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「こころ」 八木 重吉 [詩・言葉]

「或る日の こころ」 八木 重吉

     ある日の こころ   山となり
     ある日の こころ   空となり
     ある日の こころ   わたしと なりて さぶし

「心よ」 八木 重吉

     こころよ   では いっておいで
     しかし   また もどっておいでね
     やっぱり   ここが いいのだ
     こころよ   では 行っておいで

八木重吉さんという詩人は、‘心’をテーマにした詩を数多く残しておられます。
その元になっているのがキリスト教の教えであり、彼自身も敬虔なクリスチャンでありました。
キリスト教は、‘我が心’を問題にしていきます。 心に沸き起った‘悪’、この世の道徳を基準にした悪しき心を罪として懺悔していく教えです。

では、仏教はどうでしょうか? 仏教も同様に、やはり自己を見つめること、‘我が心’を問題にしていきます。
世間に流布する仏教では、‘煩悩’(欲や怒りの心)を‘悪’として、そのような心を起こさないように修行することが尊いことであると教えられています。

しかし、仏教、つまりお釈迦さまの教えでありながら、『浄土真宗』では、「私は、まるまる‘煩悩’いっぱいの悪凡夫であり、そんな悪しき心しかない私なのだから‘煩悩’をなくすことなどさらさら出来ない。 ましてや修行の出来るような私ではないのだ」ということを教えていただきました。
この、『浄土真宗』の教えを聞く中で私が一番に戸惑ったのは、煩悩いっぱいの‘自分の心’を問題にしていきなさいと教えられながら、‘自分の心’を相手にしていてはいけませんと教えられたことです。 
まったく矛盾していますよね。

そもそも、私は‘自分の心’と言うものがわかりませんでした。 観ることが出来ませんでした。
‘上辺の心’ではなく‘本心’を観てゆけと言われても、私にはこれを区別することも出来ませんでした。
しかも、その‘本心’を観・聞きせよと言われながらも、その‘本心’に囚われるな、相手にするなとも言われる。 
これは、私にとってとても難しい注文でした。 

八木重吉さんの詩で 「こころ」 という単語が題名に付くものはたくさんありますが、そのうちの短いものを二つほど冒頭に記しました。
これ以外の詩についても、そのすべてに共通して言えることは、「‘こころ’というものは、縦横無尽に常に動き回っていて私の手には負えない…」ということを八木重吉さんは観・聞きされ、これを詩に表現しておられると思います。
でもこれは、いわゆる‘上辺の心’でしかありません。 実際に問題にしてゆかねばならない‘本心’とは違うのです。

仏法を聞いてゆく上で、こんなコロコロと移り変わる優柔不断な‘上辺の心’を盾に、私は 「こう思った」、「そうは思えなかった」などと、‘思い’のところで理論しても何も始まらないのだということをまずはしっかりと押さえねばならないでしょう。
そして、もう一つ付け加えて言うならば、「信じた」、「信じない」と言うのも 私の‘思い’でしかありません。
つまり、そんな‘上辺の心・思い’は相手にするな、問題にするな、ということを押さえる上で、まずはそんな‘心’しかもっていない私なのだということを知らねばならないのでしょうね。

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