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死にたくない私へ [心]

本音のところは別として、「生きる」ということが、どうでもよくなる時があります。
でも対外的に、プライドであるとか、シガラミであるとか、そ~ゆ~理屈があるからこそ、そこにぶらさがりながら自分で自分を取り繕って生きていられるということもあるのかもしれません。
家族と暮らしていた時には、それらがとても邪魔なことのように思えていたのですが、一人で暮らしておりますと、自由であるが故に生きるということが無法地帯になってしまいます。
生きたい時には貪欲に生に執着し、生きることがどうでもよくなると仮想の死に向かって邁進を始める。
実に身勝手です。

先に記しました、「本音のところ」と言うのは、自己意識で感知していない部分と言うことです。
表面的に 「生きたい」だとか、「死にたい」などと願っていたとしても、所詮それは、その時々に起こって来る一時的な感情であり、今現在の私の思いでしかないということです。
本音のところでは、私は常に「生きたい」んです。 どんなに「死にたい」と願っていても、私は、いつも、いつまでも生きていたいんです・・・。

苦しい時には逃げ出したくなります。 辛い時には何もかも投げ出したくなります。 身体的な苦痛が伴っていればなおさらのこと、「こんな身体、もういらない!」と打ち捨てたくもなります。
でも、それは生きたいからでしょ? 
苦しくなく、辛くもなく、痛くも悲しくもなくて・・・、 楽しく、幸せに生きたいと願っているからこそ、苦悩から逃れたいと必死になってもがくのです。
つまりは、自身に欲深いだけなのです。 私は自分を見ていてそう思います。

因果の道理をないがしろにして独りよがりの快楽を求め、そんな一時的な快楽を幸福と呼んではこれを手に入れることに常に執着している。 しかしこれを手に入れることが出来なかった時、もしくは失った時には、世を恨み人をも恨み、自分自身さえも恨んですべてを壊してしまいたいという衝動に駆られる。
それってただのわがままですよね・・・。
「生きたい」とか、「死にたい」とか、それは究極のエゴイズムです。 でも、それが私なのです・・・。
つまり、「生きているのが嫌になった」とか、「死んでしまいたい」などの思いは、“わがまま”という延長線上にある一過性の“思い”でしかないのではないでしょうか。

見方を変えてみても行き着くところは同じです。
「頭で考えていること」と、「心に思っていること」とが一致しているとは限らず、また、それらと「実際の行動」とが同じであるかといえばそうとも限りません。 例えば、仕事に行かなければならないと頭では理解していても、本当は行きたくないのだと心に思い、そんな葛藤をしている間にも身体は職場に向かっているといった具合です。 しかも、ここに「身体症状」というものも加わってくると、職場には向かっているけど、胃痛や頭痛に見舞われるといったもう一つの不一致の存在もあきらかになります。
結局のところ、エゴイストでありながら、自分勝手には出来ないという自己矛盾を抱えて生きているのですから、そんな中で 「生きたい」とか「死にたい」とかいった思いが出てきてそれがすべてだ!などと思ったとしても、やはり顛倒矛盾した一過性の“思い”でしかないと思うのです。

ただ、そんな自己分析をしたところで、何の役にも立ちませんけどね。

本当は生きたいと願っていながら、精神的に追い詰められてどうしようもなく辛くなった時、また、発作によって身体が切り刻まれるように辛い時、いつも死を望んでしまう自分に対して言ってあげたい言葉を探してみただけです。

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