさせていただいて、今を生かさせていただいている。 スゴイことですよね[黒ハート]

一日24時間、人間として生かさせていただいている奇跡の中で、私は自分の一生をどう生きるのか?
そんなことを考えいる余裕もないし、考えても仕方のないことなのかもしれませんけど、でも、ホンの数秒の間だけでも、このたっくさんの奇跡に対してお礼が言いたいですね、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・
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十力無等尊 (from Mr. IN) [御法座・仏法]

INさんより、新たにいただきましたメールも転記させていただきたく思います。
INさん、どうもありがとうございます。

 さて、僕ではとうてい捉える事の出来ない「十力無等尊」について、 真宗聖典の
 【脚注】には、以下の記述がございましたので、 ご参考までに、

 【脚注】 十力無等尊 = 十種の力をそなえてならびないので無等尊という。

       十力(じゅうりき) = 仏が具えている十種の力。

<1> 処非処智力。 道理・非理を知る力。

<2> 業異熟智力。 業とその果報との因果関係を知る力。

<3> 静慮解脱等持等至智力。 禅定や三昧を知る力。

<4> 根上下智力。 衆生の能力や性質の優劣を知る力。

<5> 種種勝解智力。 衆生の意欲や望みをあきらかに知る力。

<6> 種種界智力。 衆生の本性を知る力。

<7> 遍趣行智力。 衆生の人・天等の諸世界に趣く行の因果を知る力。

<8> 宿住随念智力。 自他の過去世のことを思い起す力。

<9> 死生智力。 衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力。

<10> 漏尽智力。 煩悩を滅した涅槃の境地と、それに到達するための手段を知る力。

 【脚注】では、「仏が具えている」と流してありますが、
 到底、般若腹蜜の智慧だけでは到達することが出来ない、想像を絶したお力とお智慧です。
 宿命通力・他心通力・を超えた観自在の神通力と方便智を備えた大乗功力ですね。
 仏陀ご自身は備えていらっしゃいましたが、入滅涅槃を求めるお弟子様方には必要の無い
 不思議なお力です。

 まさに、言葉も絶えたりの世界ですね。
 親鸞様は、それを、捉えていらっしゃった。
 でなければ、わざわざ引用する必要はありませんからね。
 そこが、また、すごいですね~。

 まさに、仏法不思議、如来様は、更に不思議  南無阿弥陀如来様

                               南無阿弥陀仏     合掌礼   IN


      

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十方諸仏同体の大悲 (from Mr. IN) [御法座・仏法]

INさんよりご丁寧なメールをいただきましたので、そのまま転記させていただく存じます。


「 INめの、素懐に、ご不審もおありかと思いますが、
 
 INは愚者なれば、日々念仏の縁に催され、
 ただ純心無垢に親鸞様のお言葉を、我意を混えず聴聞申し上げるばかりです。

 顕浄土真実行文類二の巻頭に

 「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり・・・
 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。・・・
 
 しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
 すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、・・・

 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま(十方)如来に対して弘誓を発せり。
 まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。
 もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。
 (追補:十力無等尊のお心をとらえる事はできない、もしご賛同を得れば)
 心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。
 広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}

 最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。
 善法を円満して等倫なけん。 大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「『われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、
 無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。
 諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。
 しからずはわれ作仏せじ〉と。」

 また、顕浄土真実信文類に十方諸仏同体の大悲を、

 「一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。
  一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」

 と、お示しくださっています。

 和賛にも、つまびらかにお書きくださっています。   『高僧和讃』 龍樹讃

 「安養浄土の荘厳は、唯仏与仏の知見なり、究竟せること虚空にして、広大にして辺際なし」
                                           
 「天人不動の聖衆は、弘誓の智海より生ず。心業の功徳清浄にて、虚空のごとく差別なし」

 大経にも 「去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。 今の仏も諸仏を念じたまう」 に始まり
 「往ごん偈」 に詳しくございます。

 十方諸仏、我執を離れたまえるが故に仏なのです。
 弥陀如来、正覚の初一念に十方諸仏如来皆歓喜賛同されたまいて、その聖衆と共に、来往され、
 弥陀等正覚をお開きくださいました。
 以来、十劫微塵世界に弥陀等正覚の如来満ち々々、深き大慈悲と智慧の光明によって、私たち
 一人一人を、念仏の道に歩ませて下さっているのです。

 これ、また自然法爾抄のお心でございます。

 宗祖の金言、重ねて、つぶさに、ご聴聞おねがい申しあげます。

 南無阿弥陀仏、ただただ、南無阿弥陀仏                   合掌  IN

INさん、どうもありがとうございました。
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ごあいさつ

毎年のように元日よりBLOGのお引っ越しをしておけばよかったのですが・・・
去年はその件で大変な苦痛を味わったあげくに病気にまでなってしまったため、今年は引っ越すことなくこちらのBLOGを休み休みではありましたが何とか続けてまいりました。
しかし、どのようなスタイルにいたしましても、人の思いはそれぞれでございます。 各々の方の見解での良し悪しの申し立てもございます。 それはそれでとても有り難いことだと思っておりますが、これにいちいち振り回されて、励まされることもあれば、心を痛めて動けなくなってしまうこともございます。
まぁ~、これも私の私の性分にございますので、何ともいたし難いところもあるのですが・・・。

しかし今回、少し先のことを見据えまして中途半端な時期ではございますが、こちらのBLOGの縮小と分割化を進めることはにいたしましたことをご報告申し上げます。
今はまだ準備段階でございますので、もう少しフォームが整いましたら、順次ご連絡をさせていただくことにいたします。 ご心配や励ましのMailをくださいました方には、心より感謝いたします。 どうもありがとうございました。 本当に嬉しかったです。

さて、こちらのBLOG 「蓮華の薫るこの庭で」 には、御法的なお味わいを中心に、偏った教義に囚われること私なりに書き綴って行こうと思っております。
その他、旅行記や想い出、Poemや和歌、日々雑感・その他お味わいなどについは、別のBLOGにいてお楽しみいただけたらなぁ!なんて思っておりますので、今しばらくお待ちくださいませ。

それでは、親愛なるINさんのお言葉を拝借いたしまして、

この上なき如来様の、この上なき慈しみに満ち溢れた御心とその御心を讃え、等しき智慧と慈愛に目覚め、阿弥陀如来としてまします、十方世界の全ての如来様の智慧の御光に 南無阿弥陀仏  合掌礼

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生きる喜び [座談会・懇親会]

この日の御法話は、「生きる喜び」というテーマで、G先生がお話しくださいました。
「生きる喜び」というのは、とても とても 簡易なお話しであると同時に、とても とても 難義なお話であると思います。
まず、「生きる」ということ一つ取ってみても、測り知れない奥深さがあります。
「生きている」ということを当たり前と思っているのが私ですが、源信僧都さまは『横川法語』にて、「まず、地獄界・餓鬼界・畜生界という、仏法を聞くことの出来ない三悪道という世界を離脱して、仏法を聞くことのできる人間界に生まれさせていただいたということは、なんと喜ばしいことであろうか」と示してくださった通りに、人間として生まれさせていただいたというのは、本当に 本当に 奇跡なことでございます。
このことを知ることさえも難しいのに、ましてやこれを「喜べる」などというのは、難中の難。
しかし、これ以上の喜びなどこの世には存在いたしません。 これは一時的な幸福などというものではありませんもの。
「生きる」とは何か…、その「喜び」とは何か…、このテーマに、御法の重さをズッシリと感じました。

「生きる」というのは、本当に大変なことでございます。 難あり、苦ありと、人それぞれ一様ではございませんが、皆各々に頑張って生きているのです。 でも、頑張っても報われず他人のせいにしてみたり、自分のレベルで他人と比較したりしては嘆いてみたり、思い通りに事が運ばないことに絶えず愚痴っているのが私です。
それは何故でしょうか・・・・・・
それは、私は自分の力で生きていると思っているからではないでしょうか。
源信さまはおっしゃいました、「間断のない責め苦にある喘ぐ地獄界の苦しみや、食欲しかない餓鬼界の辛さ、また、事の判別もつかぬ畜生界の嘆かわしさ、そして、戦いに明け暮れる悲しみと恐怖ばかりの修羅界、これらの世界と比べたらならば、この人間界に生まれさせてもらったといことは、何にも変え難い喜ばしいことなんだよ」と。

でも、人間界は四苦八苦の世界です。 生れる苦、老いていく苦、病を負う苦、死んで行かねばならぬ苦、それと、愛する者と別れねばならない苦(愛別離苦)、怨み憎んでいる者とも付き合わねばならない苦(怨憎会苦)、求めるがままに得ることの出来ない苦(求不得苦)、そして全ての精神的な苦脳(五蘊盛苦)など、人間として生きていくということは、苦しみに満ち満ちております。
しかし、この苦しみを苦しみとわかるのは人間に生まれさせていただいたからであります。
だから仏法が聞けるのです。 仏法の聞けることを喜べる世界と出遇うことができるのは、人間界だけなのです。

Sちゃんからこんなことを教えていただきました。
「仏法を生きるために利用してはならない。 生きることを利用して仏法を聞くのだ」 と。
源信さまがお示しくださった、「世の住み憂きはいとうたよりなり」 と同だと思いました。
お釈迦さまが教えてくださった通りに 「人生皆苦」、この世を生きていくのはとても難しいことです。 
ですが、「その困難の一つ一つを厭うことを機縁として、仏さまの教えを聞かせていただけるのが人間界であるのだよ」 と。
源信さまが教えてくださった通り、私は、「生きて行くのが辛い…、もう死にたい…」との人生苦の中で、「辛い思いをさせてゴメンネ」と謝ってくださっている真の親様と出遇わせていただくことが出来ました。
もしも、この出遇いがなかったならば、人生は苦しいままに終わり、人間に生まれさせてもらったことを真に喜ぶということなど出来なかったでしょう・・・。

それでもなお私は、「あ~良かった、楽しかった」とか、逆に「あ~悔しい、辛い」だとか、我が身の上の出来事にばかりに一喜一憂して、人間に生まれさせていただことを不思議とも思っていなければ、有り難いとも思っておりません。
だけれども、そ~ゆ~ことがわかるのです。 人間だから。 
わかることはわかる、わからんことはわからんと。 道徳や理屈も、教えもらったからわかるのです。 そして喜びや悲しみ、感じることが出来るのも、これを相手に伝えることが出来るのも、人間として生れさせていただいたから出来ることであります。
しかし、ただそこに留まっているだけでは本当の喜びには出遇えません。
人間に生れさせていただいたからこそ、仏法を聞かせていただける身となり、「お育ていただきました」というところで如来さまのお心に触れさせていただいて、そして、生死を越える教えと出遇わせていただいたと言うことが知れた時に初めて、人間に生れさせていただいたことを喜べる身にさせていただけるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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さくら さくら [随筆日記]

先週、四月初めの週末には、まだ一分咲きだった桜の花。
この一週間は体調を崩してしまい、どこへも出かけることが出来ないままに過ごしてしまいましたが、今日は支部法座のある日…、どうしても出席せねばならなくて渋々と外出をするにあたり、乗車駅からは少し離れているものの、桜まつりをしている公園の駐車場に車を止めようと思い、少し早目に家を出ました。
そろそろ満開を迎えているかなぁ・・・と思っていた桜の花も、既に満開を過ぎていて新芽が出ていることに少々驚き、「時の過ぎるのは何と早いことか」と、目に実感いたしました。

「諸行は無常である」と言葉にするのは簡単なことです。
でも、これを我が身に引き寄せた時、「諸行無常」とどれほどにわかっていると言えるでしょうか・・・。
時計の針を見ていれば、刻々と時間は過ぎていきますが、自分自身はどうなのか…、ということです。
細胞レベルで言えば刻々と歳をとっているでしょうし、感覚的にも時間が過ぎて行くのは理解できます。
同じことですが言い方を変えれば、「生ある者は死す」と言うことです。 生れさせていただいた以上は、必然的に死に向かって生きているということを、我が身がどれほどにわかっているか?と言うことです。

キャンパス.JPG左の図は御法話で示された、生れてから死ぬまでの一生を山の絵にしたもので、例えば80歳まで生きたとすれば頂上は40歳です。
しかし、自分の寿命などわかる人はおりませんから、この図が完成するのは死んだ後のことになります。
ただ、この日の御法座でG先生が、「今、みなさんはどの辺りにいるでしょうか?」と質問をされた時、誰もがみな、この図のどこに今の自分を置こうかと迷いながらも、「半分を過ぎたところかなぁ?」、「もう終わりの方かしら?」なんて言っていることに私は少し驚きました。

この図でいけば私はちょうど山頂の所になりますが、仏法を聞くということは、今が何歳であろうとも、自分はいつも一番右端の下のところ、「死(80歳)」の淵にいるのだということを聞かせていただくことです。
生死というのは例え話でも何でもない、自分自身のことなのです。
でも、これは頭でわかっているだけのこと・・・。
実際の私は、やっぱりお山のてっぺんにいて、「死」が…、「終点」がどこにあるのか、まったく問題にしていないのです。

さくら さくら
今朝、車を止めた駐車場に夜になって戻ると、フロントガラスの上に桜の花びらが数枚落ちていました。 見上げればチラホラと舞い散るさくら。
さくら さくら
こうして今日が終わるということは、刻々と死に近づいていているということです。
桜のことでも、他の誰の事でもなく、この私が落ちる日が今とも知れずに近づいているということです。
さくら さくら
舞い散る桜の花びらを手に取るように、私は親の手元へと落ちて行きます。 南無阿弥陀仏

キャンパス (3).JPG

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Tsunami (津波) [随筆日記]

もう三週間も経つのですね、あの巨大地震、あの大津波から・・・・・・
地震が発生したのは、2011年3月11日14時46分頃、太平洋岸三陸沖が震源地でした。

伯父の消息は未だ不明のままです・・・。
4月1日現在で、死者 1万1734人、行方不明者 1万6375人、避難所生活者は 16万6千人を越えると言われています。 父の実家のある宮城県だけでも今現在で 7千数百人の方々の死亡が確認されており、阪神・淡路大震災で亡くなられた方の数を大きく上回ってしまいました。
甚大な被害をもたらしたのは、もちろん地震そのものの大きさ、日本国内観測史上最大のマグニチュード9という過去にない程の大きな揺れもありますが、この地震によって発生した計測不可能なほどの巨大津波による被害は、測り知れないものであります。
三陸海岸では15メートルを軽く超え、岩手県大船渡市の綾里湾においては、30メートルを越える津波が押し寄せたとされています。 ひとたまりもありません。

幼い頃、松島湾で海水浴を楽しんでいる時に父が言った言葉を思い出しました。
「津波というのは、大きな波が来るだけじゃなくて、海水が突き上がって押し寄せて来るのだよ」と。
小学生である私の背丈ほどの津波でも家が壊されてしまうほどに、海の力は大きくて怖いのだと父は教えてくれました。 でも、その頃の私には、「海水が盛り上がる」というイメージをすることすら出来ませんでした。
その後、アニメやシネマなどで津波を取り扱ったものもいくつか目にしましたが、それは腹が立つほどに今回のものとは似ても似つかない、甘くきれいなものでした。
今回、TVnews や Youtube などで見た津波の映像は、それまでイメージしていたものとは全く違って、海水の透明度もなければ、泳いて行かれるようなものでもありませんでした。

「Tsunami(津波)」という語が国際語として使われるようになったのは、ちょうど65年前の今日、1946年4月1日に北太平洋を震源とするアリューシャン地震によって発生した津波が、ハワイ島に甚大な被害をもたらしたことがきっかけになったそうです。
マグニチュードは7.8。 アリューシャン列島のウニマク島では海抜40メートルの高台にあった灯台が破壊されたそうです。 これを受けてアメリカで「Tsunami」という言葉が学術用語として使用されるようになりました。

それよりも更にさかのぼること50年、1897年にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が出版した著書の中において、英語の文献として初めて「Tsunami」という語が使われました。
これは、『 Gleanings in Buddha-Fields 』、日本名で『仏の畠の落穂集』という著書の中にある 「A Living God (生神)」 という章に、和歌山県で起きた大津波の記録がほぼノンフィクションで書かれてあります。
1854年、作中主人公である浜口五兵衛さんは、のちの逓信大臣となられた浜口梧陵さんのことで、大津波から村人を守るために、村の稲束に火を放ったまま寺の鐘をつかせ、村人全員が丘へ避難するまで消火せずに、村民の命を救ったというお話です。

何事においても、想像しているだけは本当のことは何一つとしてわかりません。
実際に体験・経験した人でなければ、その怖さ、辛さ、悲しさはわからないことです。
それでも人は、時が経てば忘れてしまうのですから・・・・・
また、そうしなければ生きて行かれないというもの事実でしょう・・・。
人間のもろさというものを、この身に、この心に、感じずにはおれません・・・・・・・

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春です。 年度末です。 [随筆日記]

三月も今日で終わってしまいます。 と言っても、後一時間と少々です。

今日は朝から気分が優れなくて、やらなければならないことは山とあるのに何も手が付かず、バルコニーに置いてあるブランコに乗って揺られながら、貴重の時間を、ぼ~っと過ごしてしまいました。
春の冷たい風は、少し火照った頬には心地よくて、そんな中、いろいろなことを考えていました。

昨夜、親友との電話の中で母のことを話したせいでしょうか・・・、夢の中で母に逢いました。
いつも夢の中に母が出て来る時は、「あれ? お母さんはもう死んじゃったはずなのに・・・。 あぁそっか~、これは夢なんだ!」って、どこなく自覚しながら上の方から見ているもう一人の自分がいるのに、昨夜見た夢はいつもとは違う感覚で、母と一緒の時間を、一人の人格として共有できたように記憶しています。 もっとも、残念ながら夢の内容までは覚えておりませんが・・・。

昨夜私は、その法友に言いました。
「私は、私の母が人生をかけて教えてくれたことを・・・、母の壮絶なまでの死にざまを・・・、決して無駄にするわけにはいかないのです」と。
彼は一言、「重た過ぎる・・・」とだけ言いました。

確かに、一人で背負っていくのは苦しいことです・・・。 
現に今、こうして迷いのドツボにハマって動けなくなっている私がいるのですから・・・。
でも、私自身が抱えて行かなくっちゃならないことなんだって・・・、改めてそう思いました。

さてさて、とうとう今日期限の仕事を終わらせることが出来ませんでした。 申し訳ない・・・。
今年度もあと一時間で終わりです。 新年度は気持ち新たに頑張らねば・・・!
春はもう来ているのですから。

2011.3.25 春.JPG

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