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「愛」の伝染病 [心]

「生きているのが辛い…」 という 心の叫びに気付いてくれる人がいるというのは、ものすごく幸せなことです。 どんなに平静を装っていても、無理しているところに気付いてくれる人がいるというのは、とても とても 幸せなことです。
「何があったの?」 と聞いてくださった瞬間に、あぁ、私の悲鳴に気付いてくださった方がいたのだと…、私の叫びに耳を傾けてくださる方がいるのだと…、その優しさにふれた時、やっと泣き崩れる事の出来る甘えと出会わせていただきました。
そんな愛に包まれているからこそ、今日も生きていられるのだと思います。

人間って、ただ食しているだけでは生きていかれない生き物だと思います。
愛し、そして愛され、それを活力にしてこそ生きていられるのだと思います。
この私一人を生かすために、どれほど多くの命が犠牲となり…、どれほどたくさんの愛情というおかげ様が必要なのだろう… と思うと、本当に一人では生きてゆかれないなぁ~とつくづく思ったわけでございます。

「愛する」とは、「執着する」ことだと教えていただきました。 確かにその通りだと思います。
でも、「優しさを分け与える」というのも、「愛する」ということになるのではないでしょうか?
執着するだけならばそれは押し付けにしかならず、執着される側も辛くなるばかりだと思うのです・・・
愛するって、相手を苦しめることなのでしょうか? 愛されるって、辛く苦しいことなのでしょうか?
私が愛されていると感じるのは、私を想ってくださるその心にふれさせていただいた時です。
それは、あたたかくて安心のできる愛もあれば、時には厳しくて切ない愛もあります。
でも、その相手の想い云々を超えた、その人の幸せを願っての言動であれば、温かろうと厳しかろうと、その心・想いは、「愛」として、ちゃんと相手に伝わるものではないのでしょうか。
「愛しているから…(執着)」 という建前のもとに、自身の想いを最優先にこれを相手に押し付けることを「愛」と呼ぶのであれば、それはあまりにも悲しことだと私は思うのです。

如来さまが私を想ってくださる心を感じさせていただいた時、それはとってもあったかくって、すっごく安心ができて、本当に心地がよくって、 考えるよりも先に、「ありがとう、なまんだぶつ」って出てきました。
その愛は、とっても とっても ものすご~く大きくって、このあたたかさを他の人にもおすそ分けしてあげたい…、という気持も同時にいただいたように思います。

凡夫のほざく「愛」なんて所詮は「欲愛」でしかないでしょうし、私自身、人を愛する心なんて針の先ほどにもないと思いますが、それでも人からいただく愛によって心を癒されたり、勇気をいただいたりすると、他の人にもこのいただいた優しさを伝えたくなります。
そうかと言って、私の中には誰かにあげられる愛なんて全然ないのかもしれない・・・、 私はいつだって愛を求めるばかりの強欲な人間だもの・・・。 ホントに、私の中から出てくる愛なんて、「自分の為」ということが前提の醜い欲愛ばかりで、他の人におすそ分け出来るような愛なんてないと思います。
だけど、「いただいた愛」というのは、私の心を通り抜けて、他の人にもそのあたたかさを伝えることのできる力を持っていると感じています。

最後に・・・、 私は、血縁的な家族に恵まれた境遇にはありませんが、血のつながりを超えた家族には、とても とても 恵まれています。 父や母、兄弟・姉妹と、大家族です。
私は自分の都合やわがままでたくさんの人たちに迷惑をかけているのにもかかわらず、その家族はこんな私を愛してくだされる・・・、 私は、そんな愛に支えられて今を生きていられるのだって、自信をもって言えます。
私なんて・・・、自分の施した迷惑の代償に愛をいただくばかりです。 こんな理不尽な法則がなぜあるのかしら?と考えた時、やっぱり一つの答えにたどり着きます。
法の家族がこんな私を愛してくださる心は、私の本当の幸せをただ願う心でした。 だからこそ、あたたかい愛もあれば、厳しい愛もあります。 でもその心は一つなんだなぁ~、それが「愛」というものなのだなぁ~ って。

「愛」と言うものが存在して、こんな私を愛してくださる人が居てくださったから、その愛によって愛し・愛されることを教えていただきました・・・。 もし、誰からも愛されていなければ、「愛」という心を、私は知る由もありませんでした。
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なおたろう

生きてることが辛いならいっそのこと死ねばいい
失恋したくらいで死にたいって言ってる奴、腹が立つんだよ
by なおたろう (2011-01-30 00:06) 

奈っちゃん

「死にたい」というのは、エゴイストな私のわがままでしかありません。
失恋に限らず、「死」を思う理由が何であれ、「死にたい」 という気持ちの起こる御縁をいただいたことで、そこで初めて、「生きているということ」、「死ぬということ」、その意味を考えさせていただくきっかけをいただけるのです。
そうでなくては、私たちは、「人間として生まれたことは当たり前!」、「生きているということが当たり前!」 としか・・・、 いえ いえ、それすらも考えることなく生きていますからね~。
南無阿弥陀仏
by 奈っちゃん (2011-01-30 11:03) 

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