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ゆっくりと、ゆっくりと [心]

いつも同じ苦しみがめぐってくる。 つくづく自分の本質はかわらないなぁと実感。
そんな時の流れの中で、私は今、何を聞いているのだろう。
虫の音。 秋の風音。 夜は静かに流れている。

もう、何も後悔はしない。
ただ時の流れに任せてみるのもいいものだと、今までとは違う私が見え隠れ。

やるせない嘆きも、肩を震わせる不安も、胸を締め付ける孤独も、みんな私の一部だものね。
ゆっくりと、ゆっくりと、そっと受け入れてあげよう。

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表裏一体の「生」「死」 [心]

今日まで、ものすごいスピードで人生を駆け抜けて来たように思います。
でも一方で、無動のままに淡々と時間を過ごして来たような気もしています。

この世の事実を受け止めるということは、とても難しいことですね。
たとえばそれが自身を楽にさせる事実であったならば、一見、受け入れやすいように思いますが、実際は深い欲望と無常を知らされる入口なのかもしれない…、という不安が目覚めてまいります。

人は、自身の「死」を肌で感じた時にこそ、自身の「生」と出会えるのではないでしょうか。
いつか、この身が死んで行くということ・・・。 その時のことをいくら空想したところで何の意味もありません。
「生」の裏に「死」あり。 「死」の裏に「生」あり。
ただ、「あぁ、私が死ぬんだ・・・」と、自分が死と共に歩んでいることを知った時、表裏一体に「今を生かさせてもらっているのだなぁ~」と、感じたのでございます。 南無阿弥陀仏
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「言葉」という凶器 [心]

その場に居ない人の話題で盛り上がるというのはよくあることだと思います。
特に、4,50代の女性にとって、他人の陰口ほど面白いものはないと思っていらっしゃる方も少なくはないでしょう。
しかし、その話は次から次へと尾ひれをいっぱいにくっつけて悪口を言われた当人の所へと運ばれて行くものです。

そんな噂話しが私の所へも伝わってきたのですが、その噂の当人である私には身に覚えのないこと・・・、そこで事の真意を噂を流したとされるAさんに直接確認することにいたしました。
「あなた(Aさん)は、私がMさんの話題を周囲の人に言いふらしていると言っているそうだけれど、なぜそんな嘘をつくのですか?」 と。
その時Aさんは言われました。
「わたしは、人間関係の渦には巻き込まれたくないのでそのような作り話を振り撒いた覚えはありません!」 と。
でも今回、私の元に伝わってきた「Aさんが面白おかしく私のことをネタにしていた」という話は、複数の人から私の耳に届いていたので、私はAさんを信じることができませんでした。

本当のことはわかりません。 ただ、その場に居ない、少なくとも表面上は「仲間」である人の話しをする時には、ほんの少しでも結構ですから、「もし、この場に居ないのが自分だったら・・・、 話題のエサにされているのが自分のことだったなら・・・」と、一瞬でかまいませんのでチョッと考えてみて欲しいなと私は思うのです。

「言葉」というものは、本当に恐ろしいものです。
その一言を口にした本人にはまったく悪気などなかったとしても、人の口から口へと伝言ゲームが拡大して行けば、必ずと言っていいほど伝言する度に私感が混じり、とんでもない話しへと変化してしまうということは、決して珍しいことでも特別なことでもありません。
そのことで、話題にされた本人がどれほど傷付くのか・・・、ショックを受けてしまうのか・・・。
その一言の真偽性の如何に問わず、相手を自死に追い込む事だって簡単に出来てしまうのです。
「言葉」とは、それほど鋭い凶器にも成りうるのだと言うことを、私たちは忘れてはならないと思うのです。
悪気も、殺す気もなく、その場限りの面白話しであったとしても、他者をネタにすることは、それほど重い責任を自分の吐いた言葉に課すべきではないでしょうか。
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みにくいアヒルの子 [心]

「あなたは病気だから、気を使ってあげたのよ」 と ある方から言われた一言が忘れられません。
あれから、何度も 何度も 心の中で繰り返し、辛くなります。
そんな中、アンデルセン童話の『みにくいあひるの子』というお話しをフッと思い出しました。
おおかたの人が知っている物語だと思いますが、、、、、

     『みにくいアヒルの子』  作:アンデルセン

アヒルの群れの中で生まれ育ったヒナ鳥が、他の子どもたちと似ていないという理由により、いじめられて、退けものにされたあげく、群れを追い出されてしまいました。
ひとりぼっちになったヒナ鳥は、いろいろな群れに入ろうと試みるのですが、どの群れにも辛く当たられ、もう、生きて行くことに耐えられなくなってしまいました。
暗い冬空を見上げながら、「ひとりぼっちでは、辛すぎて生きていくことなんか出来ない・・・。 ならば、いっそ猟師にでも殺してもらおう!」と思って水辺へと行ったのですが、そこで水面に映った成長した自分の姿を初めて、「あぁ、自分はアヒルでもカモでもなく白鳥だったのだ」と知るのです。

いろいろな翻訳本が出ていますが、だいたいはこのようなストーリーで終わっています。
無垢な子供の頃は、「良かったね」で聞き終えていた童話でしたが、ひねくれた大人になった今、フッと思い出してみたらなんだか納得いかなくて・・・
自分が美しい白鳥だと知ったら死ぬ気がなくなったの?  たまたま仲間がいたからLUCKYだった?
じゃあ、醜かったら生きていてはいけないの?! 他の人と違ったら生きていちゃダメなの?!

「私が病気持ちだから、仏法を聞く以外に、何もしてはいけないの・・・・・?」
それを言われた時、病のことカミングアウトするんじゃなかった・・・、と後悔しましたが、後の祭りです。
もしも発作が起きれば誰だってみな迷惑がるでしょう・・・  それは私自身わかっていることす。

みにくいアヒルのままでは、誰も仲間に入れてくれないのも仕方のないことかもしれません。
そんな一言を気にし過ぎている私がアホなんです。 しょうもない大バカ者です。

でも、そんな私に、「奈っちゃんは何のために人間に生れさせてもらったの?」と聞いてくれたのは、Daneでした。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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真宗とカウンセリング [心]

BLOGがぼちぼちと書けるようになってきたのか、たまたま調子が上向いているからかはわかりませんが、病院のカウンセラーからも、「何でもいいので思ったことを吐露するようにしましょうね」と勧められました。

私が過去に数回ほど受けた真宗カウンセリングと、隔週で受けている病院での一般的なカウンセリングとは、まったく種類が違う… と言いますか、まったく次元の違うものだということが、最近になってやっとわかってきました。
つまり、私が真宗カウンセリングで求めてきたものを、一般のカウンセリングに求めるのは、鼻っから無理だったのです。

前にある人が、「真宗カウンセリングなんか生ぬるい、そんなところに逃げ込むな」と言っておられましたが、今の私にとって一般カウンセリングは、もう限界に来ているのではないかしら…、という気がしてならないのです。

この病気が再発しましてから三年が過ぎようとしていますが、治療はしていても悪化の一途をたどるばかりで、ここ半年前からは、新たに治すことの難しい病気にまで追い込まれてしまい、普通の生活が送れなくなってしまうところまで来てしまいました。
それでも人を憎むことが出来ない性格とか、辛いことは全部心の内に引っ込めてしまう性分というものは、入院や投薬で治るものではありませんし、カウンセリングで完治出来ることでもありません。
ただ、そんな自分を責めないための訓練と、過去を乗り越えることの出来るような訓練を徐々にこなしつつ、もう少し良くなったら、もう一度真宗カウンセリングを受けてみたいなという気持ちに今はなっていますが・・・、 これがコロッと変化するので厄介です。
ただ、今日はそれだけ調子が良いようです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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私そのままで [心]

今日から10月なのですね。 あと三ヶ月で「今年」と命名された年が終わりを迎えます。
そして私は、いつ終わるのかしら・・・・・

春から夏へ、夏から秋へ、そして秋から冬になり、やがてまた春が巡ってきます。
当たり前のことですが、季節は何度めぐり巡っても、一時として同じ「時間」はありません。
一昨年の秋を想い出しながら幸せに浸っても、去年の冬を想い出しながら懐かしさにくれたとしても、もう、済んだことです・・・。 振り返ったからと言って、嬉しく思い出すことは出来ますが、そこに想いを寄せても仕方のないことですし、例えば、過去に失敗してしまったことを教訓として活かすことも…、覚えておくことさえも出来ないような私ですから、今はただ、過去のことは出来る範囲で忘れてしまうように努力をしています。

それなのに、病院へ行くと無理に思い出さされるのですよね・・・。
結局、いつまでたっても過去という縄に縛られたままである自分を知らされるばかりです。
幼い頃の傷は、やがて成長と共に薄れて行くか、深層意識の蔵へと埋没してしまうものだと思っていました。
でも、引き金が引かれた瞬間、催眠術から覚めたように明確に記憶はよみがえってしまうのです。
これでは治療なのか…、悪化させるための療法なのか…、わからなくなってしまいました。

だから、というわけではありませんが、「生きる」って手さぐりなのです。
人生の分岐点に立たされる度に、どちらが「正しい」とか、「間違っている」とか決めたがるものでありますが、ある時、フッと気付いたのです・・・、 「な~んだ、何一つとして間違っていることなどなくて、だからこそ全部が全部間違っているんだ!!」って。
「わかる」とか「わからない」とか、グシャグシャに混んがらがった私が、わかるはずがないものを、信じていたのですね。

でも、妄想は止められません。
それに囚われることなく、自分の足で歩いて行くしかないのですね。
間違いを間違いと気付かされつつ、頑固に自分を貫き通そうとする私そのままで。
南無阿弥陀仏
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私は私なんだよね! [心]

人は、丸裸で生きることは出来ません。
私たちは衣服で身を包み、建て前と嘘で心を覆い被せて、隠すべきところはちゃんと隠していないと生きていかれないのが今の世の中です。

私は幼い頃から非常に引っ込み思案でした。
人との挨拶は、父から仕込まれた作法通りにこなし、その後は母や妹の影に隠れて何もしゃべれなくなってしまうほど人見知りが激しくて、とにかく人と接することが大の苦手でした。
それは小学5年生の頃まで続いたのですが、そこで第一回目の転記に迎え積極性に芽生えはじめたわけであります。 と言っても、人並み程度に言葉を交わすことができる程度で、積極的に友達を作るなんてことはまだまだ出来ませんでした。
二回目の転機は高校に入学した頃です。 父の目が私から離れたことと、積極性を持って物事に取り組める環境に置かれた良縁で、初めて自分からアレコレと行動するようになりました。
三回目の転機と言えるかどうかはわかりませんが、大学を出て銀行に就職したのをきっかけに、接客業が必要不可欠であったことや、社会の中で出世競争の波にうまく乗れるよう、積極性や建前などといった、世の中を上手に生きていくための知恵をたくさん身につけました。

でも最大の転機は、日本を離れたことにあります。
性別とか年齢とか、それにお互いの個性を越えて、人を選ばず積極的に他人との関わりを楽しむようになったのは、アメリカ生活で学んだことで、これが一大転機となりました。
でも、元々の性格である相手のことを考え過ぎて臆してしまったり、ついつい石橋を叩いてしまうところなど、まったく消えてしまったわけではありません。 ただ、「たくさんの人達とお友達になりたい!」 その思いだけで動いているにすぎないのです。

そんな考え方や行動は日本へ帰国してからも変わることなく、話したいなぁ~という人がいれば臆せずに声をかけてしまうし、私はそれを「楽しいこと」として位置づけるようになっていました。

しかしある方から、「それがあなたが一部の人から嫌われる原因なのよ!」と教えていただき、ここ二日間、真剣に考えました。
 
でも、正しい答えなんてないんですよね!

私は私でしかありえないから私の生き方しか出来ないし、嬉しいと感じた時は思いっきり喜んで、悲しいと感じた時は気が済むまで泣いて・・・ それが今を生きている私なのです。
こんな私を好きだと言ってくれる人もいれば、そんな私は嫌いだと言う人もいるでしょう。
でもそれって、当たり前のことなんですよね。
だけど私は、「私を好きでいてくれる人も、私を嫌ってくれる人も、私の方からは嫌いになりたくない」という昔からのモットーを変えるつもりはありませんし、頑固者ですから変えられないです。

それは理想論かもしれません。
だけど私は、こんな私のままで生きていくことしか出来ないし、これが私なんだもの!って・・・、 そんなベールがふわ~っと私の上に下りて来たみたいで、何だか急に幸せモードに入っちゃいました!
そのままの私で幸せを感じられるなんて最高だね! 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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ご挨拶 [心]

BLOGを、書きたくても書けなくなってしまってから、もう四ヶ月が過ぎようとしています。
きっかけとなった辛い経験は、遠い昔の想い出話しのようにも思えるし、つい昨日のことのようにも思えるし・・・・・  
でも、このままパソコンから逃げていては、何も仕事が出来ない・・・・・

特に気分の転換することががあったわけではないのだけれど、自分自身で第一歩を踏み出さなければいけないのだろうなと言う気がして、まずは、「何も書けない」という今の正直な気持ちを書くことにしました。

そんな自分の自分と向き合うことで、私は何に苦しんでいるのか…、何をためらっているのか…、何に怯えているのか… など、そんなことをほんの少しでもわかってきたならば、次はそれらを乗り越えるためにはどうしたらよいのかを考えていきたいと思います。

ここ数カ月、ご心配をくださった方々、励ましてくださった方々、どうもありがとうございました。
また、一歩ずつ、進んで行きたいと思います。


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一日は20時間 [心]

BLOGにご感想やご意見をいただくのは、本当に嬉しいことですね。[黒ハート]
今までは、ほとんど気にしていなかったことなのですが、コメント欄を通して新たに問題定義をちょうだいしたり、お味わいをいただいたりしておりますと、このBLOGに書きたいことが次から次へと山のように湧き出てまいります。

今現在は体調の方も良いとは言えませんが、でも悪くもなく、デスクワークに支障をきたすようなことはほとんどありませんから、メールやBLOGのコメント欄などにお言葉をいただく中で、あれもこれもと書きたい気持ちがい~っぱい出て来て、とてもうずうずしているのですが・・・。
でも、今、急ぎの仕事を何件も抱えているので、なかなかBLOGにまで手が回らずに、書きたいのに書けないことが残念でなりません。

先日、そんな愚痴をある親友に漏らしたのです。
「一日が、あともう一時間でも長ければ、もうチョッとたくさんのことが出来るだろうに・・・」と。
そうしたから彼からこう言われました。
「奈っちゃん、一日は20時間しかないんやで え~ 一日が24時間??? そんなにもあったら、4時間も得したことになるやん!! えらいラッキーや!!!」 って。
[わーい(嬉しい顔)]スゴイでしょ、この発想。 自慢の親友なんです(^-^)v

私は、自分が人間であることも、地球が休みなく周り続けていることも、一日が24時間であることさえも、何もかも、すべてにおいて「当たり前」としてしかとらえていないのです。
でも本当は、「当たり前」なんてことは何一つとして存在しないのだと私は思うのです。
だってこの世の出来事でも、ホンのチョッと、1秒でも、1ミリでもズレていたら在りえなかった、起こりえなかったことだらけだと思いませんか?
科学者だって言います。 「地球の誕生は宇宙の奇跡だ」って。
じゃ~、宇宙の誕生は? それこそ奇跡でしょ?!
そんな奇跡の中に生まれさせていただいて、今を生かさせていただいている。 スゴイことですよね[黒ハート]

一日24時間、人間として生かさせていただいている奇跡の中で、私は自分の一生をどう生きるのか?
そんなことを考えいる余裕もないし、考えても仕方のないことなのかもしれませんけど、でも、ホンの数秒の間だけでも、このたっくさんの奇跡に対してお礼が言いたいですね、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・
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ギルガメシュ 「私の死」 [心]

今日(2/17)は、「ノアの洪水の日」なのだそうです。
昔、父がキリスト教を信仰していた影響で、「ノアの箱舟」の物語は、幼い頃より知っていました。
始めて読み聞かされた時、「どうして雄♂と雌♀の二匹じゃないとダメなの?」との質問をした覚えがありますが・・・、 さて・・・? 何と答えてもらったのかは覚えておりません。

仏教の『経典』というのは、お釈迦さま自らが語られた御言葉・御教えを、羅漢となられたお弟子さま方が書き遺してくださった記録であるのに対して、キリスト教の『聖書』というものは、イエスさまが語られた御教えではなく、過去の伝承的な物語や後世の使徒らが書かかれた著書の集体本であります。
その一つに「ノアの箱舟」のお話しがございますが、これは、インド神話やギリシャ神話など、世界各国に同じような物語がいくつも残されております。
中でも 『ギルガメシュ叙事詩』にあるウトナピシュティムの洪水物語に、興味深い一節を見つけました。
ギルガメシュというのは、古代メソポタミア(紀元前2600年頃)に実在していた王様なのですが、彼の死後、神格化された彼の伝説を叙事詩にした説話集が『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれているものです。

ギルガメシュはかなりの暴君で、その横暴を見かねた神は彼のライバルとしてエンキドゥという野人を地上に遣わしました。 地上に降りたばかりのエンキドゥは智恵なき獣でありましたが、聖娼婦シャムハトとの六晩七日による「交わり」によって野人性を失い、代わりに知恵と判断力を得ました。
その後ギルガメシュとエンキドゥは何度も対決するのですが力互角にて決着がつかず、そんな中で二人の間には友情が芽生え無二の親友となって旅と冒険を繰り広げます。
物語にはギルガメシュとエンキドゥの種々の伝説が書かれているのですが、彼らの数々の行いは神々の怒りをかうこととなり、神によって作られたエンキドゥは、神の意向により死してしまいました。

ギルガメシュは、自分と同等の力を持つエンキドゥが死んだことから、「自分も死すべき存在である」ということを知り、今まで何にも恐れることのなかった彼が、「死の恐怖」に怯えるようになったのです。
そしてギルガメシュは、「永遠の命」を手に入れるための旅に出て、その途中でうわさに聞いたウトナピシュティムという人を求めて西へと向かいました。 その人は、神が起こした大洪水の時に箱舟を作ったことにより永遠の命を手に入れたと言われている人でした。
ギルガメシュは、その最後の旅でウトナピシュティムという人に会って不死の薬草のありかを聞き出したのですが、しかし、それを手に入れることは出来ませんでした。

「自分の死」というものを、「この私の死」と受け取るというのは簡単に出来ることではございません。
ギルガメシュは、エンキドゥの死によって、「人間は死ぬものだ」ということ知り、それは「自分も死すべき存在であるのだ」と我が身に知らされて、生れて初めての恐怖というものを体験しました。 「自分の死」という恐怖です。
親友を失ったギルガメシュは、別離の苦を知り、「死」という苦に埋没して、己が己を衰弱させ、生きていることの苦というものを知ったのだと思います。 その根源は、「自分の死」です。

ギルガメシュの「永遠の命」を求める旅の過酷さは物語に書かれておりますが、自分の命を削ってまで、自分を生き永らえさせるモノを追い求めるなんて・・・、まことに、まことに虚仮なことでございます。
永遠の命が 欲しくて 欲しくて たまらない・・・。 私は死にたくない・・・。 死ぬのが怖い・・・。
言いかえれば、欲望全開のままに、自分が「今」死ぬとも知らずに、自分のして来たことの責任を負いたくない。 それ故に、自分の力で、頑張って、頑張って、命がけでなんとかできると自分を信じ、何とかしようと生き踏ん張っている・・・。
それが私の姿です。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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「真実」と「不実」 [心]

お腹が痛い・・・。  いろいろな原因が重なって、ここ数日、お腹が不服を訴えています。
昨日は、支部法座がありました。 支部活動における種々の問題もあって何かと大変ではありましたが、まぁ~ それはそれ。 御法話をいただき、それなりに法悦をいただいて、これを大事に持ち帰ろうとする私に、「ホンマかいな?!」と私の体調が邪魔をします。
お腹が痛い・・・。  法悦・・・?  そんなもん、いつの間にか、どこへやら・・・?!
まったくもって「真実」とは無縁の我が身に、はぁ~・・・ とため息・・・。
自分の都合で法悦だ何だとほざいているだけで、所詮はこの程度なのです。 我が身の苦痛の前には、「法も悦も利用価値なし!」とばかりにサッサと切り捨て、‘「私」大事’ というヤツばかりがのさばります。
いただきものの法悦すらも自分の手柄にした上で、これを自身の中に取り込もうとするばかり・・・。 そして自分の気の向くままに、こっちにやったり、あっちへ放ったりと、本当に大事ものなどまるで存知なし。
そんな我が身を通して、「仏法まことやなぁ~」 と 味合わせていただきました。

仏法と出遇う前までは、「真実」って、自分が作るものだと思っていました。
でも、自分というヤツを知れば知るほどに、こんなモノ(私)に「真実」など作れるはずがないと知らされ、「「真実」は作るものではない!」 と断言出来るに至るまで、いったいどれほどの「偽真実」をこしらえてきたことか…。 そしてこれを壊される度に、何度悔しい思いに泣き、これを人のせいにしてきたことか…。

また、仏法を聞き始めた頃には、どこぞにある「真実」というヤツを手に入れることこそが、「真実への道」だとも思っておりました。
真実はいずこに? と・・・、 「真実」を発見するため、それと出遇う為の苦しい旅(人生)を「聞法」と呼び、そして、そこに苦悩と安心を交互に見つけては、その度に 「あぁ…、私は 「真実の道」を着実に歩んでいるのだ…」 などと本気でそう思っていました。

でも、これらを、「あぁ、間違いだった!」 と気付かせていただい時の、あの呆気らかんとした感覚・・・。
歓喜も懺悔もない・・・。

ただ、私が何と思おうとも、たとえどんな私であろうとも、絶え間のない「真実」が、「真実」の方から常にこの私に向かって働きかけてくださっている。 その光を真正面からこの身いっぱいに浴びながら、何も感じていない私がここにおった・・・。 「真実」を「真実」だとわかるはずのない私がここにおるのだと・・・。 これに対して文句や言い訳と言った類いの言葉が出て来んようになってしまった不思議を、ちょっぴり不思議に 「ありゃ?!」と感じただけのこと・・・。

お腹が痛けりゃ、御法どころじゃない私。 どんなに大そうな法悦であっても、身体の苦痛で即吹っ飛んで、今生の我が身の一大事、二大事、三大事こそが大事、大事と慌てふためき、そんな苦悩の連続に、出て来るものは愚痴ばかり・・・。 はぁ~・・・
こんなにもお粗末この上ない「私」というモノを観させていただける力こそ、ただ ただ いただくばかりの「真実」だったんやなぁ~。 「真実」を「真実」と知らせてくださる力こそが「真実」だったんやなぁ~。 「真実」なんてもんは、ようわからんけど、「虚仮不実」の私を知らされる度に、仏法まことと「真実」が浮き上がる。 自分勝手なものだけどね。
でも、有り難いさね~!  「虚仮不実」であることを観せられる度に、有り難いさね~ぇ!!
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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言い訳 [心]

私は、お相撲さんの世界のことにつきましては頓と疎いのですが、今、世間をお騒がせしておりますニュースの概要くらいでしたら、ある程度のところまでならついて行けます。

「八百長」というのは、相撲界に限らず、スポーツ界ではあるまじきこと・・・。 
でも、この「八百長」という言葉、その由来は相撲界と全くの無関係というわけではないのですね~。
その昔、八百屋をしている長兵衛さんという人が囲碁仲間の伊勢ノ海五太夫(大相撲の年寄)さんと碁の勝負をしては、わざと負けていたのですって。 なぜ?って、お店の商品を買っていただくためのご機嫌取りです。
しかしこれが後にバレましてね、真剣勝負を装いながら事前の打ち合わせ通りの勝負をつける「いんちき」という意味で、八百屋の長兵衛を略して「八百長」と呼ばれるようになったそうです。

八百屋の長兵衛さんの場合も「理由」があって八百長をしたように、今回の事件で関与を認められた関係者の方々にも「言い分」というモノがあったわけです。 これ、いわゆる 「言い訳」というやつですね。
この「言い訳」ってやつですが、この世を生き抜くためには大切な行為だと思います。
世間の人たちは、その「言い訳」を聞いて、これを各々独自の世界で「善し」・「悪し」との判断をつけて、敵にも・味方にもなってくれるのですからね! 内容によっては、刑罰だって減刑されます。

自分の行動には、必ず「言い訳」がついて回ります。 たとえ無意識にしたことでも、後々には立派な言い訳が組み立てられて、いつも自分の行為を正当化しようとします。
でもまぁ~、この世のことならこれでOKです!!
だって、言い訳もせんと寡黙な人を気取っておっても、あんまりいい目はみませんからね~ぇ・・・
それから、たとえ言葉には出さなくとも、他の人からは見えないところ、つまり、私の心のド真ん中にズボンッ!と立っているのは、やっぱり 「でも私は!」、「だけど私は!」という 『我』 であり、言い訳をしまくっている人も、無言を貫いている人も、所詮はみな同じな穴のむじなだなぁ~と思うのです。 少なくとも私自身はそうです。
快調に言い訳の出来る時には、裏も表もなく他人のせいにしまくっておりますが、言葉に出せない心境だったり、口には出せない事情があったりした時でも、心の中では 「たとえ世間が認めてくれなくても私は悪くない! 私は正義を貫いているのだ!」と少なからず思っている自覚はありますし、たとえ鬱症状の出ている時に、「全部 全部 私が悪いんだ! すべての悪の根源は私なのだ!」って思っていながらも、身体はこれを受け付けていないというのが正直なところです・・・。

人に対しても、自分に対しても、私は、いつも いつも 言い訳ばかりです。
世間向きには通用する「言い訳」というやつも、閻魔さまの前ではまったく通用いたしません。
いくら自分で自分を「善し」としていても・・・、 世界中の誰もが「善し」と認めてくれたとしても・・・、 私のする行為のどれ一つをとってみても通用する「言い訳」など一欠片もござらん!! とのお叱りを受けたことがございます。

今・・・・・、 とても悲しい気持ちになりました・・・・・・。

言い訳の出来ない世界があることを教えてくださっても、言い訳の止まない私・・・。 そんな私を如来さまは責めたりなどなさいません。 でも、悲しんでおられます・・・。 この涙が、そう教えてくださいました。
言い訳をしたくなったら、 他人ではなく・・・、 自分でもなく・・・、 私の如来さまに言ってみます・・・。
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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癒し [心]

「何をしている時に癒される? どこにいる時が癒される?」 と 聞いてくださった方がいます。
たぶんですが・・・、 普通 こんな質問をされたならば、まず自分の中で「癒し」というキーワードに引っかかったアレコレを思い浮かべて、自分にとっての最上の癒しとは?と考えるのではないでしょうか?
もちろん私も、この質問に答えるべく自分なりの回答は一考いたしました。
私が 「癒されている」 と感じるのは、 光を目に…、風を肌に…、水音を耳に…、そんな自然の不思議に抱かれながら「生きているということ」、それはつまり「愛されているということ」が実感できている時に癒されているなぁ~と感じます。 と、そうお答えさせていただきました。
でも、この時、まず私の頭に浮かんだのは、私はこの問いかけ自体にとても癒されているなぁ~と感じたことであります。

「癒す」とは、病気や傷、苦しみなどをなおすという意味であり、それを質問するということには、二種類の意味があると思います。
一つは、「自分に癒しが必要で、どうしたら癒されることが出来るのかと自身のためのアイデア(得策)を得るために聞く」ということ。 そしてもう一つは、「質問した相手を癒すために、何をするのがベストなのか、自分に何が出来のか、そのアイデア(得策)を得るために聞く」ということ。 この質問に限ったことではございませんが、自分の為に聞くのか、それとも相手のために聞くのか、という方向の違った二種があると思います。

私へのその質問は、後者の意味をもっていました。 つまり、自分が何をすれば相手を癒すことが出来るのかとの問いかけでした。 ですから、その心がとても嬉しくて、その心にとても癒されたんです。

相手にそう問いかけること自体はさして難しいことではないと思いますが、相手から受けた答えを実践していくとなると、出来ることと、出来ないことが出てきます。
ましてや抽象的な回答であった場合、よほど相手のことを理解していなければ、その真意を読み取ることは不可能で、せっかくの問いかけも、その心も、二束三文になってしまうでしょう。
でも、もしそれが出来たならば、それは癒しへの最短コースとなるでしょうね。

つまり、 「癒す」 = 「治癒する」 ということは、相手をよく知る必要があります。 これは不可欠です。
どんなに良い薬や治療法があったとしても、その症状に合致していなければ効力を発揮することはできません。 それどころか、余計に病気を悪化させてしまうということにもなりかねません。
その症状に合った薬や治療法というのは、細かく見て行けば見て行くほどに、一人一人違ってくるはずです。 簡単に見ていったとしても、例えば同じインフルエンザウイルスに感染した人でも、その年齢や感染時期や症状によって薬も治療法も違ってくるでしょう。

私は、仏さまというお医者様に、「無明業障」 という、この上ないおそろしい病にかかっているのだと診断され、そのお薬を処方していただきました。
同じ病気にかかっている人は、私の周りにもたくさんおられ、みな、同じお薬を処方されています。
でも、治療法は一人一人違います。 私には私に合った治療をほどこしてくださっています。
それが出来るのも、私の病状を事細かに、その根の部分から知りつくしておられるからです。

「どこにいたら癒せるのか」、「どうしたら癒せるのか」、これを知るために、私を知りつくしてくださったのが阿弥陀如来さまです。 そして如来さまご自身が“南無阿弥陀仏”というお薬になってくださいました。
だけど、その効果は私にはわかりません。 なんたって、私は病気である自覚がないのですから・・・
それでも、その御心にふれさせていただい時、とても癒されるんです。

「何をしている時に癒される? どこにいる時が癒される?」 と 聞いてくださったその心に癒されたんです。   南無阿弥陀仏

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信じる心 [心]

「信じる」ということは、とても難しいことです。 いいえ・・・、 私には出来ないことだと思います。
この自分さえも信じることなど出来ないのですから・・・。

私の中からはいろいろな思いが次から次へと絶え間なく出てまいります。
「信じたい…」「信じてる!」「信じてる?」「信じられない」「信じさせて」・・・・・ 心コロコロ心も無常。

「何を信じて、何を頼りに生きていますか? 究極の拠り所はなんですか?」 と聞かれれば、御法の世界では、「“南無阿弥陀仏”です!」なんて、心にもないことを口にしたりしますし、人によっては、「“南無阿弥陀仏” これ一つで他はなんにも要りません!」とまでおっしゃる方もおられます。
でも、私の場合は、ホントに口先だけです・・・。 実際は、お金が頼りであり、家族や親友が頼りであり、そして何よりも自分自身の身体や思考を頼りにして生きています。
「“南無阿弥陀仏”でお腹いっぱいになれますか?」ともよく問われるのですが、一時的にそんな気持ちになることはあったとしても、「何が起きても“南無阿弥陀仏”!」、「諸行無常の世の中だもの、“南無阿弥陀仏”さえあればいつだって胸焼けするほどお腹いっぱいよ!」 な~んて・・・、 私にはとてもじゃないけど言えません。

「後生」が抜けては仏法とは言えません。 でも、「後生」を抜いた仏法モドキの世界にドップリと浸かりながら聞く御法は、所詮、上記のようなものなのです。

私は「今生事」に精一杯で、縁あって「後生」に思いを触れさせていただくことはあったとしても、まずは目前の「今生事」を何とかしなければ、とても「後生」のことなんて聞いてなどおられんわい!と、「後生」はいつも後回しです。

先の 「信じる」・「信じない」の話もそうです。 後生も 仏さまも 抜きにした、今生事の話しです。
今は信じていても、数分先にはわかりません。 そう・・・、 変わる心がわかっているから怖いというのもあるのでしょうね。
つまり、私には、信じる心など持ち合わせていないのです。 
「約束」は、破るためにあるのだとよく言われますが、「信じ心」は、裏切るためにあるのだとも言えるのかもしれませんね。 それは、とても寂しいことだと思います・・・・・

「信心」と言うのは、信じる心と言うことです。 しかし、無常の心を持つ私の「信心」なんて、ホンの一時、この私がすがりつくための拠り所としての「信心」が芽生えたにしか過ぎず、これはやがて枯れていきます。
じゃ~、「信心」って何?

「信心」は「信じる心」です。 でもそれは、私が何かを信じる心ではありません。
私が信じているモノは、私の欲心であり、妄念妄想でしかありません。
私には信じる心などありませんが、そんな私を愛してくださっている御心、それが「信心」だと私は思うのです。
「自分は誰からも信用されてない・・・」、 「誰も自分のことなんか信じてくれない・・・」
そう呟いているその人、ひとりひとりを信じてくださっている御心があります。
私にも、あなたにも、あの人にも。 世界中の人が誰ひとりとして信じてくれなくても、その御心は、昔からず~っと、今現在も、そしてこの先の世でも、「あなたを信じていますからね!」との御心で包んでくださっています。
だから、私は信じられんままでいいんです・・・、 残念ながら、信じたくても信じる事の出来ないのが私なのですから。 でも、そんな私だから信じてくださっているお方がおられるのだなぁ~ と、今、ノホホンッと味わっております。 南無阿弥陀仏

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なまんだぶつ [心]

早いものです。 今年になってから もう一ケ月が過ぎてしまいました。
時の流れを「無常」という言葉で片付けてしまうことは容易いけれど、それは「無常」ということがわかっていないからだと思います。 私は…、本当にわかっていないです・・・・・

辛いことがあると、時間の過ぎるのがとてもゆっくりに感じられたりします。 私にとってこの一ヶ月間…、いえ…、この半月間は、とても とても 長く感じられました。 でも、この一年,二年は、今までにないような苦悩の連続で、そんな経験を重ねた割には、長~くもあり、短くもあり・・・、 今はそう感じる…、ただ、それだけのことなのですね・・・。

ここ最近、この一,二年のマイナス的要因な出来事が頻繁に思い返されたりして、記憶の時間的錯覚にフッと飲み込まれそうになることがあります。 ここ一,二年の記憶と言っても、「あの時こんなことがあったね」などといった “出来事” の回想といったものではなく、“心(想い)” の積弊といいますか・・・、 とても辛かった時の心境が、まるでドラマでも見ているようにフラッシュバックするような感覚に襲われることがあります。
私・・・、 その度に人のせいにしてきて・・・、 そんな自分に嫌気がさします。

今朝・・・・・・・・・・  思いもよらぬ出来ごとに動揺しました。 それが現実のものなのか、記憶の錯覚であるのか、すぐに飲み込むことが出来ませんでしたが、それはまぎれもなく現在進行の出来事であると認識した後は、かなりHighな気分になって・・・、それからしばらくすると今度は緊張がどんどん高まり、それに耐えられなくなって薬を服用し・・・、その後の記憶はぼやけています。
でも、お昼過ぎにいただいた一通のメールで、今日初めて自分と出会うことが出来ました。 そして思いっきり泣きました。 随分と長い間、泣きながらお念仏をいただきました。 なまんだぶつ。

発作が起きて胸が苦しくなったり痛くなったりすると、そこの所を刺してみたくなるんです。
死んでしまおうだとか、命がど~のこ~のと深く考えているわけではなく、ただ楽になりたいと言いますか…、こんな邪魔っけなものなどエグリ取ってしまえ~!とか、ただそれだけなんです。
でも、それがどんなことなのか・・・、どんな結果を招くことになるのか・・・、それらとちゃんと向き合うことをそのメールは教えてくださいました。
そして、私は如来さまの願いのもとに生かされているのだということを、改めて説いてくださいました。

自分に与えられた命を全うするということは、簡単なことのようですが、本当はすごく難しいことです。
そして、真実を知らないということは、本当に 本当に 恐ろしいことであります。
人として生れてきたことを当たり前のように思い、生きていることを不思議とも思わず、死んで行くことも知らないのですから・・・  私は、何もわかっていない、 本当に、何一つとしてまるでわかっていない・・・。
真実を真実として聞くことが出来ないんです・・・・・。

でも、声は聞こえます。 こんな私でも、声は聞こえます。 なんまんだぶつ  なまんだぶつ

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因果の道理 (今生編) [心]

今日の夕方、フッと湧き上がったことをBLOGに書いておこうと思いパソコンに向かったのですが、これをUPした後、外出先で先ほど書いたものがとても気にかかり、携帯電話の小さな画面で読み返してみましたら、まぁ~ 随分と傲慢な文章が書かれていて、とても恥ずかしいと思いました。
それに、先ほど書きたいと思い立ったこととは内容がズレていて… といいますか、書こうと思っていたことが書かれておりませんでした。 と言うことで、改めまして書いてみたいと思います。

書きたかったテーマは、先ほどと同様に 「因果の道理」 でございます。
最近体験いたしましたある出来事を通して、私を支えてくださった多くの法友らがみな口をそろえて言うのです、「それこそ因果の道理そのものじゃん!」 と・・・・・。
「因果の道理」とは、自分の蒔いたタネ(因)は、自分の元で実(果)を結び、これを自身で刈り取っていかんならん世界があるという真理です。
その人が受けている結果というのは、他の誰のせいでもない自分自身で蒔いたタネが実を結んだのであって、これはどんなに身近な人であろうとも他人が肩代わりすることなど決して出来ないのであります…、自分自身で受けていかんならんのです。

先のBLOGに書きましたのは、「命」ということを軸に因果の道理のお味わいをさせていただいたのですが、自分の造った原因のその結果を受けるのは、何も次生に限ったことではございません。
子どもの頃によく言われませんでしたか? 「ほ~ら、罰が当たった」って! 私はよく言われました。
ことわざには、「身から出た錆」とか、「汝より出ずるものは汝に返る」などと言われ、仏教では、「自業自得」とか、「因果応報」と言った言葉もあります通り、自分の犯した罪で自分自身が苦しむことになるのだよというのは、誰もが周知しておられることと思います。
ただ、ここで問題なのは、「知ってはいるけど、そうは思えない!」と言っている自分がいるということであります。

悪い結果・・・、つまり、「自分のこの苦しみは、自分のせいなのだ。 自分が犯した罪の結果なのだ」 と、100% そう受け入れることが出来るかと言ったら、そりゃ~無理な話ですわね~。
私のような病気やトラウマを持っている人、また自分を責めてしまう性格の人などは、「オマエが悪い! オマエのせいだ!」などと言われると、「そうだ、私が悪いんだ・・・、すべて私のせいなのだ・・・、こんな私を許しちゃいけないんだ!」と言って自分自身を追い込むことはあります。
でも、「私が悪かった」と頭で受入れていたとしても心が苦しみ出すでしょ? 自分を追い込んでしまうのも、「自分が悪いんだ」と無理に納得させようとするからではないでしょうか。
「本当に自分が悪かった。 こんな私だもの苦しいのは当然の報いであり、辛くて当たり前だわ」と受けていたならば、苦悩などなくなりますよね・・・・・・

要するに、因果の道理は知っていても、これを受入れる事の出来ないのが私なのです。
だから罪を罪とも思わずに悪を重ねて、その報いを受けると腹を立てては人のせいにして更に悪を重ねていくという悪循環にドップリとこの身を浸けているのです。

因果の道理は常に有効です。 
私がしている言動や行動、私が心に思ったことも、そのすべてが「因」というタネまきとなり「業」となります。 そしてその結果を受けていかんならんという真理があります。
「まさかこんな結果になるとは・・・」との後悔はしても、それを人のせいにしている間はやっぱり苦しいと思います。 たとえ自分の中に直接的な原因を見つけることが出来なかったとしても、今、自分が受けている結果のその原因はこの私にあるのだと仏さまは教えてくださいました。  南無阿弥陀仏

最後に一つ、今日の夕方、フッと湧き上がってBLOGに書きたかったこと。 それは、
どのような「果」を受けようと、そこには「因」があるからです。
「因」があるということは、私がしでかしたことの裏となり表となった、おかげ様の「犠牲」と、おかげ様の「御苦労」があるのだということを忘れてはならないなと、フッと思ったわけであります。  南無阿弥陀仏

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因果の道理 [心]

仏教は、「因果の道理」を教えてくださいます。
「因果の道理」とは、自分のやったこと(因)に、自分で責任(果)を取っていかねばならない、ということでありますが、情けないことに、私は自分のしたことに責任を持つことが出来ません。
ですから言葉を変えて言うならば、「因果の道理」とは、自分がやっているすべてのこと(因)において、必ずその結果(果)を受けていかねばならないとの理にかなった道が定められている、と教えてくださっているのはないでしょうか。

因果の道理でよく言われますのは、「命」についてでございます。 私は自分が生きるために、当たり前のごとく他の命を糧にしているわけですが、一つの命を奪ったならば、その責任は自分が有する同等の持ち物で返していかねばならないということ、それが責任を果たすということでございます。
つまり、「私が生きるため」 という自分本位の理屈のもとに私が喰ろうた命であっても、その命を奪ったという事実、原因を作ったからには、この私の命でもってこれを返さなければならないという結果を必ず受けねばならないということ、それが「因果の道理」なのだよと教えていただきました。

よく、テレビのニュースやドラマ等で、殺人事件や交通死亡事故などの被害者家族らが、加害者に向かって、「オマエの命でもって償え!!」と言われる場面を目にいたしますが、これは人間同士の世界に限ったお話だけではございません。 鳥や、魚や、全ての動物にも私と同じように命があって生かされているのです。 それぞれに、たった一つしかない命なのです。
それを、「私は人間だから」と言って奪ってもよいという理屈など通用しないのが因果の道理です。
なぜならば、すべての命は平等だからです。 南無阿弥陀仏

もしも人間を食用とする生き物がこの地球に存在していたとして、「私は食べ物として生まれて来たのだから、どうぞ食べてください」と納得して食われることなど出来はしませんよね…、「この世は弱肉強食の世界、どうぞ強いお方さまが生きていかれるために私を食って下さいまし」などと、たった一つしかない自分の命を喜んで差し出す者などいようはずがありません。
それは、たとえ食用として育てられた牛や豚、鳥や魚にだって言えることです。
彼らにも心があります。 捕らえされ、屠殺される時には、殺されるということがわからなくても、「怖い!」と叫んでいます。 「助けて!」と懇願しています。
きっと私も同じです・・・。 「死ぬかもしれない、殺されるかもしれない」とは思っても、自分が死ぬとは思えずに、ただ 「助けて! 怖い! 殺さないで!」と、もがき叫ぶことしか出来ないと思います。

これをお読みくださった方の中には、「そんなこと、知ったこっちゃない!」と思われる方もおられると思います。 でも、私も同じなんです。 そんなの知ったこっちゃないんです。 私が生きていくためには、他の命を美味しく料理して、私の持っている五感と欲をただ満たしたい! それだけなんです。
でも、「その責任をとっていかなければならないんだよ」 と教えてくださっているのが仏さまの教え(仏教)であります。

しかし、先にも書きました通り、私にはその責任を果たすことができません。
私が生まれてからこの方、ましてやこの先どれほど生きられるのかはわかりませんが、その間にいったいいくつの命を奪うことになるのでしょうか? ちなみに、私の命は一つしかございません。

随分と都合のよい話ではございますが、私が食べ物として喰ろうている命のすべては、この私一人を生かすために、私の如来さまご自身の命を投げ出してくださっているのだと教えていただきました。
私が生きていくためとはいえ、私が喰ろうた一つの命の責任を私はその場ですぐに返すこともなく、今、こうして生かさせていただいております。 それは何故でしょうか?・・・・・・
如来さまがおっしゃるには、「何故に生かさせていただいているのか」を知るために、人間として生まれさせていただいたのだと・・・。
何故、人間として生かさせていただいているのでしょう? 
これを教えてくださっているのが仏教です。 「因果の道理」があるのだよ! と。
この世で如来さまが肩代わりしてくださっている私の責任を、次の生では私自身が受けていかねばなりません。
「因果の道理」は、「真理」です。 信じようと信じまいと真理なのです。   南無阿弥陀仏

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如来さまにお任せ [心]

今、やりたいことがあるんです。
でも、それをしてはダメなんです。
だから、すごく複雑な心境で、とにかく落ち着かないのです・・・。
頭で理解していることと、心が求めていることとが、ず~~~っと チグハグなんです。
そんなことを先日のBLOGにも書きましたが、今、自分の中でたった一つのことが明確に、「やりたい」と「やってはいけない」とに分かれていて、頭と心で戦っている感じです。

職業柄、私のような危険人物を身近で見て来たキャリアを持つ親友に、今、いろいろと教えていただいています。
今まで誰にも話せなかったことを一つずつ言葉に出来るようになってきたのも、私の知らなかった私を彼が指摘してくださって、そんな自分と出会っていく私をそっと支えてくださっているからだと思います。
自分でも驚くような自分を発見した時にはやはり戸惑います。
その戸惑いを一人で抱え込むことを禁じられ、何でも話せと受入れ態勢万全に聞いてくださって、これをストンッと受け止めてくださった時、私は初めて自分に対して正直になれたように思いました。

でも、自分に正直になるのと、その正直な気持ちを行動に移すのとは別問題です。
その思いを行動に移すことが誰にとってもベストの選択であるのならば、即実行!というのも悪くはないでしょう。 でも、行動することがベストであるかどうかの選択は、自分自身で見極めるのはとても難儀なことです。
やはり、当事者ではない見方の出来る人の意見が頼りとなりますし、私のようにそれ相応のキャリアの中で同じ様な事例を経験的に見てきた親友の意見ならば、これほど頼りになることはありません。

私が今、どうしてもやりたいこと・・・。
それをすることによって良い結果が出るのか悪い結果が出るのか…、それは誰にもわかりません。
また、今後をより良くするためにと考えて、今、どうしてもやりたいけれどもこれを行動に移すべきではないと判断しそれを我慢していることが、はたして正解なのか不正解なのか…、それも誰にもわからないことです。

親友からのメールと時を同じくしてInさんからこんな言葉をいただきました。
如来さまが出来る事なら、出来る範囲で何とかしてくださいます。
 もし無理な事ならば、何故に無理なのかを、ちゃ~んと気付かせてくださいます」 と。

私にあるのは、「こうしたいんだ!」 との思いばかりです。 たとえ自分が砕け散ることになったとしてもかまわないから、とにかくやりたいんだ!と、我省みず欲と希望と楽観で我が思いを煮えたぎらせるばかりです。
みんなが口をそろえて「無理はするな」と言ってくださっているのに、私一人が我慢できずにいる・・・。
「自分をもっと大事にしてね!」というみんなの願いを…、その心を…、私は自分のわがままで踏みにじろうとしている・・・。
これって、私が御法に向かう姿そのものです。
如来さまに任せられずに自分の思いを優先させて、自分の考えを良しとている姿そのまんまです。

そのまんま・・・、「私の願いはこうなんだ!」と叫んでいるままに、如来さまにお任せします。
「絶対に良い結果を出してよね!!」 なんて暴言を心中にたぎらせているまんま…、後生も何も抜きにして、私は如来さまを利用するばかりです。 南無阿弥陀仏

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「愛」の伝染病 [心]

「生きているのが辛い…」 という 心の叫びに気付いてくれる人がいるというのは、ものすごく幸せなことです。 どんなに平静を装っていても、無理しているところに気付いてくれる人がいるというのは、とても とても 幸せなことです。
「何があったの?」 と聞いてくださった瞬間に、あぁ、私の悲鳴に気付いてくださった方がいたのだと…、私の叫びに耳を傾けてくださる方がいるのだと…、その優しさにふれた時、やっと泣き崩れる事の出来る甘えと出会わせていただきました。
そんな愛に包まれているからこそ、今日も生きていられるのだと思います。

人間って、ただ食しているだけでは生きていかれない生き物だと思います。
愛し、そして愛され、それを活力にしてこそ生きていられるのだと思います。
この私一人を生かすために、どれほど多くの命が犠牲となり…、どれほどたくさんの愛情というおかげ様が必要なのだろう… と思うと、本当に一人では生きてゆかれないなぁ~とつくづく思ったわけでございます。

「愛する」とは、「執着する」ことだと教えていただきました。 確かにその通りだと思います。
でも、「優しさを分け与える」というのも、「愛する」ということになるのではないでしょうか?
執着するだけならばそれは押し付けにしかならず、執着される側も辛くなるばかりだと思うのです・・・
愛するって、相手を苦しめることなのでしょうか? 愛されるって、辛く苦しいことなのでしょうか?
私が愛されていると感じるのは、私を想ってくださるその心にふれさせていただいた時です。
それは、あたたかくて安心のできる愛もあれば、時には厳しくて切ない愛もあります。
でも、その相手の想い云々を超えた、その人の幸せを願っての言動であれば、温かろうと厳しかろうと、その心・想いは、「愛」として、ちゃんと相手に伝わるものではないのでしょうか。
「愛しているから…(執着)」 という建前のもとに、自身の想いを最優先にこれを相手に押し付けることを「愛」と呼ぶのであれば、それはあまりにも悲しことだと私は思うのです。

如来さまが私を想ってくださる心を感じさせていただいた時、それはとってもあったかくって、すっごく安心ができて、本当に心地がよくって、 考えるよりも先に、「ありがとう、なまんだぶつ」って出てきました。
その愛は、とっても とっても ものすご~く大きくって、このあたたかさを他の人にもおすそ分けしてあげたい…、という気持も同時にいただいたように思います。

凡夫のほざく「愛」なんて所詮は「欲愛」でしかないでしょうし、私自身、人を愛する心なんて針の先ほどにもないと思いますが、それでも人からいただく愛によって心を癒されたり、勇気をいただいたりすると、他の人にもこのいただいた優しさを伝えたくなります。
そうかと言って、私の中には誰かにあげられる愛なんて全然ないのかもしれない・・・、 私はいつだって愛を求めるばかりの強欲な人間だもの・・・。 ホントに、私の中から出てくる愛なんて、「自分の為」ということが前提の醜い欲愛ばかりで、他の人におすそ分け出来るような愛なんてないと思います。
だけど、「いただいた愛」というのは、私の心を通り抜けて、他の人にもそのあたたかさを伝えることのできる力を持っていると感じています。

最後に・・・、 私は、血縁的な家族に恵まれた境遇にはありませんが、血のつながりを超えた家族には、とても とても 恵まれています。 父や母、兄弟・姉妹と、大家族です。
私は自分の都合やわがままでたくさんの人たちに迷惑をかけているのにもかかわらず、その家族はこんな私を愛してくだされる・・・、 私は、そんな愛に支えられて今を生きていられるのだって、自信をもって言えます。
私なんて・・・、自分の施した迷惑の代償に愛をいただくばかりです。 こんな理不尽な法則がなぜあるのかしら?と考えた時、やっぱり一つの答えにたどり着きます。
法の家族がこんな私を愛してくださる心は、私の本当の幸せをただ願う心でした。 だからこそ、あたたかい愛もあれば、厳しい愛もあります。 でもその心は一つなんだなぁ~、それが「愛」というものなのだなぁ~ って。

「愛」と言うものが存在して、こんな私を愛してくださる人が居てくださったから、その愛によって愛し・愛されることを教えていただきました・・・。 もし、誰からも愛されていなければ、「愛」という心を、私は知る由もありませんでした。
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自分と向き合うということ [心]

「自分と向き合う」 ということ・・・、  これは とても とても 難しいことです。

「仏法を聞く」 とは、「如来さまから見られた私を聞かせていただき」、「その私にかけられた如来さまのご苦労を聞かせていただくこと」だと教えていただきました。 いずれも、私が一人勝手に聞けることではありません。 真実を真実と疑いなく受けた方からお聞かせにあずかることでございます。

昨日は、支部の報恩講法座でございました。
御法話のテーマは、「聞信の一念」。 先生から、「私自身が一人となって如来さまと向き合う」ということがポイントであるとお示しいただきました。

以前、「自分と向き合う」 というのは、「如来さまと向き合う」 ということだとお聞かせいただきました。
私たち一人一人が、それぞれの業に従って具体的にこれを観させていただくことが「自分と向き合うこと」であり、こんな私だからこそというところで如来さまのご苦労を知らされることが「如来さまと向き合う」ということなのだと私は受けております。

しかし、「自分と向き合う」ということは、そう易々と出来ることではございません。
なぜならば、私が最も望んでいない、最も毛嫌いすることだからであります。
その根本にあるのが、「私は死ぬのだ」という変え難い事実であります。
「生きている今が全てであり、死んだ先は苦もなく安らかな眠りにつけるのだ」との、何の根拠もない私の理想に対して、真実は、「生きているということは罪(悪業)を作り続けているということで、死ねばその罪を償っていかねばならない業苦の世界があるのだ」と説き、私はこの事実をどうしたって受入れることが出来ないからであります。

それなのに、まるでこの事実を受け入れたかのように、平々とこの真実を口にしている人があります。
他でもない、私自身です。

自身の業縁を通して、「こんな私を観させていただきました・・・、 私ほどの悪人はおりません・・・、 だからこそのご本願でした・・・、 こんな私の為に如来さまは如何ほどのご苦労をしてくださったのか・・・、 私一人の為のご苦労でございました・・・」 そう言っている舌の根も乾かぬ内に、また次々と悪業を重ねている自分のことは棚に上げ、まるで「私は真実を知っています」と言わんばかりに人さまにむかって、真実はどうだ…、如来さまはどうだ… などと偉そうに言っている・・・、 いったい何様のつもりでしょう。
そんな自分が見えていない状態で、何を聞かせていただいているというのでしょうか。

また、人に向かって、「おまえのここが悪い! おまえはこうだから聞けないのだ! 自分の言ったこと、やったことを振り返ってみろ!」 などと言っているその口の持ち主自身がお留守の状態にいては、自分と向き合うということなど出来ているはずがありません。 そう言っている本人こそが、何一つとして聞けていないということです。

自分で自分を観るというのは、見ようと思って観られることでは決してございません。
仏智の御光に照らされたお育ての中で、その人その人の業縁に合わせて観させていただくのですが、私というヤツはどうしたって自身を悪く見ることが出来ません・・・。
業縁の中で他の人を介して我が身の姿と観させていただくのですが・・・、どうひっくり返っても、その人よりも随分と高いところから、自身をひいき目に見ることしか出来ていないのが私です。

「自分と向き合う」とは、ホンに難儀なことでございます。
でも、仏法を聞くとは、如来さまから見られたこの私がどんな輩かということを聞かせていただくことがまず第一にございます。 決して、人に向かって言うことではなく、この私が聞かせていただかなくては仏法にはなりません。
聞かせていただくことによって、私にかけられた如来さまの御苦労が知れてくるのです。

こんなことを偉そうに書いている私こそ聞けていないのです。 私こそが何も聞けていないのです。
聞けない私だから如来さまにご苦労をかけ通しで・・・、ホンに ホンに ご苦労のかけ通しで・・・、
だから、“南無阿弥陀仏”しか言えないんです。 南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
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心の自傷 [心]

私は、すごく辛い時、如来さまを利用します。
泣いている私も…、 泣くことが出来ずに踏ん張っている私も…、 「みんな み~んな 知っているよ、わかっているよ」って・・・、 そう言ってくださっている如来さまの御心にすがりついて、駄々をこね、愚痴や悪態をつき、恐ろしい思案を胸に描いたままの私で如来さまを利用してしまいます。
私は物心のつく頃より親に泣きつくということが出来ず、いつも一人で泣いていました。
一人で泣きながら、自分で自分を責めてみたり…、また慰めてあげたり…。  結局今も変わらずに同じことをしているだけなでしょうね・・・。
それでも少しだけ違って来ているのは、最近は、自分で自分を責めなくなってきたことでしょうか? ・・・と 思っていたのですが…、 でも、ここ数日は逆戻りです。 言われたことをマル受けしてしまい、言われるがままに自分を責めて、どんどん自分を追い詰めてしまっている私がいます。

同じ病を持つ法友に、「負傷したら全身に包帯を巻いて安静にしていなければ傷は広がる一方だよ」と言われて、私が自身の無理に気がつかずに動き回ったりしたものだから、結果、それがどんどん自分を追い込でしまうことになったのだわと思いました。 
また、「奈っちゃんの命は奈っちゃん自身が守らなきゃ~。 自分を大事にして健康を保つというのも仏法だよ」と言われて、私は自分の命を過信しているなぁ~とも思いました。
それでも、「早くなんとかしなければ、どうせ死ねと言われている身だもの・・・」との思いが抜けなくて頑張ってはみたけれど、結局は自分で自分の傷を悪化させてしまっただけなのかもしれません。
きっと私は自傷が好きなのでしょうね・・・

夜は、悪人を取り巻くかのような魔の風が吹きます。 負傷した心は隙だらけなのでその風が身にしみます。

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死にたくない私へ [心]

本音のところは別として、「生きる」ということが、どうでもよくなる時があります。
でも対外的に、プライドであるとか、シガラミであるとか、そ~ゆ~理屈があるからこそ、そこにぶらさがりながら自分で自分を取り繕って生きていられるということもあるのかもしれません。
家族と暮らしていた時には、それらがとても邪魔なことのように思えていたのですが、一人で暮らしておりますと、自由であるが故に生きるということが無法地帯になってしまいます。
生きたい時には貪欲に生に執着し、生きることがどうでもよくなると仮想の死に向かって邁進を始める。
実に身勝手です。

先に記しました、「本音のところ」と言うのは、自己意識で感知していない部分と言うことです。
表面的に 「生きたい」だとか、「死にたい」などと願っていたとしても、所詮それは、その時々に起こって来る一時的な感情であり、今現在の私の思いでしかないということです。
本音のところでは、私は常に「生きたい」んです。 どんなに「死にたい」と願っていても、私は、いつも、いつまでも生きていたいんです・・・。

苦しい時には逃げ出したくなります。 辛い時には何もかも投げ出したくなります。 身体的な苦痛が伴っていればなおさらのこと、「こんな身体、もういらない!」と打ち捨てたくもなります。
でも、それは生きたいからでしょ? 
苦しくなく、辛くもなく、痛くも悲しくもなくて・・・、 楽しく、幸せに生きたいと願っているからこそ、苦悩から逃れたいと必死になってもがくのです。
つまりは、自身に欲深いだけなのです。 私は自分を見ていてそう思います。

因果の道理をないがしろにして独りよがりの快楽を求め、そんな一時的な快楽を幸福と呼んではこれを手に入れることに常に執着している。 しかしこれを手に入れることが出来なかった時、もしくは失った時には、世を恨み人をも恨み、自分自身さえも恨んですべてを壊してしまいたいという衝動に駆られる。
それってただのわがままですよね・・・。
「生きたい」とか、「死にたい」とか、それは究極のエゴイズムです。 でも、それが私なのです・・・。
つまり、「生きているのが嫌になった」とか、「死んでしまいたい」などの思いは、“わがまま”という延長線上にある一過性の“思い”でしかないのではないでしょうか。

見方を変えてみても行き着くところは同じです。
「頭で考えていること」と、「心に思っていること」とが一致しているとは限らず、また、それらと「実際の行動」とが同じであるかといえばそうとも限りません。 例えば、仕事に行かなければならないと頭では理解していても、本当は行きたくないのだと心に思い、そんな葛藤をしている間にも身体は職場に向かっているといった具合です。 しかも、ここに「身体症状」というものも加わってくると、職場には向かっているけど、胃痛や頭痛に見舞われるといったもう一つの不一致の存在もあきらかになります。
結局のところ、エゴイストでありながら、自分勝手には出来ないという自己矛盾を抱えて生きているのですから、そんな中で 「生きたい」とか「死にたい」とかいった思いが出てきてそれがすべてだ!などと思ったとしても、やはり顛倒矛盾した一過性の“思い”でしかないと思うのです。

ただ、そんな自己分析をしたところで、何の役にも立ちませんけどね。

本当は生きたいと願っていながら、精神的に追い詰められてどうしようもなく辛くなった時、また、発作によって身体が切り刻まれるように辛い時、いつも死を望んでしまう自分に対して言ってあげたい言葉を探してみただけです。

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感情は一方通行 [心]

動けない・・・、 動きたくない・・・・・・、

憎しみのエネルギーというヤツは、交通事故みたいに、こちらから起こさなくても、相手から一方的にぶつけられるということがあります。
直接ぶつかって来られたのならば、それはそれでキツイことではありますが、それでも文句や言い訳の一つや二つくらいは言えるかもしれません…。 でも、裏で工作をされていると、これを知った時には、疑心暗鬼になって余計にキツイものがあります。

当たり前のことですが、「感情」というものは、常に一方通行なのだということを知りました。
こちらがその人のことをどんなに好意的に思っていても、それはこちらの思いでしかなく、相手は憎しみいっぱいに憎悪の炎を吐き出してこちらを牽制していたのです・・・
これにいち早く気付けばよかったのですが・・・、私はいつも全身に火傷を負ってからでないと気がつかない・・・、 人からの憎しみのエネルギーに対して私はひどく鈍感なのかもしれません。 きっと、自分の思いが強すぎるからなのでしょうね・・・。

これも当たり前のことなのですが、人の心というものは、とても とても 移ろいやすいものです。
数秒前まで信頼し合っていた人間関係が、アッと言う間もなく一変するということも少なくないのかもしれません。 そして、この「信頼」というのも一方通行です。
こちらが今までと変わりなく相手のことを信頼し続けていたとしても、相手がこちらのことを信頼し続けてくれているとは限りません。 こちらの気付かぬ間に相手からの信頼を失っているということも往々にしてあるのですね、 しかも、徐々にではなく、アッと言う間に・・・。

嫌悪や憎悪と言った感情を相手からぶつけられても、信頼関係が出来ているから大丈夫だわ! なんてタカをくくっていましたが、信頼を寄せていたのはこちらの方からだけで、一方通行の思いでしかありませんでした。
これを、「裏切られた!!」といって 怒りの炎を燃え立たせ、憎しみの感情を増幅させて相手に立ち向かうことが出来たならば、もう少し楽に生きて来られたのかもしれません・・・。
私は、ただ臆することしかできませんでした・・・。 
甘い考えを捨て去る努力をするのが精一杯です・・・。

逃げることも出来ず・・・
耐え続けなければならない・・・・・・
仕方ないです、自分で蒔いたタネなのですから・・・、 命が終わりを告げるまで、耐え続けねば・・・・・。
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今、「聞く」体験 [心]

16年前の今日、阪神・淡路大震災が発生いたしました。
あの日、早朝に大きな地鳴りで目を覚まし、遠く離れた愛知でもその揺れに不安を覚えたのですが、夜が明けてからのテレビニュースに写しだされた数々の映像は衝撃的なもので、数時間前に日本で起きた事とは思えぬようなものでした。

東海地区に住んでいる者として、揺れが起きるといつも、「ついに来たか・・・」と、生れてこの方ず~っと騒がれている東海地震か東南海地震が来たのではないかとまず思い浮かびます。
ですから、揺れ始めて最初に思うことは、「この地震は、本物? 偽物?」と、この地に必ず来ると予知されている大地震かどうかを審議する考えが占領し、その揺れが小さければ、「あぁ、まだ本番ではなかった」と安心するのですがね・・・、これって随分おかしな反応ですよね?!
私の予定では、揺れ初めと同時に 「ついに巨大地震が来た! この命を守るためにどうしたらいい?!」と慌てふためく姿が想像されるのですが、実際は、「どうせこれも小さな地震だろう・・・、大丈夫、大丈夫、 たとえ大地震が起きたとしても、私はまだ死なん、私だけはきっと助かる・・・」と、恐ろしいほどに呑気に構え、無常も何もあったもんではありません。
とても とても 「次の瞬間にはとんでもないことが起きて、この私が死んでしまうかもしれん!!」とは想像に難く、災難も死も、自分とはまるで無縁なところに追いやっているのです。

1.19 メモリアルパーク・希望の灯り.JPG去年、神戸に遊びに行ったおり、メリケンパークにある「神戸港震災メモリアルパーク」に立ち寄りました。 神戸港も震災の被害を受け、その岸壁の一部を被災当時のままに保存してある所です。
また、東遊園地にある阪神・淡路大震災の復興のモニュメントや1.17希望の灯りも見てまいりました。
そして以前、神戸ルミナリエにも行きましたが、
しかし・・・、 どれもこれも震災の追悼や復興を伝えるものという意味を有しながらも、惨事・災害の「サ」の字も感じられないというのが正直なところです。
もっともこれは、私の側の問題であります。 たぶん、私にはその体験がないからでしょう。
それ故に共鳴する心もなく、そこのところで共感的に動く心もありません。
今日も各地で震災の体験者や遺族らの講演会などが催され、これらをメディアを通じて見聞きさせていただいたのですが、そこに心情的な共感は生まれても、それは人の体験を通して感じた私の思いでしかなく、その人の体験や心情は共有できるものではありません。
自分でも小難しいことを言っているなぁ~ とは思いますが…_(^^;)ゞ、 仏法における体験も同じなのではないかなぁなんて思ったわけであります。

真宗の「一念の体験」というものを、私は過去に空想し続け、求め続けてまいりました。
人の体験談を取り込んで自分に当ててみたり…、 自分に起きた「気付き」の体験、その一つ一つを その度ごとに 大切に 大切に握り込んでみたり…、 振り返ってみれば、私の聞法は、「理想の体験」を得るためのものであり、そこに確信があるのだと・・・、 そうであってほしいと願っていたのでしょうね。
人によっては、「体験なんて一度もない」とおっしゃる方もおられるでしょうし、私のように「何度も様々な体験させていただいている」という人も少なくはないと思います。

今、言えるのは、その「体験」というものがゴールではないということです。
「気付きの体験」というもののどれ一つをとっても決して嘘ではないと思うのです。 そのすべては如来さまからの廻向によって体験させていただいているのだと私は思うのです。
また、「一念の体験」というものも、ハッキリしている人、していない人と、人それぞれでありましょうが、でも肝心なのは、過去にどのような体験をしたのかではなく、「今、何をお聞かせいただいているのか」、それを問うていく自らの姿勢といいますか、そこで聞かせていただく体験こそが重要なのではないのかなぁと思ったわけであります。

災害に遭われて命を落とされた方々、 そこに苦悩を抱えて生きておられる方々、 その方々の体験は、人が取って代われるものでは決してありませんし、たとえ共感や理解を得られたとしても、それは一時的に役立つことはあっても、結局、何の力にもなれないのです。
人の体験に共感するも・しないも、そんなことを常に自分目線でほざいている私ってどんなん? なんなん? そこの視点が抜けてるんとちゃうの? と、震災のイベントを見て問われたのであります。
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読むためのBLOG [心]

いつもBLOGに向かう時、「書きたい」と思うことはあるのですが、それはとても断片的なもので、それだけを文章にしたならば、きっと一文か二文で終わってしまうことでしょう。
例えば、随筆にしろ、小説にしろ、自分が書きたいというテーマが出来ると、これを書く前に全体の構成を思い浮かべ、ある程度の方向性が決まった上で起承転結を設定してから書き始めますので、それを文字にする手前の時点で、「自分は何を書きたいのか」、つまり、「私が伝えたいこと」というものが必ず念頭にあるわけです。

でも、私がBLOGを書く時は、それがまるでないのです。 だから文章もチャランポランなものになってしまうのですが、それはそれでいいと思っています。
ある人から、「BLOGに自分の思いは入れるな」、「BLOGに一貫性をもたせろ」などと言われたこともありますが、それは出来ない相談でした。
だって、私にとってこのBLOGは、自分と対話をするための手段だからです。
例えば、会話を始める前に、自分と相手の起承転結を決定してから話し始めることなど出来ないように、私の言った一言を受けて相手が発言をし、その相手の発した言葉によって自分がどのような反応をするのか、そんな言葉のキャッチボールには常に未知の展開があるわけで、私のBLOGも同様に、このBLOGの中で私が発した言葉の対極に受け答えの会話がなされているような・・・、そこに、「自分の居場所」というものを発見していっているように思います。

「心の整理」とでも言いましょうか・・・
自分が何を思っているのか・・・、 あまりの「思い」の多さに、いつも訳がわからなくなってしまいます。
また、頭の中だけで縦横無尽に会話を続けていると、何処までがその時々の自分の思いで、どこから空想の域に入ってしまっているのかなど、ぐちゃぐちゃにさっぱりぼやけてしまったり、時には偏った考え方に固着をしたり、また変な方向へと自分を持って行ったり、大抵の場合は、肝心なこと(気付き)を流してしまったりするもので、まったくもって整理がつかないままに消去してしまうことがほとんどです。
それが、私の場合は、「書く」という作業を通して、気付かせていただくことが実に多いのです!
文字にしているうちに、自分でもハッと驚く気付きがあったり、過去を振り返ることが出来たり、少し遠くから自分を眺めることが出来たり・・・。  まぁ、我から離れて書くということは出来ませんが、それでも新たなる発見というものに出会うことは出来ます。

昨日、Inさんと電話でお話しをする機会をいただきました。
私のBLOGを読んでくださった感想をお聞かせくださったのですが・・・、 これは単なる自惚れかもしれませんが、「私が書いているものは、私であって私ではなかった…」 と、Inさんのお話しを聞いていてそう思いました。
決して自分の力では見ることの出来ないものを観さていただき、決して私の力では聞くことの出来ないことを聞かせていただき、自分では絶対に気付くはずのないことを気付かせていただいてるのだと・・・。

私は、自分のBLOGは、単なる心の整理として書いてきたつもりですし、これからもそんな書き方しか出来ないと思います。  でも、そこで止まっていてはいけなかったのです。
このBLOGは、他の誰でもない、まさにこの私自身のためのもので、それは書くことによって気付かせていただけるということのみに止まらず、如来さまの 「お願いだから聞いておくれ!」の願いのもとに書かせていただいているのだと・・・、  この私自身に読ませるためでした。 聞かせるためでした。 気付かせるためでした。
この私に実にピッタリと寄り添ったところで御説法くださっているのです。
だから私であって私ではないものとの出遇いをさせていただけるのです。

さて、今日のBLOGも、「こんなん出ましたけど~!」 みたいに書き終えようとしています。
読み返す中に、「如来さまは、私に何を言っているの?」ということを聞かせていただかなければ勿体ないことです。 南無阿弥陀仏
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私の居場所 [心]

昨夜はかなりHeavyなBLOGとなってしまい、やはり少々後悔の念もあります。
ですが・・・、 まぁ~ 何でもアリですわ~ と、ちょっぴり開き直っている私も居て、そこのところはここ最近の心境の変化とも言えるような気がします。
ただ、開き直れない部分ももちろんあります。 それ故に、年末からず~っと心に引っかかっていることがあって、ここ最近、そのことが今の私の問題点として頭から離れずにいるのでちょっとイヤな感じです。
もしかしたら、それを文字に表してゆくことで何か見えてくるかもしれない・・・、なんて思いましたので、ここに書いてみることにします。

先月のXmas・eveに、ある会議がありました。 本来ならば主催者側の立場にいなければならない会議でしたが、開催4日前に「決まったから」と出席の有無だけを問われ、欠席する訳にもいかずに了解するという事態。
しかし、その日の内に会議開催が危ぶまれる事件が発生し・・・、これを収拾する立場に追い込まれて揉まれに揉まれ、なんとか形の上だけでも会議開催の運びとなりましたのが会議の前々日でした。
そして精神的なバランスが取れないままに、会議の案内状を作成・発送したり、議事案をまとめて会議資料を作ったりと、心身ともにハードな時間を過ごし、その上、会議出席者等からの遠慮のないメールに追い込まれて、とうとう会議の前夜にはPD(パニック・ディスオーダー)の発作を起こしてしまいました。

不安を抱え、時間的な収拾もついていないままに会議の当日を迎えて、過量に薬を摂取ながらなんとか症状を抑えて会議に臨みましたが、現実はそんなに甘いものではありませんでした。
爆弾を抱えながらの自分との闘い、そして進行を補佐しつつも薬でぼやけた頭を呼び起すために給仕に終始したりと、気の置けない時間が3時間、4時間と経過したところで、OG先生が他の人の話を奪うような形で突然尋ねてこられたのが、「副支部長として、奈っちゃんの信心はどうなんですか?」との問いかけでした。
「信心」、そして「後生」。 当然のことを問われたわけで、これに反発はありません。
ただ、私なりに答えた後にOG先生より、「言葉上ではそうかもしれないが、実際に、奈っちゃんの居場所はどこなんですか?」と言われたことで、まず、「言葉以外に、今ここで表現できるものなんてあるの?!」と引っかかってしまいました。
その上、Imさんが覆いかぶせるように、「僕も奈っちゃんの信心をハッキリさせたい」と言われたことで、それまで彼に対して募らせていたわだかまりを言葉として吐き出してしまいました。 「あなたに人の信心の良し悪しを判定されたくない!」と・・・。  これを受けてImさんは、「帰る!」と席を立たれ帰ってしまわれました。

その後もOG先生から執拗に問われたのですが、何を聞かれているのかさっぱりわかりませんでした。
自分が言葉にしてしまったことを後悔し、不安で胸が押しつぶされそうになり、ただ問い続けられることが恐怖でしかありませんでした。
そして何よりも、仏も法もまるで空っぽのそっちのけで、自分の心身にだけしか興味のない私というヤツが怖かった・・・、恐ろしいと思いました。

この日以降、「私の今居る場所」というのが、ず~っと引っかかっています。
少し前までは、「どうして彼らは私の信心を判定したがるのか? 私は彼らを納得させるために聞いているわけじゃない!」という反発心があり、また、「彼らを納得させられないような私だからダメなんだ…」という卑下心もあって、それらの方のがはるかに多く私の感情を牛耳っていたのですが、今は、「自分の居場所」という問いかけの方に重心が移って来ています。

OG先生が、どのような言葉を望み、どのように納得したかったのかはわかりません。
でも、「私の居場所」を考えた時、昨日のBLOGを書きながらフッと思ったんです、「地獄は一定住みかぞかし」と。
人として生まれさせていただき、真実の法とも出遇わせていただきながら、私は好き好んで地獄に居るんですよね・・・。
でも、そこで親と出遇わせていただいた。 そこでしか出遇えなかったと思うのです。
南無阿弥陀仏
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地獄は一定住みかぞかし [心]

精神的に落ち着く暇のないのは私の性分でもありますが、ここ最近は特にいろいろな事に気を回さなければならないことが多いせいか、体調の方も少し不安定な感じであります。
もし、誰にも気を使うことなく、自分が自分であるがままに私速度の時間を過ごすことが出来たならばどんなに気楽かしら…、なんて夢を思い描いたりなんかして・・・、 やっぱり疲れているのかしら・・・?

昨日は、Oさんの御本を読ませていただきながら少し自分に入り込み過ぎてしまったため、心身のバランスを失いかけました。 もちろん、御本は縁となっただけで、あきらかに自業自得です。
その時のことを、ここには書きたくない! ・・・ というが本心です。
でも、「偶然」という「必然」のご催促があり、「書くべき…と言うことかしら・・・」と思い立って書く決心をいたしました。 ただ、その時そのままの感情は既に過去の産物でしかありませんので、それを回想しながら、今、思うところをここに書いていこうと思います。

直球で衝撃を受けたのは、私の罪の重さでした・・・・・。
「私さえよければいい」とか、「私が一番大事」とか、その「オレが~!」の心があるということはG先生からもよく聞かせていただき、本当にそ~だなぁ と 肯定せざるを得ない自分を観させていただいておりました。
でも、そんな生ぬるいものではありませんでした・・・。 自分を甘く買い被っておりました・・・。
「自分さえ助かればいい」のその先には、「他人の不幸を喜ぶ心」があって、その上、「人を地獄におとしめることを生きがいとしている」・・・。  そんな、地獄の鬼よりも恐ろしい私だったのだと知らされました・・・。
今まで、「私ほどの悪人はおりません! 他の誰よりも私が一番の悪でございます!」などと、チラッとでも観せられた折にはこれを口に出しておりましたが、今、知らされた私の悪は、言葉に出来るような甘い悪ではありません。
自分が自分であることを拒絶したくなるような得体の知れぬ怪物・・・、底知れぬ悪が私の正体でした。

誰が何と言おうと、私は絶対に救われない! 決して救われるはずがない!! 人を地獄に蹴落とすことを何よりの楽しみとして生きている私が、「どうか私の後生を助けてください」だなんて・・・、 誰にモノ申す! 何をほざいておるか! 我をよく見よ!!!
堕ちるのは私でした・・・・・  私に、地獄より他に行き場などないじゃない・・・・・
言葉にならない悲鳴が胸を貫き、呼吸が乱れ、頭が割れるように痛くなり・・・、でも、誰も助けてくれない。
独り生れ来て、独り死しても、せめてこの世に居る間だけは孤独とは無縁でありたいと願い、孤独を偽って生きて来たのですが、どんなにこれを否定しようとも、孤独という事実はここにあるのです。
そして、すべてを背負って私が堕ち行く世界は、私自身が築き上げた世界であり、その「私の地獄」という世界を作り上げることを私は何よりの楽しみとして生きていながら、そこへは行きたくないだなんて全く矛盾しています。

でも如来さまの御本願がある・・・、南無阿弥陀仏も聞かせてもらってる・・・、 って? それはムシがよすぎるんじゃない?!?!?
私は地獄から生れ来て、地獄へと帰って行くのです。 それは私を観ればあきらかで、いた仕方のないことです。
仕方がないですって?! そんな言葉で諦められるものか!! 私は堕ちたくないんだ!!! 怖いのはイヤなんだ! 痛いのもイヤ! 苦しいのもイヤ! 寂しいのも、悲しいのも、辛いのも、イヤ! イヤ! イヤ!
地獄なんかに行きたくない・・・ 私は自分の責任なんて果たせない・・・、 ただ堕ちたくない! 絶対に堕ちたくない! 堕ちたくないったら堕ちたくないの!!

・・・・・・ だけど、  地獄は私の故郷なのです・・・、 今の私の住みかなのです・・・・・・  
指先の力がめけるように、しがみついていた思いから手を放した瞬間・・・、私はなすすべもなく堕ちて行きました。 そしてそこには、地獄へと堕ちていく私をほんわりと受け止めてくださる「力」がありました。

無始より迷い続けてきた私ですが、その「力」は教えてくださいました。 私は親元で誕生したのだと。
真実の親よりその子どもとして生れ来て、真実の親の愛に育まれながらも、その親の愛がわからずに逆らいながら悪に手を染め、悪を愛するようになってしまいました。
そして真実を見る目を失い、真実を聞く耳も失い、暗黒の闇を好んで、生れ・死に・生れ・死に と 繰り返す内に こんなにも悪を重ねて、既に手の施しようのない私になっていました。
でも、親は見捨てなかった・・・。 こんな私を見捨てはしない、放ってはおけぬと・・・。
真実の親は、ずっと ず~っと どんな私であっても愛し続けてくださっていました。

私は、その親に手を引かれて帰るのです。 最初の最初に生まれた場所に、親と一緒に帰るのです。
それは、私の願いではなく、真実の親の願いでした。  南無阿弥陀仏
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初詣の願い [心]

数年前までは、神社と寺院の区別もつかなかった私ですが、今はちょこっとだけ知識が増えまして、神さまをお祀りしてある所と、仏さま・菩薩さまをお祀りされている所の、表向きの区別はつくようになってまいりました。 (とは言いましても、寺院の中に鳥居が在る所などもございますのでそこら辺は曖昧なのですが…(^^ゞ)

辞典によると、「初詣(初参り)」とは、新年に初めて神社や寺院などを参拝する行事のことで、一昨年の感謝を捧げたり、今年一年の無事と平安を祈願したりすることなのだと書いてありました。

今日、昨年同様に、名古屋東別院と 西別院へ 新年の参拝に行ってまいりました。
チラホラと参拝客はいたのですが、どなたの口からもお念仏が聞こえてこない・・・。
代わりに東別院の本堂にてこんな言葉が耳に入ってまいりました。
「さぁ、昨年の御礼もしたし、今年のお願い事もしたことだし、今日の予定はこれで終わりね!」 と。
当然のことながら、これを口にした彼女が本堂に座してからお参り(?)を終えその言葉を発するまでに、何一つとして声に出した言葉はございませんでしたので、彼女がどのような御礼をして、どのようなお願い事をしたのかは窺い知れませんし、また、お念仏を称えようとする心があったのかどうも私にはわかりませんが・・・。

この時、つい先日 Iuさんが教えてくださった、「どの人にも皆平等に如来さまのお慈悲の願いはかけられているのだよ」との言葉が不意に思い返されました。
これまでにも諸師・先輩方から同じようにお聞かせていただいていたのですが、一方向の聞き方をしていたため、「私だけは特別・・・」なとど自惚れてみたり、「あの人にかけられているお慈悲は・・・」などと他人を羨み嫉妬してみたり、平等であるということをまったく抜きに、何が平等なのかもわかっていない私でした。
でもこの時、お寺に参りに来てもなお、南無阿弥陀仏を横に置いて自身の願いを申し立てている彼女を見ていて、「生きている」ということ自体が既にお慈悲に包まれているのだなぁ~というように感じました。

仏法では、死んで地獄に堕ちてもなお、如来さまは私一人を願ってお慈悲で包んでくださっているのだと聞かせていただきましたが、そんなこと私には全くわかりませんし、今現在、この私がお慈悲に包まれているという実感があるかと問われても、そんなものはありません。 たとえあったとしても妄想という一時的な飾りものにしかならないと思います。

ただ、たまたま隣りに座り合わせた彼女の中に私の相を見せさていただいた時、「受け難い人身」をいただい時点でまるのまんまお慈悲の中に生かさせていただいているのだなぁ~、 それをこちらの「思い」一つで、自分は~、他人は~、などと勝手な沙汰をして、いったい私は何やっているのか・・・。 「聞き難い仏法」を、なんと聞かせていただいているのか・・・。 そんな問いかけが胸に突き刺さりました。

本堂から出る時、一枚のポスターが目に入りました。 そこには、こんな言葉が書かれてありました。
「人間は、死を抱いて生れ、死をかかえて成長する」 と・・・。
だからこそ、人間として生まれさせていただいたその意味と出遇わずして死を迎えては申し訳ない。
「私を救う」という、有り得ないお慈悲の願いを元に人間として生まれさせていただいたのだから。

初詣は、私の願いを聞いてもらいに行くのでなくて、如来さまの願いを聞かせていただき行くのだということを、今年初めて知りました。
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孤独 [心]

今日は、Daneの最後の引っ越し荷物を積んでドライブに行ってまいりました。
これで全ての荷物が運び込まれ、お掃除も済ませて、電気・ガス・水道も使えるようになったので、もう、いつでも入居OKです。
チョッピリ羨ましい気がします・・・。 新転地で新しいスタイルの生活が始められるのですもの・・・。

行きのドライブも、帰り道でも、今日はなんだか無性に寂しさが込み上げて来て、切ない気持が心の中で自分の居場所を探しているような・・・  そんな孤独感に包まれていました。
愛する人や家族や親友や、どんなに親しく身近な人と一緒の時を過ごしていても、時折、自分だけ違う世界に居るような孤独を感じたり・・・、愛おしい人たち全てが消えてしまい一人取り残されてしまったような孤独を感じたり・・・、ただ ただ 凍えてしまいそうな孤独を感じたり・・・、と 孤独の感じ方は様々ですが、
今日は、手にしているもの全てがこぼれ落ち、それらを掴んでいた私の手さえも砂のようにこぼれ落ちていくような錯覚に襲われ、込み上げる恐怖と、泣き叫びたくなるような気持を抑えるのに必死でした・・・。

いつか離れ離れになる・・・。 離れたくないものも、放したくないものも、願い空しく別れの時が訪れる。
それが、「いつか」、ではなく、「今」、消え去ってしまう・・・・・、 そんな、どこからともなく沸き起こって来た思いに涙が込み上げて来たのですが、泣くわけにはいきませんでした・・・。
こぼれ落ちそうになった涙を隠すため、彼に背を向けて助手席の窓から外の風景に目を移したのですが、人も、街も、草木も、空さえも、切ないほどに虚しくて・・・。

この時 フッと思ったのは、「私は、本当に孤独なのだろうか?」という疑問でした。
大切な人、大切なモノ、そしてこの私自身の肉体も含めて、別れは、「いつか」ではなく、「今」この瞬間が永遠の別離の時となるやもしれぬ、と・・・、 唐突に沸き起こったその思いに対して抵抗している私がいました。
私は、独りになるのが怖いのです。 孤独な私と認めてしまうのが怖いのです。
孤独を感じても、これを拒否しているのが私であり、孤独を知らされても、その真実に抵抗しているような私に、本当の孤独なんてわかるわけがないじゃない!

孤独感に襲われた時にだけ心の拠り所として如来さまを求めているような私です。
私が独りぼっちで泣いているから、そんな私を如来さまが抱きしめてくださっているのだと・・・、
それは、私の思いにかかわらず事実なのでしょう。 でも、「そんなんでいいの?!」と、自分に対して疑問符を立てている私がいます。
また御法を自分に都合よく持ち替えて、 生きて行く糧に仏法を利用しているだけの私なのです。
こんな身勝手でお粗末な私に、真実の「孤独」なんてわかるはずがない! って思ったんです。

でも、それこそが孤独な私にピタッと寄り添い護ってくださっている如来さまの御力なのでしょうね。

帰り道、春まだ早い菜の花畑に立ち寄りました。 そして、美しい夕日とも出会うことが出来ました。
1.2  菜の花と夕陽.JPG

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トラウマ [心]

秋の聞法旅行・・・ ではなく、先週から約一週間、京都へ「聞法」と「旅行」に行ってまいりました。
とても楽しかったです。 書きたいこともいっぱいあります。 でも、書けないんです・・・。
「今の私」が無い・・・、 というよりも、「今の私」を見失ってしまった・・・、  「今の私」って・・・?

ただ、何となく書いてみます。

今日一日時間をかけてやっと出てきたものは、怒り任せの父の顔でした。
でも・・・、 たぶん、父自身はシラッとした顔をしていたのだと思います。 冷静に思い返してみても、そんなに恐ろしい表情をした父の顔は思い出せません。 いつも人をバカにしたような平静さを装った父の顔しか思い出せません。
しかし、私の中にはものすごく恐ろしい形相で迫り狂っている父の顔が出てきます。 
そして、いつも聞かされるあの一言を空耳に聞くたび、すがり付きたくとも恐怖におののいて、一瞬にして我を見失ってしまう・・・。
責めることが愛の証だと言われました。
でもそれは、私にとって身体の痛みよりもはるかに大きく心の痛みを増幅させるばかりで、私は、いつの間にか無意識の内に自分の感情を消し去る術を身に付けてしまったのだと思います・・・。

「トラウマ」。  この言葉に違和感を覚えます。 そんな短い単語で片付けられるものじゃない!!

身体に受ける暴力も、耳に受ける暴力も、ダイレクトに心を切り裂く。
私は、神でも仏でもない! 人の思いを叶えることも出来なければ、その心を読み取ることも出来ないし、それが故に理想通りに動くことも出来ません・・・。  それを咎められても、ののしられても、罵倒されても、私には出来ない、どうしたって出来ない・・・

理不尽と思える言葉であってもこれを御法として聞くことの出来ない私が悪い。 私の存在こそが悪。
その通りです。
次々に浴びせられるそんな言葉に、私の心は刃も盾も失って、ただ言われるがままの我が悪を受け止め、我が罪を認め、それ故に「謝れ」との言葉には拒絶もなく、否定することなく謝罪の気持ちが沸いて出てきます。
でも、霧がかった靄の中から謝罪の言葉が出てきた後のその空いたスペースには、「空虚」という文字が埋まっていく感じがします。
こんなふうにして感情は消えていくのだなぁ~と、それを、ただ虚ろに眺めているだけの私がいました。

今は、何もかもが虚しい・・・・・
目の前を通り過ぎていく時間に、小さな恨みを感じながらも、それを「虚しい」という言葉で覆い隠している、そんな感じです。

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