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どこへ帰る? [心]

困ったものです・・・  コイツは・・・・・・   もちろん、私自身のことです・・・・・・
人様から厳しいご指摘を受ければ、それを必要以上に抱え込んで、自分で自分を責めることに終始しながら自己否定の体制に入ってしまう・・・・・  でも、それが辛過ぎると、自己防衛機能が作動して、自分で自分を慰めながら現実逃避の体制にも入ってしまう・・・・・・
結局は、この世のモノすべてを自分の都合に合わせて取り込みながら 「私」を護ことに全力投球するばかり・・・  真実からは常に目を背けて、不実の自分の上に 自己創作の真実モドキなるものを積み上げているのに過ぎません・・・・・。

私が私であることを責めているのは、他の誰でもない私自身でした。

「君はこうだからダメなんだ、 君のそ~ゆ~ところが間違いなんだ」 との御法の上でのご指摘も、鉄砲玉を除けるが如くに聞き流し回避しながら・・・、 でも、その玉を拾い集めて自分の中に取り込み、毒素というスパイスを加えながら自分流に調理した上で、これを飲み込もうと必死になっているのです。

私が傷つかないように・・・  それしか考えていないのに、自分で自分を傷つけることは得意なのです。
そして、「だから私は聞けてない・・・」 との結論から抜け出せぬまま、如来さまをも傷つけて・・・・・。

私は聞けない・・・  聞いても無駄・・・  私にかかれば、御法も何もかもが虚仮不実の屁理屈になってしまうだけ・・・  私は、仏法をもてあそんでいるだけ・・・・・・
だったら、もう 止めちゃおぅ・・・・・・  聞くのも、 書くのも、 考えることもやめにして・・・、 心に浮かんできたことも、 フッと感じさせていただいたことも、 みんな否定してしまおぅ・・・  私が傷つかないために・・・・・・
そんなんなんです、 私というヤツは・・・。  仏法も、いただいた命… 自分の人生をも、虚仮にしてしまっている・・・、 そんなヤツなのです。  身も心も遊び人、 嘘の塊、 不実の固体、 それが私です。

そんな私が死んでいくのです・・・。 
それが ど~ゆ~ことなのか、まったくわからないままに、ただ 「死ぬんだよ」 と 教えられました。
そこにかけられた如来さまの御心・・・・・
私は、自分が死んで行かなくっちゃならないということもわからないのに、そこの一点にかけられている如来さまの願いなど、どうして知ることが出来ましょう・・・  わかるはずが ありませんよ・・・・・!
だからこその御本願なのだから。

旅の途中、恥知らずな自分を知らされて、不眠症と戯れながらの深夜のBLOG・・・。
また、最悪な私をさらしつつ・・・、 でも、 また書けるようになってよかった…(?) です。
一週間もの長旅でしたが、今日、夜が明けたら自宅へ向けて最後のドライブで帰路の途につきます。
無事に帰宅出来ると思っている私です。 
でも、「お前の帰る場所は地獄だよ」 と教えていただきました。 南無阿弥陀仏
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身から出たサビ [心]

子供の行動を見ていますと、「因果の道理」 が とてもわかりやすく解説されているように思います。
もちろん、私の思慮できる程度のもので、今生事の域を超えるものはものではありませんが・・・。

ある程度のことではありますが、先の予測の出来る大人が、「これをやってはいけません! 危ないですよ!」、「それをすると大変なことになりますよ!」 との忠告を子供に促したとしても、子供はその言葉を耳に聞いていながら、「わたしは そうは思わない!」、「わたしだけは大丈夫!」 などと、自分の知識の範囲を超えるものを受け入れることが出来なかったり、また、危険かもしれないと思いつつも自惚れた自身の思いでこれらを否定したりと、 結局、大人の忠告を無視して自分の思いを遂げたその結果を、後々に 我が身で受けることになります。
そして、「ほらぁ! だから言わんこっちゃない!!」 との結果になれば、大泣きをしながら 誰か他の人のせいにしたり、何か物のせいにしたりして、 自分が悪かった・・・ との反省をすることなど まずないでしょう。

でも、これって 子供に限ったことではありません。 私は大人で、子供よりも賢いと思っている この私自身のことなのです。
ある程度の予見どころか、如来さまにはこの私の未来がハッキリと見えていらっしゃいます。
そして、これを あの手この手を使って この私に教えてくださっているのに、私といえば 「そんなん、想像も出来へん!」、「私に限っては大丈夫よ!」 などと 自分の知識や思いを根拠にして、その忠告を否定し続けるばかりです・・・。
しかし、いつかはその結果を、この私自身が受けていかなければならないのです・・・・・。
私が どう思おうが 思うまいが・・・、 私が 信じようが 信じまいが・・・、 私がまいたタネ(因)は毒花となって いつか必ずその実(果)を結ぶことになるのです。
この身が朽ちてから、「仏説 まことだった~!」 などと 悔やんでも もう 手遅れなのです。
だからこそ 如来さまは、「危ないよ! 大変なことになるよ! だから早く私の話しを聞いて! お願いだから聞いてください!」 って 頭を下げながら御忠告くださっているのです。
他の誰のためでもなく、この私一人のために 四六時中 御心配をくださり、絶えることなく叫び通しでお示しくださっているのです。

人間レベルではありますが、愛する者(我が子)の苦しむ姿など見ていられない・・・、いくら自身の造った業とはいえ 愛おしい者が苦悩の世界に落ちて行くのを見ていられない と・・・、 心配せずにはおられない親心というものは、親としての経験がなくても 親を持つ人の子として、また、何かを愛することの出来る人間的感情の上であったとしても、なんとなくでも理解することは出来るでしょう。

「心配する」という行為・思いは、とても自分勝手なものです。
子供が親心など微塵も知ることがなくても、親は勝手に子供の行く末を心配して、愛する者の幸せを願ってくださる。 こちらは何の心配もしていなのに・・・、 「心配しなくていいよ!」と言っているのに・・・、 親心を持ち出してきて勝手に心配くだされる。

鬱陶しいですね~  放っておいてくれたらいいのにね~   というのは、こちらの思いです。
心配で 心配で しかたがないんだ。 お願いだから、もう苦しまないで! 永遠の幸せを受け取ってください!  との思い・願いは如来さまのもの。 私のものではありません。
如来さまは、それをわかって欲しいだなんて言われるどころか、それがわからないあなただから心配でしかたがないんだよって言ってくださっている・・・。

私にはわからないのです。 如来さまの親心がわかるような知恵などないのです。
ただ、如来さまの子供として、親さまの御心を伝えてくださる方の口から ‘南無阿弥陀仏’の御心を この耳に聞かせていただくだけです。
何もわからない私だから‘南無阿弥陀仏’となってくださった如来さまを、この口から出させていただき、この耳に聞かせていただくだけです。
私は、それすらも出来ないような、駄々っ子なんです・・・。
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「私のモノ」ではなく 「私のため」 [心]

「子供」という動物のバッテリーは、恐ろしいほどに長寿命ですね~  彼らの辞書には「疲れ」という文字は存在しないのだということが、よくよく知れました。 (^_^;)

この世に生まれ出てからたったの三年半しか経っていないアミリヤですが、彼女には彼女の世界があって、その宇宙は彼女を軸に展開されています。 それが、不思議な感覚で目に映りました。
まず、「人間として生まれた」、「この世に人間としての生を受けた」 ということを、アミリヤの姿を通して考えた時に、複雑に絡み合った因縁の中にも、やはり一つの大きな力といいますか、これ一つなければ、今、私が、ここに存在することなど出来なかったのだろうなぁ~ と、小さな 一つ一つのご縁・出来事を通して教えて下さっているように思います。

私のことです。 母のお腹の中で細胞分裂を始めた時から・・・、 いえ、それ以前からかもしれませんが、つまり、次生といいますか、次の行き先を 「人間界」と定めていただいた時から、私にとっては 「すべてが ‘ 私のモノ ’」 なのです。
母体も、父・母の存在さえも、その全部が、「私のため」 ではなく 「私のモノ」 という位置づけです。
「私」 が 生きてこの世に生まれ出るために、私は母の身体を食い物にしながら十月十日を過ごし、この間に 「人間」としての外観を形成していただく・・・。  そして 母体から出て呼吸を始めた時から、「この世は私のモノである」 という認識のもと、我がもの顔で現世を生きているのです。

今にして思えば贅沢な我がままでしかありませんが、私は もの心着いた頃から、「どうして こんな父親のもとに生まれて来なくっちゃいけなかったの?」 と よくよく嘆き悲しんだものです・・・。 
そ~ゆ~文句を言う口も頭もその父親からいただいておきながら、私は 自分の理想に合わない父の存在を疎いて、自身を哀れむことに終始するばかりです。 それは 今も変わっていません・・・。
何故・・・?  私は、そんな父をも 「私のモノ」としているから、腹も立つし 欲も出てくるのです。
振り返ったならば、父が建てた家も、父が働いたお金で買ってくれた物も、父の地位や名誉さえも、「父のモノ」すべてを 「私のモノ」として 当たり前に生きて来ました。
父からいただき育んでもらったこの身体も 「私のモノ」ならば、その私の身に寄り添うもの、そのすべてを 私は 「私のモノ」にしてしまっています。 
私の目に映るモノも、 耳に聞かせていただいたことも、 その全部が全部 「私のモノ」です。
そんな ‘ 我欲 ’ ‘ 貪欲 ’ の 塊が 「私」 であって、そんな私を地軸に 「私」 という小宇宙は展開されているのです。 これに 何の疑問を持つこともなく・・・・・

三歳半のアミリヤと私と、何も変わるところなどありません。
歳を重ねて覚えたことは、「ズル」 だけです。 
自分の内っ側を隠したり、自分さえも誤魔化してゆく悪知恵を覚えただけで、中実は何も変わりません。

ただ、こんな私だと聞かせていただく御縁に恵まれたおかげで、こんな私なのだと観させていただく御光をこの身に感じさせていただいている・・・。  もし、アミリヤとの違いを述べるとしたら、この一点だけです。
これは、私が望んで観させていただいているのではなく、一方的なお働きで観させられています・・・。
何故?
人間として生まれさせていただいたその意味と、そこにかけられた 深い 深い御心を、この身で聞かせていただくため・・・。 
この世のすべては、「私のモノ」 として存在しているのではなく、「私のため」 に存在しているのです。
その意味、その御心をきかせていただくためです。
それがわからない私だから・・・ 「聞いて、聞いて」 と 頭を下げてくださっているのです。
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今、死ぬよ!! [心]

睡眠がとれるようになりました。 お薬を使わずに自力(?)で眠れて二日目、やっぱり嬉しいです。
あとは食欲が戻って、時々襲う難聴と、この目の回るような感覚さえなくなってくれれば、また外出できます~ぅ!  早く治れ! 早く治れ~!!
でも、来月からはスケジュールが立て込んでいるし、今月残りの一週間で少しでも時間に余裕がある時に溜まっている旅BLOGでも書かなきゃ~、な~んて思っていますが…、 食べBLOGの方も溜まっちゃっているしなぁ~…(^.^ゞ  まぁ、ぽちぽちと行きますわ~。

と、言いましても・・・  今、自分自身を見失っていて、何を書いたらよいのかわからず・・・、 それ故にこうして書いているわけでありますが・・・  「私は、今、何を思っているの?」 って・・・。

仏法聴聞を始めて、まるっと二年が経ちました。 短大ならば卒業ですね!
でも、この二年間で、私は何を聞かせていただいたのかしら… と 自らに問うた時、身をもって一言で即答できるものはなく・・・、 ただ遊び呆けて過ごしてきただけじゃない! と、改めて痛感いたしました。
結局、今生事の人生経験をさせていただいただけで、肝心なことは何一つとして身についてはおらず、この二年間 聞かせ続けいただいた「後生の一大事」についても、まったく何にもわかっちゃいない・・・。
恩師や、お世話になった先輩方のご恩に対しても、何一つとして報いることのできない私・・・。
たくさんの人にご迷惑をかけるばかりの二年間でした。
卒業するにあって・・・・・  な~んてね! 卒業出来るような成績ではないし、仮に卒業を許可されたとしても、きっと私にはそんな勇気もないのでしょうね・・・。

この卒業式に、「今、死ぬよ!」 って言葉をいただきました。 有り難いですねぇ~! (ホント[exclamation&question]
鏡を見て、「老けたなぁ~、 崩れてきたなぁ~」 っと実感出来ても、「この先、死ぬなぁ~」 なんて思いの出てくることなど、まずほとんどありません。
それどころか、明日になれば白髪がもう一本増えて…、ここのところのシワも もうチョッピリ深くなって…、 なんていう目先の老いすらも自覚の出来ない私です。
だから 「自分の死」 も、果てしもなく遠くの方へと追いやって・・・、目の届かない所にまで追いやって・・・、 まるで何もないかのように無視をして・・・、 いえ いえ・・・、 無視していることにすら気付くことなく生きているのです。

そんな 「自分の死」 すらもわからないようなヤツに、「後生は一大事!」 なんてわかるはずがありません。
そんな智慧があったら、「自分の死」 に怯えて、きっと生きては行かれないでしょうね・・・・・。
でも、「後生は一大事だぞ!」 と叫んでくださっている如来さまは、「後生の一大事がわからんおまえこそが正客ぞ!」 とおっしゃってくださっています。
それがどうして聞けないのでしょうか・・・? こんなにも都合の良い話し、他にはないでしょう・・・!
「おまえの後生を救わせてくれ! 必ず仏にしてみせる!」 との 願いを・・・、 誓いを・・・、 その御心を・・・ 聞いても、聞いても、 わからん、わからん と口答えするばかり・・・・・。

「今、死ぬよ!」
それを心配しているのは当の私ではなくて、私の後生を救わせてくださいと頭を下げておられる如来さまの方です。 
わからんもんは、わからんのです・・・。  私のちいちゃな智慧は有限です。 私には理解出来んこと と、如来さまはわかっておられる。
私は死ぬまで卒業することなんて出来ません・・・。 死んでも無理かも・・・・・。
でも、「そうはさせん! もう迷わせん!」 との誓いをもとに、「後生は任せよ!」と叫んでくださっている声を聞かせていただいています。
「奈っちゃん! 何をグズグスしているの?! 今、死ぬよ!! 死ぬんだよ!!!」

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「愛」とは 「執着」 [心]

誰も皆、「愛されたい」と思っているのではないですか?  
少なくとも私自身、物心のつく頃より ずっと ず~っと、いつも いつも、愛に飢えて生きてきました。 
どんな些細なことでもいいから愛を感じたいって、そればかりを願って生きてきました。
私・・・、 親から抱きしめてもらいたかったのです・・・・・・。 その胸を、その腕を、絶えず 探し さ迷ってきたように思います。
そもそも、それが 迷いなのですよねぇ・・・・・・。

「愛」 とは、「執着」 だと教えていただきました。
でもね、 私は、愛を求めていながらも・・・、 そこに落ち着きどころを感じていながらも、 「危険」という香りを嗅ぎつけた途端に、すぐに手放しちゃうんです・・・。 執着心が薄いのでしょうかねぇ~ ・・・?
いえ いえ、 私は傷付きたくないだけなのです・・・。 自分が可愛いだけなのです・・・。
ヘンですね~ぇ?!  自分で自分を愛して止まないのに、もっと もっと 愛が欲しいだなんて!
でも、所詮、私の愛なんて、こんなにも理不尽で、これっぽっちのチンケなものなのですよ・・・・・

それにしても、如来さまの「愛」ってスゴイですよね! ものすごい「執着」ですよ!!
私が あっちこっちと真逆によそ見をしていても、そんなの知ったことと問題にはされず、 私が どんなに否定し 拒絶しようとも、一方的に、いいよ いいよと許容され、 私が どれだけ楯突いて 傷つけようとも、ごめん ごめん と謝られ、 私が どこどこまで逃げて行こうとも、とてつもない執念で追っかけて来て放されない!!!
これ以上ない、そしてこの世にはない無限大の愛で包んでくださっているというのに、私は、まだ足りない、もっと欲しいと愛を要求し続けて止むことがない・・・・・・。 
それが どんなにかえげつないことか… ということも知らずに、愛欲の心はますます増幅するばかり・・・。
如来さまの愛は、とても凡夫には真似出来ない・・・、想像することすら出来ない究極の、真実の愛です。

あ~ぁ! イヤんなっちゃう!!  何にイヤんなっちゃうのかわからないけど、イヤんなっちゃう!!!

世間ごとですが、自分の思い通りにならないことで腹を立てておられる方が、「愛」という言葉を使っておられることに、傍で見ていてどうしてもしっくりとこないのです。
たとえ凡夫の愛であっても、自分の気持ちを一方的に相手に押し付けることを、どうして「愛」と言えるのでしょうか・・・。 相手の事情も心情も何一つ受け入れようとはせず、自身を正当化することに終始していて、それがどうして「愛」と言えるのでしょうか・・・ って、 傍で見ていればわかることを、どうして当事者たちはわからないのでしょう・・・・・

な~んて・・・、 人に言っているのではなく、私自身に言っているのです。
だって私は如来さまに同じことをしている・・・。 
如来さまの御心も、願いも、私にとってはど~でもいい! ただ私の気持ちをわかって欲しい! 私の願いを叶えて欲しい! もっと もっと 愛して欲しい! もっと もっと もっと もっと もっと もっと もっと もっと ・・・・・・・ って、切りがない・・・・・・・
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人をもって鑑(かがみ)となす [心]

人の心って、怖いですね・・・・・  ここ三日で、一年分の総仕上げといいますか、卒業試験でも受けているかのような経験をさせていただきました。
それで、自分の内を整理したくて・・・・・、 何せ私の場合、考えているだけでは散乱するばかりですので、おおざっぱなところだけでも文字にしてみようと思い、ここに書くことにしました。

一日に何通も届くメール。 それを受け取るのが嫌なわけでも、読むのが嫌なわけでもありません。
ただ、そこで その人を通して観せられる「自分」というものに嫌悪して、少し憂鬱になっているのでしょうねぇ~。  なんて…、 今は、ちょっとばかり客観的なところから「自分」というものを見ています。
それが 良いことなのか悪いことなのかは判断しかねますが、当事者でありながら自身の感情に流されることなく、「あぁ、そうなのだ~ぁ」 と 観ていられるのは、今の私にとっては良いことなのかもしれません。 

そうは言うものの、自分のことって 全く見えていないですね~、 今回も、またまた知らせていただきました。
相手のことを、あ~だ、こ~だ と言っている自分はどうなの? 棚に上げていない? と こちらからは見えるのですが、当の本人となると、「自分のことは自分が一番よくわかっている」 とか…、「自分の目が外向きに付いて自身が見えていないことなど百も承知」 とか…、 どちらにしても、「見えていない自分」というところが棚上げ状態になっています・・・。

以前、このBLOGでも 「ジョハリの四つの窓」というお話しをさせていただきました。
http://aa-mujyou.blog.so-net.ne.jp/2010-02-26-3
「見えない窓 (Blind Self)」 といいますのは、この私自身のことなのに、他の人は知っているけれども、当人である私自身は知らない私・・・、 他の人には見えているけれども、当人である私には見えていない私・・・。
では、他の人にはわかっていて、当人だけが知らない私・見えていない私って、どんな私なのかしら? 
それは、ホンの一端だけでしょうが、相手を見れば見えてきますし、知れてきます。  ただ、私の経験上、頭に血が上っていたり、精神的に病んでいる時には無理ですね~ぇ・・・。

哲学を学んだことのある人や、仏教を聞いている人は、「見えない窓 (Blind Self)」があるということは知っているでしょうが、それを問題にしているのは、浄土真宗を通して聞かせていただくお釈迦さまの教えだけではないでしょうか・・・。

人と交わって諍い事が起きた時に、一方的に相手を責める人がいます。
オマエがこう言ったら!こうしたから!・・・、 オマエがこんなんだから!・・・、 オマエがこうしてくれなかったから!・・・ と、常に相手のせいにして、自分が気に入らなかったことを羅列する人です。
そんな人を相手に、「私だって!」 と 本音をぶつけたところで決して良い結果にはならないでしょう。 
たぶん、お互いがお互いに、相手が折れるまで自分の言い分を通そうとすることに終始するだけで、終わりなき戦いになってしまうかもしれません。

私の経験でも、そんな時、もちろん私には私の言い分もありました。 全部私のせいにしてもいいから・・・、 折れてくれなくてもいいから・・・、 でも、聞くだけは聞いていただきたいという気持ちも重々にありました。
だけど、相手の「見えない窓 (Blind Self)」を見た時に、それがあまりにも曇っていることに、二歩でも 三歩でも 引かざるをえないなぁ と思ったんです。 それは、自分にも言えることです。
私の場合は、曇っているどころか、まるで何も見えていませんもの・・・・・
ただ、そうしてすべての言い分をそのまま受け取ることが良いことなのか悪いことなのか・・・、 はたまたどのような結果を生むのかはわかりません・・・。

でも、相手が言っていることって、同じように私だって言いたい事なのですよねぇ~。 
つまり、言葉にするか しないかの違いだけで、私だって同じじゃない! 何も変わらないじゃない!
今はチョットばかり冷静でいられるだけで、結局は同じ、凡夫のレベルでは何も変わらない・・・。
人間って、こんなにも愚かなのだなぁ~・・・、 私って、こんなにも浅はかなのだなぁ~・・・、 ってことを教えてくださっているというのに、すぐに今生事の感情に流されてしまうようなお馬鹿な私だなぁ~ って・・・・・。

「見えていない自分」があるということを知っているだけじゃ~中途半端ですよね。
諺にもある通り、「人をもって鑑(かがみ)となす」。  
世間事では、鏡に映った自分の姿が醜ければ、見栄え良く直す努力こそが大事と教えられますが、御法の上では、表面上の取り繕いなど全くの無意味。 そんな自分なんやで~ぇ、 こんな私なんだと教えてくれているんやで~ぇ、 だからこその‘南無阿弥陀仏’なんやで~ぇ って。
それを教えていただく御縁をいただいているのだと思っています。
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悩みの重さ ・ 命の重さ [心]

みんな みんな 悩みを抱えて生きているんですよねぇ~。 
きっと、生きているって そ~ゆ~ことなんだろうなぁ~・・・。
時々、悩みを自覚していない… といいますか、「悩みはない」と言い切っている人もいるようだけれども、 悩み多くて苦しんでいる人も、悩みなどないと言っている人も、結局はみな同じ・・・、 自分に不都合なことから目をそらして生きているのは、みな同じだと思います・・・。

「君はいつも幸せそうで悩んだことなどないだろう」 とか、 「あなたはいつも笑っていて悩み知らずでいいわね~」 とかよく言われますが・・・、 その通りなのかもしれないけれど、そ~じゃないかもしれない・・・。
だって、言っている方も、言われている方も、お互いが自分の尺度でしか言っていないものね・・・、計りようがありません。

例えば、学業成績が落ちたことで人生が終わったかのように悩み苦しむ人もいれば、不治の病で寿命宣告をされてもあっけらんとして生きている人もいる。
自分自身だってそう。 同じたぐいの悩みや苦しみが襲ってきても、時には自殺したくなったり、時には平気で受け流したりと、その時々で「悩みの重さ」は常に変化を続けています。

「測れないモノ」 と言えば、「命の重さ」もそう。
すごく軽く考えている人もいれば、測り知れないほど重く考えている人もいるだろうし、自分自身も、軽くもて遊んだり、重く受け止め過ぎたり、その時々の自分を基準に測量しているに過ぎません。
結局、わからないことを わからないままにしておきたくない私が、「私」という測量計で常にその数値をはじき出しているだけで、そんなんに何の意味もないなぁ~ なんてフッと思いました。
そ~なんだなぁ~・・・  私は いつだって 何だって ハッキリさせたくて、右か左か、多いか少ないか なんて 私のものさしで推し測っているけど、「それがど~した?!」 ですよね~。

誰もみな、悩みたくなんかないし、本当は死にたくもないはず。 そして、その真実から逃げることに、みな必死になっています・・・。  自分の事です。 
「私は常に満たされていたい」 という、迷道の麻薬に溺れている私自身の事です。
決して満たされることのない欲望の闇を抱えている自分というもの自体が測り知れないのに、そいつが何を基準に推し測っているのでしょうかねぇ・・・。 まったく、笑えない笑い話です。

でも、そんなヤツなんだなぁ~ 私は・・・。 
迷っていることもわからず 迷いに溺れて、迷いの大海でプカプカと気持ち良さ気に、大きいだの 小さいだのと ほざくことしか能のない、そんなヤツなんだなぁ~ 私は・・・。 

でも、「命の重さ」は、すごく重いですよ!
だって、私が生きてきた足跡をたどってみたら、この「私」という一つの命を生かすために、いったいどれほどの犠牲を強いてきたか・・・。 それを考えたら、わからないなりにも 「命は軽い」なんて言えませんもの・・・。

でも、「悩みの重さ」は、めちゃ軽いですよ!
私がどれほど悩もうとも…、 重い 重い命を 簡単に投げ捨てようとするほど 深く 深く 悩んだとしても、それは、この命をいただいた時についてきたオマケのようなもの。
何のためのオマケなのかなぁ~ って考えた時、 やっぱり答えは一つしかありませんでした。

私が生まれてきた意味を知るため、 迷いの中にありながらも 「命の重さ」・「悩みの軽さ」を知るために、なくてはならないオマケなのです。
これを受け止める、受け止めないは私の勝手! ではなく、 受けて行かなきゃならないんです。
私の造った業でありながら、私にいただいた業なのだから・・・・・。 
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ちょっとは書けるようになったから… [心]

フッと気付くと、私は今まで一度たりとも真剣に何かを求めてきたことなどなかったように思います。
進学にしても推薦枠に乗っただけ…、部活動や習い事にしても好きなことをやった結果が認められただけ…、就職にしてもたまたま運よく望まれてポンッと決まってしまっただけ…、私は何の努力もしていない・・・。
物心のついた頃からず~っと 「死にたい・・・」 と 願ってきたけど、それも結局は、真剣に「死」を求めていたわけではなかったから死ねずに今があるのだと・・・ そんなふうに考えてしまう・・・。
ただ、無意識の内に「生」を求めている私がいる・・・。 そっちの方はきっとド真剣なのだろうなぁ~・・・ 私にはわからないけど・・・。
自覚がないからわからない。 でも、今 こうして「生きている」ということがそれを証明している。
つまり、私の「自覚」云々も、「思い」云々も、まったく意味がないのね。 虚仮不実、妄念妄想、その通りなのだなぁ~~~。

今、私が何を差し置いてでもド真剣にやらなければならないこと! 聞いて知ってはいるのですが・・・。
そのことに真剣に向き合うことの出来ない私がいて、 そのことと真剣に向き合えない自分を問題にしている私がいます。
そうこう言っている間に、真剣に向き合ってみればいいのに! と傍で言っている私もいます。
私の中には無数の私がいるようです。 それが次から次へと止めどもなく湧いてくるのですが、でも、自覚出来ている「私」というのはホンの僅かな一部分のものだけなのでしょうね・・・。
私は、「私」のことがわかりません。 他の人より見聞きさせてもらえる「私」も、ホンの氷山の一角。
私の丸ごと、三世を通じてマルマルの私を知っておられるのは、私の如来さま ただお一人のみ。
私は、何にもわかっていない・・・。 今生事の些細な悩みごと、自分の心さえもわかってはいないのです・・・。
きっと 「自覚」とか、「思い」のところで戯れている 虚仮不実、妄念妄想 のレベルでの「私」しかわかってはいないのです・・・。

だからかなぁ~、 今、私は何を病んで自律神経失調症状が出ているのか、よくわからないの・・・。
自分自身、かなり安定しているというか、普段通りな感じなのですが・・・・・・
もちろん表面的に思い付く悩み事は、人間関係の問題とか、後生の問題・我が信心、 などなど 山積しているのだけれども・・・・・
あぁ、 私は、また、自分の心に蓋をしてしまっているのかもしれないなぁ~・・・。
「自分の思いを出すな! 聞きたくない!」 と言われた言葉が呪文となって、自分を見ないように・・・、 そして何も思わないように・・・、 と 自分に対して 「責め」 と 「自己防衛」 を 同時にしているのかもしれません・・・、 でもそれも妄念妄想、 単なる一人遊びです。

そう言いながら、心の流れるままに、また自分の「思い」を書いてしまいました。
BLOGにも出しちゃいけないのかなぁ・・・ 自分の気持ち・・・・・・。
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南無阿弥陀仏(ありがとうございます) [心]

今・・・、 少し、スッキリとしています。  泣くことが出来たからかな・・・。
滞っていた感情が 少しずつ 少しずつ、細い隙間を縫うように流れ始めたような気がしています。
心を融かしてくださった三つのメール、 ありがとうございますm(__)m ありがとうございますm(__)m


>> それが 「奈っちゃんだよ」 と 教えてくれているのが 阿弥陀様だよ。

私は、それらは自分で気付いたことであって、自分の思い以外の何モノでもないと思っていました。
気付かせていただいたことのすべてを、いつもいつも自分の中に取り込んで、 そして自分で自分を苦しめていたのですね・・・。
たぶん、これから先もずっと、こんなことを繰り返しやって行くのでしょうね・・・。

外に 外に 探していたんです。  私の如来さまを、自分の思いで充満した自身の中にではなく、 目も 耳も、外へ 外へと向けて探していたのです・・・。
また こんなことを、これから先もず~っと繰り返していくのでしょうね。


>> 私にあるのは、真黒な業魂 と お念仏を称えようとする心。 私にわかるのはその二つだけ。

「お念仏を称えようとする心」 は、 いただきものであったと・・・  これを 忘れておりました。
この口からお念仏が飛び出てくださる不思議を、言葉の上だけで不思議がって、 ふわふわとした霞のように 如来さまのご苦労だ何だと思い描き、 「私に出来ることは、お念仏申すことだけ」 という所に留まりながら、何にも聞いてはいませんでした・・・。

私の真っ黒な業魂は、私の称えるお念仏で消えるんじゃない!
こんな業魂の私だから、お念仏となって私のそこへ飛び込んで来てくださったのだと・・・ 何度も 何度も 耳にしながら、ぜんぜん聞けてはいませんでした・・・。


>> 僕も同じだよ。

何も変わらないのです・・・。  私は変われないのです・・・。  そんな力はないのですから・・・。
聞いたら偉くなるわけでもなければ、 聞いている人だから偉い人と言うわけでもなく、 ただ一人一人なのだということを、すぐに忘れてしまうのです。
私と私の如来さまとの間を遮っているのは、他でもない この私自身なのだと・・・ こんなことすらもすぐに忘れて 迷い通し… 迷いっぱなし…  それを変えることなど出来ませんもの・・・。


言葉とか、文字って、すごいなぁ~ って思いました。
心が伝わって来るのです。 メールをくださった方々の心と共に、如来さまの心が伝わってくるのです。
こちらに、それを受け取る心がなくても、何か伝わってくるのです。
そんな ひとつひとつのご縁をいただきながら、護られ、育てていただいているのですね、私は・・・。
お返し出来るものは、‘南無阿弥陀仏’ だけ・・・   これも、いただきものですが・・・。
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏  ・ ・ ・ ・ ・
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壊れても 頑張ろっ! [心]

また・・・、迷惑をかけちゃった・・・・・   ひと昔前の私なら、きっと話していなかったと思います・・・。
辛いこと…、苦しいことがあったとしても、 誰かに相談することなどなく、 自分の都合良いように・・・、 自分が楽になるような考え方を導き出して、 自分の中だけで処理出来ていたのに・・・・・・
それなのに・・・、 ここ最近、上手く自分の中だけでは処理が出来ずに…、 そこに真実の安らぎを求めてしまい、 それを語ってくださる身近な人たちに頼ってしまう弱い私に・・・、 そうやって大切な人たちに迷惑をかけては後悔ばかりしている私になってしまったように思います。
優しさに甘えてしまってごめんなさい・・・・・。

昨夜から、ずっと雨が降り続いています。 このままず~っと止まなければいいのに・・・・・。
でも、人格非難メールや、御法で責めたてるようなメールは、もう勘弁・・・・・  止んでほしいな・・・・・。
お馬鹿な私が、また、壊れて行く・・・・・。

でも・・・ どうしてあの人は、私の心の傷に塩を塗り付けるようなことばかり言うのでしょう・・・。
どうして 崖っぷちに追いやった上に、さらに罵声で突き落とそうとするのでしょう・・・。
どうして 落ち込んでいる人の頭の上から重石を投げつけるようなことばかりするのでしょう・・・。
そして・・・、どうして自分のやっていることにを正当化して、自分の理想ばかりを相手に求めて止まないのでしょう・・・。
「自分は正しい」と思ってしまうのはお互い様です・・・  でも、その折り重なった刃に、私の精神がもちません・・・・・

だけど、そのおかげで少し吹っ切れたのかもしれません!  訳も分からずに… 、気持ちが少し軽くなった気がします(^-^)。  なんだかよくわかりませんが、うわべの方で笑っている私がいる気がしています・・・。

そんなおかげで、今日、手近にある予定を ザーッとキャンセルしました。 それでまた迷惑をかけてしまった方々へ・・・、 ごめんなさい。m(__)m  でも、みんな切ってしまいたい・・・・・

明日からは大掃除を始めましょう o(^o^)o  それを楽しみに、今夜はちゃんと眠れるといいな!
BLOGも、お花見の続きとか、 旅行記とか、 溜め込んでいる分、ちゃんと書かなきゃね(*^^*)!
壊れたままの私でいいから、 「今」を頑張ろっ!  「私」を頑張ろっ!
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仏説まこと [心]

昨夜、OGさんとお話しをして、少し気持ちが楽になりました。
自分を観ることって すごく難しくて とても怖いことだけれど、 彼はいつも法鏡の前に立って、そこでしか遇うことのできない如来さまの御声を聞いておられるのだなぁ… って、すごいな~と思いました。

私をわかってくれるのって、 他の誰でもなく・・・、 私自身でもなくて・・・、 私の如来さまだけなのだなぁ~ って・・・・・
私はいつも「私」ばかり・・・、 いつも いつも 「私の思い」に一喜一憂するばかりで・・・、 そんな私と見そなわして…、 そんな私だからこそ…、 こんな私をまるごと包み込こんで、その御心をまるごと差し向けてくださったのだなぁ~ って・・・、 いつも いつも 寄り添っていてくださるのだなぁ~ って・・・・・

相変わらず、「加害者はお前だ!」などと・・・、 きついメールは届くけれど・・・、 今の私には、それを受け取ることはとても辛いことだけれど・・・、 でも、 私が生きていることで、本当にたくさんの人達を傷つけているという事実…、 いろんな人達に迷惑をかけているのだという事実は、 ちゃんと受け止めていかなくてはいけないな… って思います。

眠れない夜・・・・・ 「今」を 書きます。

仏法を聞かせていただく・・・ 真実を求めさせていただくのって・・・ 過酷で、孤独な戦いですね・・・。
聴聞を始めて、あと三ヶ月で まるっと二年になります。 私は、いったい何をしてきたのでしょう・・・?
薬に頼らなければならない身体と、孤独な心は手に入れました。 でも、肝心なものは・・・?
私は、どこまで行っても「不実な私」でしかなくて、 「真実」との接点など まるでないです・・・・・。
‘ 南無阿弥陀仏 ’ になってくださった如来さまの御心に触れさせていただいても、 私の方からは汚い手しか出て来なくて・・・  少しも御法に寄り添わない・・・・・。
いつも、いつまでも、醜い自分を観せられるばかりで、「仏法なんて大嫌い!」と、背を向けて、耳を塞ぎ、御法をののしることしかしてきませんでした・・・・・。

でも、そんな私でよかった って・・・  そんな私だから ‘ 南無阿弥陀仏 ’ だったんだ って・・・

「仏説、まことだった~!」 との叫びは、 私の敗北宣言でもあり、如来さまの勝利宣言なのですね~
南無阿弥陀仏
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今の私に出来ること… [心]

今日一日、穏やかな時間を過ごすことが出来たように思います。
でも、一つだけ大きく心にのしかかっている暗雲に、いらぬお節介を焼きたがっている私がいます。
私は、自身が軟弱な神経を持っているだけに、同じような傷を負っている人を見過ごすことのできない性分で・・・、 それが身近な人であればあるほど放ってはおけず、気にかかって仕方がないのです。

その親友に対してもここ数カ月間、私は出来る範囲の時間をFULLに使って、彼が気兼ねなく泣ける居場所でありたいと・・・、 彼が自分自身とちゃんと向き合うことのできる居場所になりたいと・・・、 そう思ってずっと寄り添ってきました。
でも四日前・・・、 彼からの冷たい仕打ちに、「もう、無理・・・」 と、私は自身の限界を彼に告げました。

そのまま、放っておいたらいいのに・・・・・・

だけど・・・、 日増しに落ち込み行く彼からのメールに、やっぱり放ってはおけなくなって、二つ、三つのメールを返信しました。 でもそれは、失礼を承知の上で、今までになく 彼の一段上に立って書いた文章です。
なぜならば、彼には今まで登り詰めて来た階段を、たった一段でいいから降りてほしいと思ったから・・・、
少しでも楽な所にいられたらいいのに・・・ って思ったから・・・。
一つ一つの階段を登って行くことって とても大変なことだと思いますが、それを降りるということは、上る以上にもっと すごく難しいことだと思います。
でも、自分自身で築いたそんな薄っぺらなガラスの階段のてっぺんにいつまでも居座っていては、ますます不安定になるだけですし、ますます自分を追い込むだけだと思ったから、彼にはその階段から一段でもいいから降りることを提案しました。

彼は、社会の中ではスーツにネクタイを身につけ、会の中では羽織袴に下駄を履き、家族の前では燕尾服を着ているような人です。
そして、私の前には普段着で現われるくせに、腰にネクタイを巻いているような下手なプライドをもって登場するのです・・・。
それを知ってか 知らずか、今にも崩れ落ちそうな階段の上に立って、今の自分にしがみついているように私には見えたのです。

だから本当はそんな彼の手を引いて今すぐにでも階段から降ろしてあげたいと思うのだけれども、それは私のお仕事じゃない・・・・・・  彼自身が気付いて、彼自身の意思で降りなくては納得できるものではないのだから・・・・・・
今の私に出来ることは、彼が楽でいる場所にいて、「ここにいて、待っているからね」 っていう安心感を与え続けることだけなのかなぁ~ って思っています。
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この世で最後に頼るもの [心]

人生の分岐点って、何度もありますよね・・・。
一言で「分岐点」と言っても大小様々ですが、 たとえば、「今日は、行くべきか…、行かざるべきか…」 とか、「これを言うべきか…、言わざるべきか…」 といった、傍から見れば何てことのない選択肢であったとしても、本人にしてみたら重大な事柄であったり・・・。  また、結婚や、就職などといった大きな分岐点もあれば、 病気の治療法の選択といった、命がけの分岐点もあるでしょう。
ここから、 「迷」という字のもつ意味…、 御法話でお聞かせいただいたお話しなどをしたいなぁ… なんて、思わなくもありませんが・・・、 今日は、今生事のお話しにとどめておきたいと思います。

今、私の大切な親友が、そんな迷いの中の、大きな分岐点に立たされています。
何故でしょうかねぇ~、 「人生、山あり、谷あり」 と言われますが、時おり、山ばかりが続いたり、谷ばかりが続いたりと、ひとつの問題も解決せぬうちに、次から次へと難の続くことがあります。
御法の教えから言えば、「因果の道理に狂いなし  自因自果の業なれば  誰を恨む故もなし」 ということなのでしょうが、「どうして私ばっかり・・・」 と嘆きたくなることも少なくはありません。

彼も、「難の連鎖」といいますか…、次々に降りかかる災難にあわただしく追われて、すっかり元気をなくしてしまい、見ていて痛々しいほどです…。
何か、力になってあげられることはないかしらと考えてはみたものの、「領域」を超えることは出来ませんし、所詮、「分相応」以上のことなど私には何も出来ません・・・・・。 逆にいえば、求められたとて、「領域」を超えてはいけないということもあるのです。
それでも、竹竿一本分くらいの精神的な支えになってあげられたらいいなぁとは思っています。

少し前、私がすごく苦しいところにいた時、そんな竹竿が何本も寄り集まって私を支えてくださいました。
その中の一人が銹さんで、 その時、彼から こんな言葉をいただき、こんな質問をされました。
「様々な御縁を通じて、いろいろな自分が出てきます。 中には、醜く嫌悪したくなる自分もあるでしょう。
しかし、そのすべての自分が、そのまんまの「私」なのです。 どの「私」も、全部 「私」でしかないのです。
その「私」が、さまざまな極地で最後に頼るものって何だと思いますか?」 と。
私は・・・、「今生事では、結局、自分しか頼りにできないと思います・・・」 と答えました。 
銹さんはこれを否定されることなく、こう 言葉を続けられました。
「自分をどんなに嫌悪しようとも、また、自分で自分を追い込もうとも、 私が 「私」を 愛してあげなかったら、誰も 「私」のことなんて 愛してはくれませんものね。
その人 その人、 その時 その時、 自分が最後と思ったその時に 頼りになるモノを見つけるのが 人生だと思いますよ。」 と。

私は、「私」にしか頼れませんでした。  私が最後に頼ったのは、自分自身でした。
だから私は、頼ってきた「私」に聞いてみたのです・・・  「私は、どうしたいの?」 って。

この世の中、 自分の意志ではどうにもならないことの方が多いでしょう。
でも、そんな中で、こんな私を愛してくれるのも、助けになってくれるのも、やっぱり自分ではないのかしら?
「これが最後と思った時」と、「人生の分岐点」とは、同じかもしれませんし、違うのかもしれませんが、 そんな時、 自分のわがままに耳を傾けてあげることが大事なのではないかしら? と思いました。

あなたの人生なのだもの。 「自分は、どうしたいの?」 ということを、自分自身に聞いてあげてください。
そして、それに向かって歩き出してほしいのです。
プライドを守るのもよし! 泣いてすがるのもよし! 逃げたければ逃げればよいのですし、 家族のために自分が犠牲にならねば…、との選択肢を選ぶことも、あなたの意志ひとつなのです。
でも、ちゃんと自分の本音と向き合って決めてほしいのです!
「誰かのため」に決断するのではなく、 「自分がどうしたいのか」、自分の声を聞いてあげてください。
自分についたウソは、自分を苦しめるだけですよ!
どんな私も、私なのだから・・・、 それを認めてあげられるのも、やっぱり私でしかないのだから・・・。
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「私」 と 「死」 [心]

「他者の‘死’」という現実は、個々人それぞれのところで受け止め方が違うわけですから、その人 その人のところで 受けて行かなければならない、自分自身の問題だと思うのです。
「そんなこと、当たり前じゃないか! わかっている!!」   はたして そうでしょうか・・・・・
「私がわかった」というのは、「私の思い」でしかないですよね…。  私は、「‘私の思い’に 真実などない」と教えていただきました。

仏法を、聞かせていただいた、聞かせていただいていないに関わらず、‘死’という現実と向き合うということは、大変に難しいことだと思います。 ましてや 自身の‘死’など、頭の表層部分で思案することは出来たとしても、「私の思い」を超えたところの‘死’については、手出しの出来ない問題です。

先日、友人の葬儀に参列させていただきました。
そこで 「死」 について考えさせられる御縁をいただいたわけですが、 どうしても、この私自身が抜けてしまう…、 私にとって ‘死’ とは、人ごとでしかないのだな…、と・・・ そんな自分を見せられました。
また・・・、 半月ほど前、ウツの症状が出ていたとは言え、私は自らの命を弄ぼうとしました・・・・・
それでも…、 「私」 と 「死」 が 当事者となっても…、 私にとって ‘死’ とは、人ごとのように…、 「私の思い」を超えることは出来ませんでした。
真実の‘死’は、私の‘思い’とは無関係です。 私は、私の手が届く‘死’のところでしか、‘死’と関わるが出来ないのです。

今、私の親友が、現在進行形で身近な人の死と向き合っています。  私は、そんな彼の姿を通して、私なりに ‘死’と向き合う御縁をいただき、私自身のところでこれを受けています。  自分のところでしか受けられないのです。
彼の向き合っている‘死’と、 私の向き合っている‘死’ を 交わらせようとしても、今生事の域を出ることは出来ません。
‘死’は、ひとり ひとりの問題ですから、そこに ‘仏法’というパイプを持ってきたとしても、凡夫同士である以上は、今生事でしか関わることが出来ないのです。
それをすべて仏法に絡ませよう、お念仏の教えに引き込もうとするのは、御法を利用して、御法にしがみついている自分自身と向き合うことが出来ていないからではないでしょうか…。
自分は御法を聞いているというところに、高上がりしてはいないでしょうか…。
「当たり前!」、「わかっている!」と言っている自分を、邪心なく見れていると言いきれますか?

信を獲ている人とはいえ、身近な人の死を目の前に突き付けられた時、「金剛の信心」は揺るがずとも、やはり凡夫である自分自身は、喜怒哀楽に気持ちが上下して当然だと思うし、また、それが私なのだし、そんな私だからこそ、これを御縁に聞かせていただけること、聞かなくてはならないことがたくさんあると思うのです。
身近な人の死であればあるほど動揺も大きいでしょうし、それ故に視野も狭まってしまうのは当然のことだと思います。

私、思うのです…。  みんな、みんな、誰もが皆、すごく すごく 弱いんです。
この世を生きていくためには、そんな弱い自分を誤魔化しながら、自分だけを頼りにして、知った・聞いたと喜んでいる御法にしがみついてしか生きていかれないのが私だと思うのです。
そんな私の「後生」を支えてくださるのが、仏法であり、阿弥陀さまならば、そんな私の「今生」を支えてくださるのは、仏法云々に関わらず、家族であり親友だと思うのです。
少なくとも私はそうです。
仏さまが抜けても、家族や親友が抜けても、今の私は存在していません。 生きては行かれません。
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真夜中の独り言 [心]

高山から帰って来て、気持ち的には まだ どんよりとしたところはありますが、体調の方は、不眠症以外はこれといった症状も出ていなくて、随分と落ち着いて来ているように思います。
そんな中、あの方から久しぶりに、たった一言だけのメールが届きました。 でも、その真意が、まったくわかりません・・・・・
それで、返事をすべきか・・・  どうしようか・・・  すごく迷って・・・・・
まるっと一日考えたあげく、メールの返信をする代わりに、以前 メインでやっていたBLOGの方に、今、思うところを少しだけ書いてUPしました。
でも、BLOGを書いていたら、なんだか また 腹が立ってきて、一言 もの申さずにはおれなくなってきてしまったので、結局この後 メールの返信をしてしまいました。  でも、いつものような「ごめんなさいメール」ではなくて、今、私の思うところを ある程度まで出してぶつけてみました。
そこで返って来たメールを読んで、改めて 「Yuさんなんか、大っキライ!」って思うことができたので、これ幸いと無視することにしました。 初めての試みです (^^)v   頑張れ!奈ちゃんo(^-^)o

そんな中、最近、東海支部に入られた方々から何件かのメールが入ってきました。
私…、 支部の行事には当面不参加の心づもりをしていて…、 その他の活動も自粛しようと思っていのに…。
思わず頭を抱え込んでしまいました。 
如来さまの、「逃がしは せ~へんで~ェ!」 というお働きには、ハタハタ参ります…。 ものすごい執念を感じます…。

私なんかが御法を口にする資格などありませんし、とても相談になんてのれません・・・。
本当に、求めて 求めて 一生懸命に聴聞しておられる方々からは、いつも いつも聞かせていただくばかりで…、 本来ならば、私の方から頭を下げて 「聞かせてください」 とお願いしなければないところを、私は 「聞きたくない」 というところにふんぞり返って、頭を下げぬままに、求道者の方々をはじめ 如来さままで自分の為に利用して・・・。

なんだか、ここ最近は とてもリアルに如来さまのお働きを感じます。
「お願いだから聞いてください! 奈っちゃんは聞きたくないままでいいから、 でも、どうか、どうかお願いだから聞いてください!」 と 私の手をとって頭を下げてくださったGS先生の声が、今も鮮明にこの耳に残っています。
このところの生き苦しい今生事を通して、如来さまの「聞いて欲しい!」 との願いが、強く 強く 私にかけられているだと言うことを、この身で聞かせていただけているのだと感じています。
それなのに、私は相も変わらず逃げるばかり…、 耳を塞ぐばかりですね…。 

さぁ~!! メールのお返事をせねばなりませんね!
私のためにご用意くださったこれら様々な御法縁の一つ一つを、私の思いに関係なくいただいていくことが、私のために敷いてくださった道なのかなぁと、そんなふうに受け止めています。

はぁ~~~ 私…、私… ですね・・・・・・ (独り言です・・・・・)
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恥っさらしの醜い私… [心]

今日、銹さんからいただいたメールは、今までのものとは少し違って厳しさがこもっていました。
怒っている… というよりも、たぶん、本気… という感じが伝わって来ました。
それ故に、私も中途半端な気持ちではいけない!と、心が引き締まる思いでした。

でも…、御法に対していくら内外の姿勢を正してみても、それはホンの一時的なこと…。
それに、見せかけだけ良くっても、それは全然無意味なこと…。
仏法は、その中身である‘私の本心’を問題にしていくものだから、表面上のウソは通用しませんね。
では、その‘私’というものに目を向けてみるとどうでしょう・・・・・?

私は、いつまでこんな気持ちを引きずったままでいるのか… と、自分でも情けなくなります…。
いつまでたってもスッキリと晴れないこころを、こうしてズルズルと引きずったままBLOGに書いては人目にさらして・・・・・  ものすごく恥ずかしいことをしていると思います・・・・・  
でも、だからこそ書いておかなきゃ! って思っています。
自分がどれほどみっともない人間か・・・・・、 いかに虚仮で不実で人の迷惑になっているか・・・・・
そんなどうしようもなく醜い私と、ちゃんと向き合いたい… って、思い始めました。

私・・・・・・、 今生の問題と、後生の問題を混同してしまっています。
私がどれだけ今生の悩み・苦しみの中に溺れていても、それは私の‘業’であり、因果の道理を恨むのは筋違いと言うもの…。 もっとも、そんな愚痴のかたまりが私なのですが…。
でも肝心なことは、人生皆苦であると教えてくださったお釈迦さまが指し示してくださっている方向を、ちゃんと見なければ!ということなんですよね~…、 それを銹さんからのメールで教えていただいたように思います・・・・・

私の生き苦しさを、私以上にわかってくださっている方がおられるという事実…。
私がこの世の出来事に翻弄され、嘆き哀しんだところで、私がちゃんと、「‘南無阿弥陀仏’のみぞ真実!」というところに立ってさえいたら、今回のようなことにはならなかったのでしょうね・・・
私が…、「おまえの苦しみを根本から抜き取って、ゆるぎのない楽を与えてやろう!」という、私の抜苦与楽を願ってくださっている阿弥陀さまのお心とピタッと合致していなかったから…、  こころが弘誓の仏智に建っていなかったから…  だから、「後生は任せろ!」と宣言された阿弥陀さまのお声を聞くことができなかったのではないかと思います・・・・・
今回の一件は、このことを私に教えんがための逆縁だったのではないかと・・・・・
もっとも私はこれを認めたくはありませんが、今、我が仏敵に小さな負けを感じていることは確かです…
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時が癒す心の傷 [心]

昨夜はお薬が効いて、少しは眠ることが出来ましたので、頭を休ませてあげられました。
体調の方は、食欲はまだありませんが、少量ずつなら食べられるようになりましたし、熱や目眩も落ち着いてきて、徐々に回復していることを実感できるまでになりました。

今の気持ちは…、 いつもと同様に相手の気持ちが落ち着くまで、ただ謝らなきゃ~ と…、 やはり私の至らなかった点が多々あったわけですから、指摘されたことを真摯に受け止めるべき努力をして、相手が私に望んでいることを思案し、それに適うような行動・言動をとって許しを乞うべきかな… という選択肢に心が傾いているようにも思いますが・・・・・
でもその反面で、やはり、あの一言は…  という思いが どうしても拭えずにいます…。

ホントに 瞬間 瞬間で心は移り変わって行きますね…。 
こんな心、後生の前に立てば 所詮 今生事、捨てモノだということがわかります。
しかも、こんなものにしがみ付いてしか生きることの出来ない私なのだということもわかりました。
ここで如来さまのお声を聞いた時、その如来さまのお心よりも、私の思いの方のが上に立っているということに気が付きました。 これが、「君は如来さまをどれだけ足蹴りにして殺してきたか!」と言われたことの一つなのでしょうね・・・・・ 本当に、その通りです・・・・・

ただ…、 素直になれないところは、感情任せに浴びせられる種々の言葉たち・・・・・・

人並み以上にストレスを感じてしまい精神的に自らを追い込んでしまう気質…、 それが元で自律神経が整えられずに体調にまで異変をきたしてしまう体質…、 そんな自分を自分さえも受け入れてあげることが出来なくて、治せるものならば治したいけど、それが叶わないから消し去ってしまいたい… と そんな思いを自身のBLOGで文字にしたことで、あそこまで追い込まれるとは、正直想像もしていませんでした・・・・・
私は、自分のBLOGにまで、特定の人のために気を使いながら心根を隠して、その人の望む言葉だけを思案しながら書かねばならないのでしょうか・・・。

「オ前ガ 生キテイテハ 迷惑ダ! 死ネ 死ネ 死ネ」 と 頭の中で繰り返し響く声…
「彼が言われたように、みんながオマエの死を望んでるのだ…!」 と 囁く声に、 「死にたい…」との思いが再発して…、
でも、そうかと言って死のうとすれば、何やかんやと理由をつけてくる声にも悩まされます…
結局…、 私は死にたくないのでしょうね…。 悲しいことに、死を拒否しているのは、この私自身なのです…。
私・・・・・ どうしたらいいのか・・・・・
このまま、今生事の戯言に付き合いながら一人遊びを続けていてもよいのでしょうか?!
いえ・・・・・、 それでいいわけがありませんよね…。 それに、そうしていたくはないです…。

今の私が頼っているものは、お念仏よりも、時の経過のように思います。 時間が解決してくれると・・・・・。
このまま離会してしまえば、御法はともかく、当然あの方とのご縁も絶ち切ることが出来るわけですから、そうすればあとは時間が解決してくれる…、 彼との接点がなくなれば、心の傷は時間が癒してくれる…、 きっと何もかも時間があきらめさせてくれる…、 そんな夢に思いを寄せてしまいます…。
だけど、自分の気持ちを正直にみつめた時・・・・・・・、 やっぱりあきらめきれないものがある… って思いました・・・・・。
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その一歩を踏み出せなくて… [心]

今の私に、いったい何が出来るのでしょうか?…  と 考えてみることにしました。
でもその前に、 「何に対して」なのかを定めないことには考えが進まない…、ということに、今、気が付きました。
この先、 離会すべきか否か…、 そのどちらに転んだにせよ、今後、御法を求めていくべきか否か…、 そして… 「死ね・・・」とおっしゃった人とのこと…、 いつものように元に戻すべく努力をすべきか否か…。
もし、これらの全てを肯定するのであれば、今の私に何が出来るのでしょう…、 今、私は何をしなければならないのでしょう…。  しかし、もしこれらの一つでも否定するのであれば、私は、今後どのようにしていったいらよいのでしょう…。
それを、少しずつでも考えていかなくては… と思い始めました。
どう考えたって、どう結論付けたって、相手のあることは結局はなるようにしかならないと… それはわかっているつもりです。 
でも、自分なりに考えることによって、この泥沼の感情から一歩でも抜け出せるような気がして…。
それが、始まりになるのか 終わりになるのか それはわかりませんが、この闇からは抜け出したいと、今、そう思い始めました。

他の人からしてみたらバカバカしいことだと笑われるでしょうが、今の私にとっては一番の悩みのタネで…、 その方との関係を解決しなければ、他のすべての解決の糸口が見つからないように思います。
でも、御法と会とを切り離して考えることが出来ないように、やはり、会と彼を切り離して考えることなど出来なくて…、 彼 = 会 = 御法 との図式に 心が囚われてしまってます…。
その彼に、「君の言葉に腹が立つ、もう顔を見たくない、死ねばいい」などと言われたら…、 言い訳だということはわかっていますが、「後生は一大事」と聞かせていただいても、全身で今生事に囚われて阻まれてしまう私です…。

文字にしてみて初めてここまでの頭の整理が付きましたが・・・、  さて・・・ 次の一歩を・・・、 どう踏み出せばよいのか…、 手詰まりです・・・・・・・。

なぜこうなってしまったのか、それをちゃんと見極めなければならないのかもしれません…。
本当に・・・、 難しいですね、人間関係は・・・・、  とても苦手な分野です・・・・・。
それに彼は、私に対しては ‘今’の気分、そのままに動く人で…、 「君には気を使わなくていい…、 本音が出せる」と・・・・・  だから余計に難しいのでしょうね・・・。
でも、申しわけないのですが、ただ受け止めるばかりの私の許容範囲にも、限界はあります・・・。

今・・・・・、 ここ最近に彼からいただいたメールを読み直してみましたが・・・・・
上言撤回です…。  早くもくじけてしまいました…。  
私はどうしたらよいのかよりも、  やはり、何もかも全て忘れてしまいたいです・・・・・・

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心が、疲れてしまいました… [心]

昨日の体験で、感情が、生き返ってしまいました・・・・・
悲しみの波が襲ってきます…  孤独の海に溺れてしまいます…
あのまま、心を亡くしてしまいたかった・・・・・
この心を殺してしまうことが叶わないのなら、せめて、頭の中の記憶をすべて抹消してしまいたかった・・・・・

眠れない夜…、 ただ、時間が過ぎ去るのを待ちました・・・。   でも、朝は来てほしくなかったです…。
生きて行くことも罪ならば、死ぬことも罪…、 私はどうしたらよいのでしょう…?!
こうやって 過ぎ去る時間のその先には、いつとは知らぬ “死” が 存在しています。
その瞬間が来るその時まで、時の流れに逆らうことも出来ずに流されて…、 でもやはり、朝が来るのを拒んだように、私は その瞬間が来ることを拒んでいるのだと思います。 上辺の意識とは別の所で…。

もう一度心を殺してしまいたくて 「死ね」と言われた方からのメールを読み返しました。 
「君がどれだけ人を傷つけてしか生きられない人間か!」 この言葉が頭の中で繰り返されて、最後の「死ねばいい」の結語と結び付つき、「お前が存在しているだけで迷惑なのだから、早く死んでしまえ!」と聞いてしまいます…。
本当は…、 本当は、何がおっしゃりたいのか、気が付いているくせに・・・・・ 素直になることを拒んでいる私がいます…。   

でも、 悲しむことにも、 悲しませることにも 疲れちゃったんです…。 
もぉ~、 傷つくことにも、 傷つけてしまうことにも 疲れちゃったんです…。
とても、疲れちゃったんです…、 真実の声を聞くことに…。  聞けない自分に、疲れてしまいました…。
私よりも、もっと もっと 傷付いて、悲しんで、疲れを忘れるほどに心配してくださっている如来さま、ごめんなさい・・・。
でも、 「こんな私に・・・・・」  と、 この後の言葉をつなげば、また 「法を利用している!」 「我法だ!」 と聞いた言葉で自分自身を責めてしまう・・・・・
もう、答えはわかっているのに・・・・・

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母からのいただきもの [心]

私は、BGMを流しながらパソコンを閲覧していることが多いのですが、そのほとんどはインストゥルメンタル(ヴォーカルなしの楽曲)です。
それ以外の曲も、いいな~と思った曲はHDに保存しておくのですが、あまり聴く機会はなく、聴いたとしてもその曲の題名とか歌手名とか知らないままに聴き流していることが多いです。
この時は偶々男性ヴォーカルの歌が聴きたくなって、あてもなくランダムに流していたのですが…、 その一曲目にかかったのが先のBLOGでお話ししました 平井堅さんの‘LIFE is... ’という曲で、この次にかかったのが Kさんの‘Only Human’という曲でした。
この曲も、以前何かのドラマで使われていた曲だと言うことだけはわかりましたが、何のドラマであったか思い出せないし、誰の曲なのかその題名も知らないままに、ただ耳当たりが良かったので 一曲リピートをかけて繰り返し聴いていました。
何をするでもなく、「死んでしまおうか…」という思いを取り逃がさないよう、心に握り締めたままデスクにうつ伏せて、手元では睡眠薬をもてあそぶように転がしていました…。
変わり映えのしない時間が過ぎてしばらく経った頃、なんとなくこの曲の歌詞が断片的に心にかかってきたので、ほんの暇つぶしにと歌手名と曲名を確認してNETで歌詞の検索してみることにしました。

そして検索結果の一覧が表示されたところで・・・  私は悲鳴をあげるように嗚咽しました・・・・・

検索結果の一覧には、「K ‘Only Human’ 「1リットルの涙」 主題歌」 とありました。
テレビなどまず見ない私ですが、このドラマだけは特別で…、私はこのノンフィクションの原作本をドラマ化されるずっと以前から読んでいて、自分の過去を振り返るが如くこのドラマを時々視聴していました。
なぜならば・・・・・  この本の主人公である木藤亜也さんという人は、母と同じ病気でこの世を去った人で、当時この本だけが、母の病気を、 そして、母の未来を知り得るたった一つの手がかりだったからです…。
母の病名は、脊髄小脳変性症という原因も治療法もわからない進行性の難病でした。
このドラマは、そんな過酷な病と闘った本人と家族の物語りであり、この曲は、そのドラマの主題歌として使われていた曲でした。

私は、母によってこの世に送り出され、その母によって生きて行くということの苦悩と、死んで行かなくてはならないという事実を教えていただきました。
そして、母は、自らのその命と引き換えに、私に仏法を与えてくれました。

だから、パソコンの画面に 「1リットルの涙」という文字が出てきた瞬間、その文字が母に見えて…、 目の前に母が現われたのかと思いました・・・
私は握りしめていた薬のビンを床に叩きつけて、悲鳴を上げて泣き叫びました…。 声が枯れ果てるまで、泣き叫び続けました・・・・・
でも、 何が聞こえてきても…、 どんなお言葉も…  「もう、聞きたくない!」 と悲鳴で打ち消しました・・・・・
何時間も… 何時間も… 寄せては返す波のように…  夜遅くまで泣き続けて…
気がつくと、「おかあさん… おかあさん…」 と、呼ぶ声が、お念仏に変わっていきました。

‘南無阿弥陀仏’は、私の 父であり、 母でありました。

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LIFE is ... 生き苦しくて ...  [心]

一番に信頼していた人より 「死ねばいい!」とのメールが届いてから、まるで感情というものを失くしてしまった空っぽな心…
そんな心の耳がフッと傾いたのが、平井堅さんの‘LIFE is... ’という曲でした。

     自分を強く見せたり  自分を巧くみせたり
     どうして僕らはこんな息苦しい生き方選ぶの?

ホントに…、どうしてこんな生き方をしなければならないのでしょうか…?! 息苦しいと言うよりも、生き苦しいばかりです…。
この世のほとんどの人たちは、後生のことなどまるで自分とは無関係なことのように思って生きておられます。 たとえ後生のことを気にかけている人がいたとしても、それは自分の空想の世界で戯れているに過ぎないのではないでしょうか…。
私だって同じです。 後生のことなどまるでわからないし、考えることすら拒否して、自分の理想で思い描いた後生にすがってさえいる始末です…。 
それに、自身の後生を知ったところで、今生において何の役に立つというの?! 今生でどんな手立てを講ずることが出来るというの?! と・・・・・  どうせ、唯除五逆 誹謗正法 の 私ですよ! と、開き直って、如来さまを悲しませて・・・・・
でも、私は、このような問いかけを自身にさせていただける仏縁に恵まれて、その答えを教えていただく御縁にも、聞かせていただく御縁までも遇わせていただくことができたんですよね・・・。 
しかし・・・、 たとえその答えを 聞いて 知っていたとしても、私は、まったくもって聞きたくないのです!!!
真実から目を背け、真実に耳を塞いで、全身全霊で真実を否定している・・・・・・・・・ 

「後生は一大事!」 そう叫ばれた蓮如さまのお言葉…、 「この私自身の後生であるのに、これをまったく心にかけることの出来ない私…。 その私の後生を私に代わって心にかけてくださって、‘そんなおまえだから、 そんなおまえの後生を救わせてくれよ’と、これ一つ願ってくださっている如来さまのお心を、ただ聞かせていただくだけのこと」 と そう聞かせていただける身、お念仏をさせていただける身にはしていただいたものの、凡夫の私は凡夫のままで、我が業縁に従いて生き苦しいこの世を生きていかねばなりません…。
私の後生の心配だけをしてくださっている如来さまに対して、私は、私の今生事の心配や不安ばかりです…。
だって…、 私にとって後生なんて、ど~だっていいんです…!  後生なんて聞きたくないんです!!
これが本当の私の姿です…  これが私の本心です…  きっと永遠に変わることのない真実の私の姿です。
「こんな私だから・・・・・」  この言葉が、今はとても虚しいんです・・・・・
あぁ…、こんな私を知らされることが仏法だというのなら、もうこれ以上、仏法なんか聞きたくありません!

感情が麻痺してしまった私の空っぽの心に、冷たい木枯らしが吹きぬけて行くようでした…、 そしてそれは、自分で自分の心に刃物を突きたてているようでもありました。 同時に、如来さまの御心にも・・・・・・
この曲のせいでしょうか…、 深い深い闇の底で眠りこんでいた私の心が、ほんの少しだけ動き始めて・・・、 
そしてこの時、最初に心の目に映ったものが、「死ねばいい!」という文字でした・・・・・。

もし彼がおっしゃるように、私の死を望んでおられる人がいるのなら、いっそこのまま死んでしまおう・・・・・
「あぁ、そうだわ! 望まれて死ねるのならこんなに嬉しいことはない! さぁ、どうやって死にましょう!」
車を見れば飛び込みたくなる…、 包丁を握れば胸を刺したくなる…、 給油をすればそれをかぶって火を付けたくなる…、 恐怖なんて全然ない…、 地獄なんてここにしかない・・・・・・!!
そんなことを考えていると楽しい気持ちにさえなってきて、無表情だった顔にも微笑みが戻ってきました。
しかし、それと同時に、止めどもなく次から次へと涙が溢れ出てくるのです・・・・・
「死ね! 死ね! おまえなんか死んでしまえばいい!」 という彼の声が、頭の中に優しく流れ、それが涙となってこぼれ落ちていくようでした。
その涙が、悲しみの涙だったのか…、 うれし涙だったのか…、 自分でもよくわかりません…
でも、「この曲を聴いていたら幸せな気持ちで死ねるかもしれない・・・」 そう思い、私はこの曲のリピートをかけ、手に睡眠薬を握りしめました…。

だけど・・・、 心は再び冷めていきました…。  空っぽ・・・ 無感情・・・ 涙も枯れていきました・・・・・

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私…、もう 壊れていました… [心]

心が壊れてしまわないように、何とか かんとか 頑張ってやってみたつもりですが、今日綴ったBLOGを読み返す限りにおいて、もう既に私は壊れているのだということを知りました。
今、私は、自分と向き合うことが全然出来ていないです・・・・・

今日も泣きました…。 昨日も…、 一昨日も泣きました・・・。 その前の日も、その前の日も…。
私はいつから壊れてしまったのでしょう…?
「先月の交流会からの君は変だ」と言われましたが、自覚し始めたのは24日の懇親会の後にいただいたメールからで、それによって病状が再発し、その二日後には抗不安薬の服用を再開しなければならなくなって、今は動悸を抑えるためのお薬も手放せない状態になってしまいました。

新しく引っ越してきたこのBLOGでは、誰に遠慮することもなく本音の自分と向き合いたいと思って書き始めたのですが、なぜだかそう出来ていない自分がいます。
どうしてなのかなと考えた時、このサイト(BLOG)もすぐに見つけ出され…、 また何もかもに否定されて・・・、腹が立った、傷ついたと怒られるのじゃないか… などという不安が拭いきれないからかもしれません。
それならばいっそうのことBLOGを非公開にしてしまえばよいのですが・・・、 一度はそうしました。
でも、私はますます自分のカラに閉じ籠ってしまい、自身を追い込むがままに身動きがとれなくなり、自分の中に埋没してそのぬかるみに首まで浸かって窒息しそうになりました・・・・・。
怖かったです・・・・・。  肉体を残したまま、消えていってしまう自分が・・・・・・。
今だって、一つ掛け金が外れたら、どうなってしまうかわからないという不安でいっぱいです。
こうして公開BLOGにしていることで、なんとか世間に踏みとどまっていられる…、 踏みとどまっていたいのでしょうね、私は…。

でも、もう一歩さらけ出してしまいたいという気持ちもホンの少しですがあるように思います。
そうすることで、もう少し今のところの自分と見つめ合い、ここから脱却できる術を見つけられるのではないか… と…。

多分、私は、文字依存症ですね…。 文字にしなければ自分を知ることが出来ない感じです。
公開BLOGでどこまで書けるか、どこまで自分と向き合えるかわかりませんが、もう一歩踏み出してみたいと思います。

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