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初詣の願い [心]

数年前までは、神社と寺院の区別もつかなかった私ですが、今はちょこっとだけ知識が増えまして、神さまをお祀りしてある所と、仏さま・菩薩さまをお祀りされている所の、表向きの区別はつくようになってまいりました。 (とは言いましても、寺院の中に鳥居が在る所などもございますのでそこら辺は曖昧なのですが…(^^ゞ)

辞典によると、「初詣(初参り)」とは、新年に初めて神社や寺院などを参拝する行事のことで、一昨年の感謝を捧げたり、今年一年の無事と平安を祈願したりすることなのだと書いてありました。

今日、昨年同様に、名古屋東別院と 西別院へ 新年の参拝に行ってまいりました。
チラホラと参拝客はいたのですが、どなたの口からもお念仏が聞こえてこない・・・。
代わりに東別院の本堂にてこんな言葉が耳に入ってまいりました。
「さぁ、昨年の御礼もしたし、今年のお願い事もしたことだし、今日の予定はこれで終わりね!」 と。
当然のことながら、これを口にした彼女が本堂に座してからお参り(?)を終えその言葉を発するまでに、何一つとして声に出した言葉はございませんでしたので、彼女がどのような御礼をして、どのようなお願い事をしたのかは窺い知れませんし、また、お念仏を称えようとする心があったのかどうも私にはわかりませんが・・・。

この時、つい先日 Iuさんが教えてくださった、「どの人にも皆平等に如来さまのお慈悲の願いはかけられているのだよ」との言葉が不意に思い返されました。
これまでにも諸師・先輩方から同じようにお聞かせていただいていたのですが、一方向の聞き方をしていたため、「私だけは特別・・・」なとど自惚れてみたり、「あの人にかけられているお慈悲は・・・」などと他人を羨み嫉妬してみたり、平等であるということをまったく抜きに、何が平等なのかもわかっていない私でした。
でもこの時、お寺に参りに来てもなお、南無阿弥陀仏を横に置いて自身の願いを申し立てている彼女を見ていて、「生きている」ということ自体が既にお慈悲に包まれているのだなぁ~というように感じました。

仏法では、死んで地獄に堕ちてもなお、如来さまは私一人を願ってお慈悲で包んでくださっているのだと聞かせていただきましたが、そんなこと私には全くわかりませんし、今現在、この私がお慈悲に包まれているという実感があるかと問われても、そんなものはありません。 たとえあったとしても妄想という一時的な飾りものにしかならないと思います。

ただ、たまたま隣りに座り合わせた彼女の中に私の相を見せさていただいた時、「受け難い人身」をいただい時点でまるのまんまお慈悲の中に生かさせていただいているのだなぁ~、 それをこちらの「思い」一つで、自分は~、他人は~、などと勝手な沙汰をして、いったい私は何やっているのか・・・。 「聞き難い仏法」を、なんと聞かせていただいているのか・・・。 そんな問いかけが胸に突き刺さりました。

本堂から出る時、一枚のポスターが目に入りました。 そこには、こんな言葉が書かれてありました。
「人間は、死を抱いて生れ、死をかかえて成長する」 と・・・。
だからこそ、人間として生まれさせていただいたその意味と出遇わずして死を迎えては申し訳ない。
「私を救う」という、有り得ないお慈悲の願いを元に人間として生まれさせていただいたのだから。

初詣は、私の願いを聞いてもらいに行くのでなくて、如来さまの願いを聞かせていただき行くのだということを、今年初めて知りました。
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