自分と向き合うということ [心]
「自分と向き合う」 ということ・・・、 これは とても とても 難しいことです。
「仏法を聞く」 とは、「如来さまから見られた私を聞かせていただき」、「その私にかけられた如来さまのご苦労を聞かせていただくこと」だと教えていただきました。 いずれも、私が一人勝手に聞けることではありません。 真実を真実と疑いなく受けた方からお聞かせにあずかることでございます。
昨日は、支部の報恩講法座でございました。
御法話のテーマは、「聞信の一念」。 先生から、「私自身が一人となって如来さまと向き合う」ということがポイントであるとお示しいただきました。
以前、「自分と向き合う」 というのは、「如来さまと向き合う」 ということだとお聞かせいただきました。
私たち一人一人が、それぞれの業に従って具体的にこれを観させていただくことが「自分と向き合うこと」であり、こんな私だからこそというところで如来さまのご苦労を知らされることが「如来さまと向き合う」ということなのだと私は受けております。
しかし、「自分と向き合う」ということは、そう易々と出来ることではございません。
なぜならば、私が最も望んでいない、最も毛嫌いすることだからであります。
その根本にあるのが、「私は死ぬのだ」という変え難い事実であります。
「生きている今が全てであり、死んだ先は苦もなく安らかな眠りにつけるのだ」との、何の根拠もない私の理想に対して、真実は、「生きているということは罪(悪業)を作り続けているということで、死ねばその罪を償っていかねばならない業苦の世界があるのだ」と説き、私はこの事実をどうしたって受入れることが出来ないからであります。
それなのに、まるでこの事実を受け入れたかのように、平々とこの真実を口にしている人があります。
他でもない、私自身です。
自身の業縁を通して、「こんな私を観させていただきました・・・、 私ほどの悪人はおりません・・・、 だからこそのご本願でした・・・、 こんな私の為に如来さまは如何ほどのご苦労をしてくださったのか・・・、 私一人の為のご苦労でございました・・・」 そう言っている舌の根も乾かぬ内に、また次々と悪業を重ねている自分のことは棚に上げ、まるで「私は真実を知っています」と言わんばかりに人さまにむかって、真実はどうだ…、如来さまはどうだ… などと偉そうに言っている・・・、 いったい何様のつもりでしょう。
そんな自分が見えていない状態で、何を聞かせていただいているというのでしょうか。
また、人に向かって、「おまえのここが悪い! おまえはこうだから聞けないのだ! 自分の言ったこと、やったことを振り返ってみろ!」 などと言っているその口の持ち主自身がお留守の状態にいては、自分と向き合うということなど出来ているはずがありません。 そう言っている本人こそが、何一つとして聞けていないということです。
自分で自分を観るというのは、見ようと思って観られることでは決してございません。
仏智の御光に照らされたお育ての中で、その人その人の業縁に合わせて観させていただくのですが、私というヤツはどうしたって自身を悪く見ることが出来ません・・・。
業縁の中で他の人を介して我が身の姿と観させていただくのですが・・・、どうひっくり返っても、その人よりも随分と高いところから、自身をひいき目に見ることしか出来ていないのが私です。
「自分と向き合う」とは、ホンに難儀なことでございます。
でも、仏法を聞くとは、如来さまから見られたこの私がどんな輩かということを聞かせていただくことがまず第一にございます。 決して、人に向かって言うことではなく、この私が聞かせていただかなくては仏法にはなりません。
聞かせていただくことによって、私にかけられた如来さまの御苦労が知れてくるのです。
こんなことを偉そうに書いている私こそ聞けていないのです。 私こそが何も聞けていないのです。
聞けない私だから如来さまにご苦労をかけ通しで・・・、ホンに ホンに ご苦労のかけ通しで・・・、
だから、“南無阿弥陀仏”しか言えないんです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「仏法を聞く」 とは、「如来さまから見られた私を聞かせていただき」、「その私にかけられた如来さまのご苦労を聞かせていただくこと」だと教えていただきました。 いずれも、私が一人勝手に聞けることではありません。 真実を真実と疑いなく受けた方からお聞かせにあずかることでございます。
昨日は、支部の報恩講法座でございました。
御法話のテーマは、「聞信の一念」。 先生から、「私自身が一人となって如来さまと向き合う」ということがポイントであるとお示しいただきました。
以前、「自分と向き合う」 というのは、「如来さまと向き合う」 ということだとお聞かせいただきました。
私たち一人一人が、それぞれの業に従って具体的にこれを観させていただくことが「自分と向き合うこと」であり、こんな私だからこそというところで如来さまのご苦労を知らされることが「如来さまと向き合う」ということなのだと私は受けております。
しかし、「自分と向き合う」ということは、そう易々と出来ることではございません。
なぜならば、私が最も望んでいない、最も毛嫌いすることだからであります。
その根本にあるのが、「私は死ぬのだ」という変え難い事実であります。
「生きている今が全てであり、死んだ先は苦もなく安らかな眠りにつけるのだ」との、何の根拠もない私の理想に対して、真実は、「生きているということは罪(悪業)を作り続けているということで、死ねばその罪を償っていかねばならない業苦の世界があるのだ」と説き、私はこの事実をどうしたって受入れることが出来ないからであります。
それなのに、まるでこの事実を受け入れたかのように、平々とこの真実を口にしている人があります。
他でもない、私自身です。
自身の業縁を通して、「こんな私を観させていただきました・・・、 私ほどの悪人はおりません・・・、 だからこそのご本願でした・・・、 こんな私の為に如来さまは如何ほどのご苦労をしてくださったのか・・・、 私一人の為のご苦労でございました・・・」 そう言っている舌の根も乾かぬ内に、また次々と悪業を重ねている自分のことは棚に上げ、まるで「私は真実を知っています」と言わんばかりに人さまにむかって、真実はどうだ…、如来さまはどうだ… などと偉そうに言っている・・・、 いったい何様のつもりでしょう。
そんな自分が見えていない状態で、何を聞かせていただいているというのでしょうか。
また、人に向かって、「おまえのここが悪い! おまえはこうだから聞けないのだ! 自分の言ったこと、やったことを振り返ってみろ!」 などと言っているその口の持ち主自身がお留守の状態にいては、自分と向き合うということなど出来ているはずがありません。 そう言っている本人こそが、何一つとして聞けていないということです。
自分で自分を観るというのは、見ようと思って観られることでは決してございません。
仏智の御光に照らされたお育ての中で、その人その人の業縁に合わせて観させていただくのですが、私というヤツはどうしたって自身を悪く見ることが出来ません・・・。
業縁の中で他の人を介して我が身の姿と観させていただくのですが・・・、どうひっくり返っても、その人よりも随分と高いところから、自身をひいき目に見ることしか出来ていないのが私です。
「自分と向き合う」とは、ホンに難儀なことでございます。
でも、仏法を聞くとは、如来さまから見られたこの私がどんな輩かということを聞かせていただくことがまず第一にございます。 決して、人に向かって言うことではなく、この私が聞かせていただかなくては仏法にはなりません。
聞かせていただくことによって、私にかけられた如来さまの御苦労が知れてくるのです。
こんなことを偉そうに書いている私こそ聞けていないのです。 私こそが何も聞けていないのです。
聞けない私だから如来さまにご苦労をかけ通しで・・・、ホンに ホンに ご苦労のかけ通しで・・・、
だから、“南無阿弥陀仏”しか言えないんです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
>「私は死ぬのだ」という変え難い事実
を正面から受け止めることも「向き合う」かもしれないけど、
>私はこの事実をどうしたって受入れることが出来ない
っていうのも「向き合った」ことで気づいた”自分”だね。
「こうなれば向き合ったことだ」っていう理想のものもあるんだろうけど、ふっとしたとき(私や奈っちゃんはPCに向かってキー叩いてるときもそうだよね)に気づく、自分から発せられる言葉に出会うこともいっぱいあるよね。
ってことを読ませてもらって思いました。
by MANU. (2011-01-26 17:24)