因果の道理 (今生編) [心]
今日の夕方、フッと湧き上がったことをBLOGに書いておこうと思いパソコンに向かったのですが、これをUPした後、外出先で先ほど書いたものがとても気にかかり、携帯電話の小さな画面で読み返してみましたら、まぁ~ 随分と傲慢な文章が書かれていて、とても恥ずかしいと思いました。
それに、先ほど書きたいと思い立ったこととは内容がズレていて… といいますか、書こうと思っていたことが書かれておりませんでした。 と言うことで、改めまして書いてみたいと思います。
書きたかったテーマは、先ほどと同様に 「因果の道理」 でございます。
最近体験いたしましたある出来事を通して、私を支えてくださった多くの法友らがみな口をそろえて言うのです、「それこそ因果の道理そのものじゃん!」 と・・・・・。
「因果の道理」とは、自分の蒔いたタネ(因)は、自分の元で実(果)を結び、これを自身で刈り取っていかんならん世界があるという真理です。
その人が受けている結果というのは、他の誰のせいでもない自分自身で蒔いたタネが実を結んだのであって、これはどんなに身近な人であろうとも他人が肩代わりすることなど決して出来ないのであります…、自分自身で受けていかんならんのです。
先のBLOGに書きましたのは、「命」ということを軸に因果の道理のお味わいをさせていただいたのですが、自分の造った原因のその結果を受けるのは、何も次生に限ったことではございません。
子どもの頃によく言われませんでしたか? 「ほ~ら、罰が当たった」って! 私はよく言われました。
ことわざには、「身から出た錆」とか、「汝より出ずるものは汝に返る」などと言われ、仏教では、「自業自得」とか、「因果応報」と言った言葉もあります通り、自分の犯した罪で自分自身が苦しむことになるのだよというのは、誰もが周知しておられることと思います。
ただ、ここで問題なのは、「知ってはいるけど、そうは思えない!」と言っている自分がいるということであります。
悪い結果・・・、つまり、「自分のこの苦しみは、自分のせいなのだ。 自分が犯した罪の結果なのだ」 と、100% そう受け入れることが出来るかと言ったら、そりゃ~無理な話ですわね~。
私のような病気やトラウマを持っている人、また自分を責めてしまう性格の人などは、「オマエが悪い! オマエのせいだ!」などと言われると、「そうだ、私が悪いんだ・・・、すべて私のせいなのだ・・・、こんな私を許しちゃいけないんだ!」と言って自分自身を追い込むことはあります。
でも、「私が悪かった」と頭で受入れていたとしても心が苦しみ出すでしょ? 自分を追い込んでしまうのも、「自分が悪いんだ」と無理に納得させようとするからではないでしょうか。
「本当に自分が悪かった。 こんな私だもの苦しいのは当然の報いであり、辛くて当たり前だわ」と受けていたならば、苦悩などなくなりますよね・・・・・・
要するに、因果の道理は知っていても、これを受入れる事の出来ないのが私なのです。
だから罪を罪とも思わずに悪を重ねて、その報いを受けると腹を立てては人のせいにして更に悪を重ねていくという悪循環にドップリとこの身を浸けているのです。
因果の道理は常に有効です。
私がしている言動や行動、私が心に思ったことも、そのすべてが「因」というタネまきとなり「業」となります。 そしてその結果を受けていかんならんという真理があります。
「まさかこんな結果になるとは・・・」との後悔はしても、それを人のせいにしている間はやっぱり苦しいと思います。 たとえ自分の中に直接的な原因を見つけることが出来なかったとしても、今、自分が受けている結果のその原因はこの私にあるのだと仏さまは教えてくださいました。 南無阿弥陀仏
最後に一つ、今日の夕方、フッと湧き上がってBLOGに書きたかったこと。 それは、
どのような「果」を受けようと、そこには「因」があるからです。
「因」があるということは、私がしでかしたことの裏となり表となった、おかげ様の「犠牲」と、おかげ様の「御苦労」があるのだということを忘れてはならないなと、フッと思ったわけであります。 南無阿弥陀仏
それに、先ほど書きたいと思い立ったこととは内容がズレていて… といいますか、書こうと思っていたことが書かれておりませんでした。 と言うことで、改めまして書いてみたいと思います。
書きたかったテーマは、先ほどと同様に 「因果の道理」 でございます。
最近体験いたしましたある出来事を通して、私を支えてくださった多くの法友らがみな口をそろえて言うのです、「それこそ因果の道理そのものじゃん!」 と・・・・・。
「因果の道理」とは、自分の蒔いたタネ(因)は、自分の元で実(果)を結び、これを自身で刈り取っていかんならん世界があるという真理です。
その人が受けている結果というのは、他の誰のせいでもない自分自身で蒔いたタネが実を結んだのであって、これはどんなに身近な人であろうとも他人が肩代わりすることなど決して出来ないのであります…、自分自身で受けていかんならんのです。
先のBLOGに書きましたのは、「命」ということを軸に因果の道理のお味わいをさせていただいたのですが、自分の造った原因のその結果を受けるのは、何も次生に限ったことではございません。
子どもの頃によく言われませんでしたか? 「ほ~ら、罰が当たった」って! 私はよく言われました。
ことわざには、「身から出た錆」とか、「汝より出ずるものは汝に返る」などと言われ、仏教では、「自業自得」とか、「因果応報」と言った言葉もあります通り、自分の犯した罪で自分自身が苦しむことになるのだよというのは、誰もが周知しておられることと思います。
ただ、ここで問題なのは、「知ってはいるけど、そうは思えない!」と言っている自分がいるということであります。
悪い結果・・・、つまり、「自分のこの苦しみは、自分のせいなのだ。 自分が犯した罪の結果なのだ」 と、100% そう受け入れることが出来るかと言ったら、そりゃ~無理な話ですわね~。
私のような病気やトラウマを持っている人、また自分を責めてしまう性格の人などは、「オマエが悪い! オマエのせいだ!」などと言われると、「そうだ、私が悪いんだ・・・、すべて私のせいなのだ・・・、こんな私を許しちゃいけないんだ!」と言って自分自身を追い込むことはあります。
でも、「私が悪かった」と頭で受入れていたとしても心が苦しみ出すでしょ? 自分を追い込んでしまうのも、「自分が悪いんだ」と無理に納得させようとするからではないでしょうか。
「本当に自分が悪かった。 こんな私だもの苦しいのは当然の報いであり、辛くて当たり前だわ」と受けていたならば、苦悩などなくなりますよね・・・・・・
要するに、因果の道理は知っていても、これを受入れる事の出来ないのが私なのです。
だから罪を罪とも思わずに悪を重ねて、その報いを受けると腹を立てては人のせいにして更に悪を重ねていくという悪循環にドップリとこの身を浸けているのです。
因果の道理は常に有効です。
私がしている言動や行動、私が心に思ったことも、そのすべてが「因」というタネまきとなり「業」となります。 そしてその結果を受けていかんならんという真理があります。
「まさかこんな結果になるとは・・・」との後悔はしても、それを人のせいにしている間はやっぱり苦しいと思います。 たとえ自分の中に直接的な原因を見つけることが出来なかったとしても、今、自分が受けている結果のその原因はこの私にあるのだと仏さまは教えてくださいました。 南無阿弥陀仏
最後に一つ、今日の夕方、フッと湧き上がってBLOGに書きたかったこと。 それは、
どのような「果」を受けようと、そこには「因」があるからです。
「因」があるということは、私がしでかしたことの裏となり表となった、おかげ様の「犠牲」と、おかげ様の「御苦労」があるのだということを忘れてはならないなと、フッと思ったわけであります。 南無阿弥陀仏
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