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信じる心 [心]

「信じる」ということは、とても難しいことです。 いいえ・・・、 私には出来ないことだと思います。
この自分さえも信じることなど出来ないのですから・・・。

私の中からはいろいろな思いが次から次へと絶え間なく出てまいります。
「信じたい…」「信じてる!」「信じてる?」「信じられない」「信じさせて」・・・・・ 心コロコロ心も無常。

「何を信じて、何を頼りに生きていますか? 究極の拠り所はなんですか?」 と聞かれれば、御法の世界では、「“南無阿弥陀仏”です!」なんて、心にもないことを口にしたりしますし、人によっては、「“南無阿弥陀仏” これ一つで他はなんにも要りません!」とまでおっしゃる方もおられます。
でも、私の場合は、ホントに口先だけです・・・。 実際は、お金が頼りであり、家族や親友が頼りであり、そして何よりも自分自身の身体や思考を頼りにして生きています。
「“南無阿弥陀仏”でお腹いっぱいになれますか?」ともよく問われるのですが、一時的にそんな気持ちになることはあったとしても、「何が起きても“南無阿弥陀仏”!」、「諸行無常の世の中だもの、“南無阿弥陀仏”さえあればいつだって胸焼けするほどお腹いっぱいよ!」 な~んて・・・、 私にはとてもじゃないけど言えません。

「後生」が抜けては仏法とは言えません。 でも、「後生」を抜いた仏法モドキの世界にドップリと浸かりながら聞く御法は、所詮、上記のようなものなのです。

私は「今生事」に精一杯で、縁あって「後生」に思いを触れさせていただくことはあったとしても、まずは目前の「今生事」を何とかしなければ、とても「後生」のことなんて聞いてなどおられんわい!と、「後生」はいつも後回しです。

先の 「信じる」・「信じない」の話もそうです。 後生も 仏さまも 抜きにした、今生事の話しです。
今は信じていても、数分先にはわかりません。 そう・・・、 変わる心がわかっているから怖いというのもあるのでしょうね。
つまり、私には、信じる心など持ち合わせていないのです。 
「約束」は、破るためにあるのだとよく言われますが、「信じ心」は、裏切るためにあるのだとも言えるのかもしれませんね。 それは、とても寂しいことだと思います・・・・・

「信心」と言うのは、信じる心と言うことです。 しかし、無常の心を持つ私の「信心」なんて、ホンの一時、この私がすがりつくための拠り所としての「信心」が芽生えたにしか過ぎず、これはやがて枯れていきます。
じゃ~、「信心」って何?

「信心」は「信じる心」です。 でもそれは、私が何かを信じる心ではありません。
私が信じているモノは、私の欲心であり、妄念妄想でしかありません。
私には信じる心などありませんが、そんな私を愛してくださっている御心、それが「信心」だと私は思うのです。
「自分は誰からも信用されてない・・・」、 「誰も自分のことなんか信じてくれない・・・」
そう呟いているその人、ひとりひとりを信じてくださっている御心があります。
私にも、あなたにも、あの人にも。 世界中の人が誰ひとりとして信じてくれなくても、その御心は、昔からず~っと、今現在も、そしてこの先の世でも、「あなたを信じていますからね!」との御心で包んでくださっています。
だから、私は信じられんままでいいんです・・・、 残念ながら、信じたくても信じる事の出来ないのが私なのですから。 でも、そんな私だから信じてくださっているお方がおられるのだなぁ~ と、今、ノホホンッと味わっております。 南無阿弥陀仏

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