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『法句経』 難き主を得 [仏法]

最近、原始仏典に興味を抱くようになって、中村元:著 『原始仏典』などを読んだのですが、その原始仏典の中でも最も古くて最もポピュラーなものの一つが『法句経』(Dhammapada)であるということを知りました。
その『法句経』には、お釈迦さまのお言葉が書かれてあるとのことでしたので、今、アルボムッレ・スマナサーラ:著 の 『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』という本を読み始めたのですが、時に釈然としないものも書かれてあります。
そこで、青空文庫の『法句経』(荻原雲來訳註)と照らし合わせながら読んでいるのですが、やっぱり、ふむふむフム~? と思うようなお言葉もありまして、『経』に対して、屁理屈で対応している自分、また、自分の考えの方が正しいと思っている自分、そして、自分勝手な解釈に読み合わせてしまっている自分というものが、よくよく見えてきます。

『法句経』は、26章からなり423の偈文で構成されている短詩型の教説を集成したものです。
第一章は、対句になっていて、例えば、

一, 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し穢れたる意を以て語り、又は働く時は其がために苦の彼に隨ふこと猶ほ車輪の此を牽くものに隨ふが如し。
(私訳 : 物事と言うのは、まず心が先行し、心こそが最大の原因であり、その心をもとに作りだされる。 もしもその人がけがれた心で、話しをたり、行動をしたならば、苦悩がつきまとうであろう、牛が荷を運ぶ時に車輪の足跡を残すように。)

二, 諸事意を以て先とし、意を主とし、意より成る、人若し淨き意を以て語り、又は働く時は其がために樂の彼に隨ふこと影の離れざるが如し。
(私訳 : 物事と言うのは、まず心が先行し、心こそが最大の原因であり、その心をもとに作りだされる。 もしもその人がけがれなき心で、話しをたり、行動をしたならば、歓喜がついてくるであろう、その影がそのものから離れないように。)

全部が全部ではありませんが、モラルが書いてあるような経文であり、漢文や和訳故に、読む人その人の解釈一つで大きな読み違いをしてしまうという怖さもあります。
ただ私は私なりに、「釈尊は、何故このようなことを言われたのかしら?」などと考えたりしていると、まるでお釈迦さまと会話をしているようで楽しいと思って読んでおります。

最後に一つ 第十二章 160偈 より
一六十, 己を以て主とす、他に何ぞ主あらんや、己を善く調めぬれば能く得難き主を得。
(私訳 : 「私」という自己の主は、「我」でしかない。 この「我(自己中心)」の主であるのが私であるという他に、いったい何者がいるというのであろうか。 この「我(我執)」を よく よく 観させていただき、その意味を知る者は、得難き主と共になる。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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