SSブログ
詩・言葉 ブログトップ

泣けたなら・・・ [詩・言葉]

思いっきり泣きたいな

この悲しみが、全部流れてしまうくらいに涙を流したならば
少しは心が軽くなるかもしれない・・・
思いっきり泣いて、泣いて、泣き疲れたら
この悲しみの勢力も少しは衰えてくれるかもしれない・・・


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

過去・現在・未来 [詩・言葉]

過去に縛られることなかれ

今に戸惑うことなかれ

一寸先に振り回されることなかれ
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

つねに慈父母となりたまえり  [詩・言葉]

本願寺出版から出されている 法語カレンダー『心に響くことば』の2011年9月のお言葉は、親鸞さまが『教行信証・信文類』の中にて『涅槃経』を引用されたお言葉です。

      「  如来 一切のために つねに 慈父母となりたまえり  」

私には親がいました。 ですからこうしてこの世に生れ、今日まで生きてこられたわけですが、私には子供がおりませんので、残念ながら親の心というものを知ることはできません。
ただ、友達や周囲の親達の姿を通して「親」というものの大変さを想像することはできたとしても、それはほんのわずかな空想の世界の話に過ぎません。

ひとつハッキリ言えるのは、「あぁ、私はこの親の子であったのだ」と信に受けた時、「そうだったのだ! 親さまがいてくださって私でいられるのだ」、と心底喜べるのではないでしょうか。

私が母の介護をしていた時、私にとって母は親ではなく子供同然でした。
でも、母を亡くし、南無阿弥陀仏と出遇ってから、母はまぎれもなくこの世の親だった、この母の生き様、そして死に様を、私は決して無駄にしてはならないのだと知りました。

それが1,2年して、落ちるべきところまで落ちた私を受け止めてくださったのが、この世の親とは違う、私が子供の頃より探しに探し求めていた真の親さまでした。
私は何ひとつとして真実のわからない・・・、自分の力では何ひとつとし出来ない丸裸の赤ん坊のまま、ただ ただ 泣き叫びながら落ちて行くしかない者なのだ・・・、と知れた時に、初めて真の親さまの出遇う奇跡に恵まれました。
もちろん、それは一時的な思い込みかもしれません。
ただハッキリしているのは、落ちるしかない自分と、何が何でも助くるという真の親の願いを、「そうだったんだ!」と疑いなく知った瞬間は、今も鮮明に覚えています。

自分は大人だから何か出来ると思っている内は、決して子供の心にはなれません。
それは、己が如来さまの子供であることを知らない、とても とても 不幸なこと・・・、親さまである如来さまを一番悲しませることに他なりません。

大泣きしながら・・・、自分の欲ばかりを叫び散らしながら・・・、ジタバタと癇癪を起こすことしか出来ない赤子の自分なのだ知れた時にやっと、真の親さまの懐で甘えられるのではないでしょうか。
少なくとも私はそうです。 親さまを泣かせる度に、その親さまに甘えることしか出来ないのが私で、そんな時、自分の感情に関係なく「南無阿弥陀仏」と口にするしか出来ません。

それにしてもスゴイ言葉だと思います。
「親は」、「一切全てを引き受けて」、「常に間断なく」、「慈悲のこころで」、「父にも、母にも、なってって」、「私一人を救うとの誓いを実行してくださった」と言うことです。 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

Thai For Japan [詩・言葉]

タイに住む友達からメールが届きました。
いろいろなサイトで紹介させていただきましたが、ここにも一筆。

「久しぶりです。 元気ですか?
タイの国民的歌手、バード・トンチャイ・メッキンタイさんが、東日本大震災のために作った曲です。
日本の人たちに聞いてもらってください。」

   http://www.youtube.com/watch?v=zgy8bFVWM2E


     Thai For Japan : เบิร์ด ธงไชย แมคอินไตย์
 
      もうすぐ 新しい日が訪れる
      もうすぐ 地平線に太陽の光が見えてくる
      もうすぐ 失った気力と心の力を取り戻せるだろう
      今すぐ 今すぐ

      大波が去り 涙の波だけが残された
      それを思いやりの波に変える
      運命が多くの命を奪っていった
      それでも 涙を拭いて 歩き続けよう
      辛いことは やがて過ぎ去っていく

      波が去り 残した涙
      愛の手で 癒やそう
      悲しみや 今の辛さ
      涙こらえ 立ち向かおう 明日のために・・・

      今から 歩き出そう 未来へ
      立ち止まらず 振り返らないで
      あきらめず立ち上がり あふれる希望 この胸に
      今から 今すぐ

      波が去り 残した涙
      愛の手で 癒やそう
      悲しみや 今の辛さ
      涙こらえ 立ち向かおう 明日のために・・・

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

一人じゃないよ [詩・言葉]

今、すごく書きたい気持ちがあるのですが、それをどう書けばよいのかわかりません。
この気持を文字にして表したいなって思うのですが、言葉には限界があって…、
言葉では表現しきれないものがあって…、言葉ではとても伝えきれないけれど・・・・・。

  「一人じゃないよ

私は、その言葉がすごく嬉しかったんです。 その気持ちがものすごく嬉しかったんです。
だから、あげたいんです。
私がいただいて、とっても とっても 嬉しかったから、 私もあげたいんです。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

久しぶりの『グッチー語録』 [詩・言葉]

「口(クチ)」っていうのを濁らせたのが、「グチ(愚痴)」なのかしら? な~んて、フッと思いました。
「口」の付く単語を考えた時、「悪口」、「蔭口」、「ため口」、「悪たれ口」、「告げ口」、「憎まれ口」・・・
良い言葉が思い浮かびません・・・。 私の口から生み出されるものは、こんなものばかりなのですね。

「グチ」と言えば…(^^ゞ、グッチーさんからいただく電話は、いつも 「また愚痴だけど・・・」 との前置きをされてから始まるのですが、でも結局、彼からの愚痴を聞くよりも、私の愚痴を聞いていただくばかりなのですが…(^_^;)
しかも、それを全部御法で返してくだされる。 私にとってグッチー妙好人はなくてはならないお方です。

先日も、「高山どうやった?」とのお電話をくださいました。
私が、「こんなイヤな思いをした…」と言うと、「それはめでたい、ええこっちゃ!」と喜ぶし、「こんなことがあって辛かった…」と言えば、「そりゃ吉本新喜劇よりも面白いな~!」と笑われるし、グッチーさんがヘンなのか、私がヘンなのか、よくわからなくなることもあるけど、その「ヘン」が嬉しかったりもします。

グッチー語録は前のBLOGから時々UPしていますが、最近は書いてなかったので久しぶりの更新です。

「最近なぁ~、“現在説法” が、ず~~~っと なんや…。
「今」は「今」であって、いつも「今」。 その「今」が、「今」「今」「今」・・・ と 連続してるの。
その「今」のところで阿弥陀さんは説法しておられる。 わたしが何をしていても、何を思っていても、そんな私に関係なく、「今」「今」「今」・・・と、阿弥陀さんの説法は、ず~~~っと途切れることなく続いてるんや。
わたしの方では、「これは仏法」、「これは世間事」 と 自分の判断で決めてかかっておるけど、そんなわたしに阿弥陀さんは、ず~っと説法しておられるんや。
このわたしには、気づきようもないけどなぁ~・・・・・」

グッチーさんの言葉に、「私」が入り込む隙などありません。
ほんに私は仏法音痴で、仏法不感症だなぁ~と・・・、ただそれだけです。

それから、「どう求めて行ったらいいのですか?」って聞かれたのだけど、グッチーさんなら何て答える? と質問すると、 「あんたアホか!」 で ええんとちゃう?! と。

「どうしたら・こうしたら とか、わかる・わからん だとか、 あ~だ、こ~だ と言っているのは全部こちらの思いであり計らいや。 「これで!!」 というものを捕まえようとしているだけやないか。
信の一念のところで言えば、「捕らえよう」としておったんが、実は 「捕らえられてた」って気付かせてもらうだけや」

「そんでな、「わからん、わからん」と言っておる人の前に座らせてもらうと言うことは、「おまえは、どう聞かせてもらっとるんや?!」 とのご催促や。 わたしにはそう聞こえる。
わざわざわたしの前に座ってくださり、「どうすれば?」とか、「わからん…」とか言って、「おまえはどうなんや?!」と問うてくださる。 わたしへのご催促ばかりや・・・」

まだまだ書いておきたい言葉はあるのですが、今日はこのへんで!
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

言葉にできない [詩・言葉]

小田和正さんの 「言葉にできない」 という曲。  本当に、今、言葉になりません・・・・・

      ひとりでは生きてゆけなくて
      また 誰かを愛している
      こころ 哀しくて 言葉にできない

      せつない嘘をついては いいわけをのみこんで
      果たせぬ あの頃の夢は もう消えた

人を嫌いになることも…、 誰かを憎むことも…、 すごく すごく 苦手なこと・・・・・  だから しない。
そんなの嘘だと言われても・・・、 たとえそれが自分に対する偽りであったとしても・・・、 それでも私は誰も嫌いになりたくない・・・・・。
その考え方を咎められたのではなくて・・・、 意識せずにそんなことが出来るあなただから嫌いなのだと・・・、  自然に、無理なくやっているからこそ感に障るのだと言われて、 どうしたらよいのかわからなくなってしまいました。
なんだか、いろんなことが あちらからも こちらからも 一気に押し寄せて来て・・・、 私・・・、どうしたらよいのかわからなくなってしまいました。

わからなくなってしまったので、御法を仰ぎ見ました。
言葉になりません・・・・・・・   言葉に出来ません・・・・・・・

      誰のせいでもない
      自分がちいさすぎるから
      それが くやしくて 言葉にできない
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

生きてることが辛いなら [詩・言葉]

「生きてることが辛いなら  いっそ小さく死ねばいい」

御徒町凧さん作詞で、森山直太朗さんが歌う 「生きてることが辛いなら」 という曲の頭出しの詞です。
この、「死ねばいい・・・」 という歌詞に、世論からは 「自殺を勧めるような内容でけしからん!」との反論が起きたそうですが、『第50回日本レコード大賞』にてこの楽曲は作詞賞を受賞されたそうです。
今日・・・、 ちょっと辛くて・・・、 心の和むような春の曲を探していたのですが、なぜか引っかかったのはこの曲でした・・・。

      生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい
      恋人と親は悲しむが 三日と経てば元通り
      気が付きゃみんな年取って 同じとこに行くのだから

そ~なんですよね~ぇ・・・  きっと、その通りなんですよ・・・・・

傷ついたことを表に見せてはいけないと言われました。 傷つく方が悪いのだと・・・。
誰かに相談しなければならないような悩みなど持つからいけないんだと言われました。 そんな力量もないくせにと・・・。
被害者ぶるなと言われました。 私が私であることがすでに加害者なのだと・・・。

その通りだと思います・・・・・。  本当に、その通りだと思います・・・・・・・。

      何もないとこから 何もないとこへと
      何もなかったかのように 巡る命だから

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

‘ 真実の信心 ’ とは? [詩・言葉]

ギンヨウアカシア今年も、庭のアカシア(ミモザ)の木が たくさんの花をつけ、春の訪れを告げてくれました。
なんだか、毎年同じことを書いている気もしますが・・・
(^-^ゞ
以前、スペインを旅した時に、とても大きなミモザの木の並木道を通って、それがちょうど満開で、木いっぱいに咲く黄色の小花がとても美しくって、すっかりミモザに惚れてしまったのがきっかけで、帰国後 さっそく庭にミモザの木を植えたわけであります。
我が家にあるのは、分類学的には「ギンヨウアカシア」という木ですが、毎年、二月の終わり頃になると、鮮やかな黄色の花を咲かせて、庭に春を訪れを教えてくれます。

春なのに・・・・・?  春だから・・・・・?  まぁ~、 季節は関係なのかもしれませんが、寒さが緩むこの時期には、何かと 訃報が 数多く 耳に入ってまいります。
そんな中、先週、お父様を亡くされたばかりのOGさんと、お電話にて、いつものように長々とお話しをさせていただくことができました。
私なんかでは何のなぐさめにもならないでしょうが、それでも気分転換にお話しなど聞いてあげられたらいいな…、 な~んて思ってお電話をしたのに…、 結局は、折り返し電話をいただい上に、私の方が たくさんお話しを聞いていただくことになって、優しさと、勇気を、たくさんいただいちゃいました。
ホント…、 お念仏者というのはすごいですね・・・。  立っている場所が、私とは全然違うように思います。
それに、彼の一言って、ものすごくお腹に響くんですよね・・・・・。  だから、モノ覚えの悪い この私の頭にも残るのでしょうね~・・・・・、 もっとも、記憶に残したところで何の意味もありませんが・・・・・。
今回のお電話でも、 ズシン! ときたお言葉をたくさんいただきましたので、今、覚えているだけでも、書き留めておきたくなりました。 そして、ご縁のある方にも聞いていただきたくなりました。
OG語録です。

「私は 私や!   他人の 否定も 肯定も 関係ない!  私と 私のあみださんの 問題や。」

「みんな一人や~。  私も一人や~。  だから、私一人の ‘ なんまんだぶつ ’ や!」

「‘ 人間 ’ 相手に、 ‘ 私 ’ を わかってもらえることなんて無い!
 でも、あみださんだけは、 全部 ‘ 私 ’ を わかってくださっている。」

「聞く度ごとに、 ‘ 私が聞き誤っていました ’ と 聞くのが、聞法や。」

「本音を、言え! 言え!  ここは、極悪人の集まりや!」

それから、こんな質問をされました。
「‘ 真実の信心 ’ とは、何か?」 と 聞かれたら、奈っちゃんなら 何て答える? って・・・。
私は、 「私からは出てくるはずもなく、また、私とは寄り添うこともない、仏法を信じる心にふれさせていただくこと…。 阿弥陀さまの御心を、感じさせていただくこと…。」 というようなことを答えました。
OGさんは、決して私の言葉を否定することはありません。 でも、こう教えていただきました。
「‘ 仏願の生起本末 ’ を聞きて、 計らっているか、 任せられるか やないかなぁ~。
‘ 疑い心がなくなる ’ と言うのは、 御法を聞いて、 計らわず、 手段を交えず、 疑わずに、そのまま聞けてるかが、‘ 真実の信心 ’ とちゃうかなぁ~ と、わたしは思うよ。 ‘ 聞即信 ’ の教えやからなぁ~。」 と。

OGさんとお話しをしていると、いつも いつも、「私って、ものすごく小さいなぁ~、めちゃめちゃ浅いなぁ~、全然わかっていないなぁ~」 って 思います。
でも なぜか、それが嬉しくもあるのが不思議な感じです。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

「こころ」 八木 重吉 [詩・言葉]

「或る日の こころ」 八木 重吉

     ある日の こころ   山となり
     ある日の こころ   空となり
     ある日の こころ   わたしと なりて さぶし

「心よ」 八木 重吉

     こころよ   では いっておいで
     しかし   また もどっておいでね
     やっぱり   ここが いいのだ
     こころよ   では 行っておいで

八木重吉さんという詩人は、‘心’をテーマにした詩を数多く残しておられます。
その元になっているのがキリスト教の教えであり、彼自身も敬虔なクリスチャンでありました。
キリスト教は、‘我が心’を問題にしていきます。 心に沸き起った‘悪’、この世の道徳を基準にした悪しき心を罪として懺悔していく教えです。

では、仏教はどうでしょうか? 仏教も同様に、やはり自己を見つめること、‘我が心’を問題にしていきます。
世間に流布する仏教では、‘煩悩’(欲や怒りの心)を‘悪’として、そのような心を起こさないように修行することが尊いことであると教えられています。

しかし、仏教、つまりお釈迦さまの教えでありながら、『浄土真宗』では、「私は、まるまる‘煩悩’いっぱいの悪凡夫であり、そんな悪しき心しかない私なのだから‘煩悩’をなくすことなどさらさら出来ない。 ましてや修行の出来るような私ではないのだ」ということを教えていただきました。
この、『浄土真宗』の教えを聞く中で私が一番に戸惑ったのは、煩悩いっぱいの‘自分の心’を問題にしていきなさいと教えられながら、‘自分の心’を相手にしていてはいけませんと教えられたことです。 
まったく矛盾していますよね。

そもそも、私は‘自分の心’と言うものがわかりませんでした。 観ることが出来ませんでした。
‘上辺の心’ではなく‘本心’を観てゆけと言われても、私にはこれを区別することも出来ませんでした。
しかも、その‘本心’を観・聞きせよと言われながらも、その‘本心’に囚われるな、相手にするなとも言われる。 
これは、私にとってとても難しい注文でした。 

八木重吉さんの詩で 「こころ」 という単語が題名に付くものはたくさんありますが、そのうちの短いものを二つほど冒頭に記しました。
これ以外の詩についても、そのすべてに共通して言えることは、「‘こころ’というものは、縦横無尽に常に動き回っていて私の手には負えない…」ということを八木重吉さんは観・聞きされ、これを詩に表現しておられると思います。
でもこれは、いわゆる‘上辺の心’でしかありません。 実際に問題にしてゆかねばならない‘本心’とは違うのです。

仏法を聞いてゆく上で、こんなコロコロと移り変わる優柔不断な‘上辺の心’を盾に、私は 「こう思った」、「そうは思えなかった」などと、‘思い’のところで理論しても何も始まらないのだということをまずはしっかりと押さえねばならないでしょう。
そして、もう一つ付け加えて言うならば、「信じた」、「信じない」と言うのも 私の‘思い’でしかありません。
つまり、そんな‘上辺の心・思い’は相手にするな、問題にするな、ということを押さえる上で、まずはそんな‘心’しかもっていない私なのだということを知らねばならないのでしょうね。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

「こころ」 萩原 朔太郎 [詩・言葉]

     こころをばなににたとへん
     こころはあぢさゐの花
     ももいろに咲く日はあれど
     うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

     こころはまた夕闇の園生のふきあげ
     音なき音のあゆむひびきに
     こころはひとつによりて悲しめども
     かなしめどもあるかひなしや
     ああこのこころをばなににたとへん。

     こころは二人の旅びと
     されど道づれのたえて物言ふことなければ
     わがこころはいつもかくさびしきなり。

萩原 朔太郎さんの 「こころ」 という詩です。
この詩と出合ったのはホントに偶然で、偶々NETで目にして私の心を捉えました。

私は日々、自分の‘思い’を軸にしながら、その私の‘思い’に振り回されて生きています。
それが‘迷っているということ’だ、と聞かされても、これを悪いことだとは思えないと開き直り、したがってこれを止めようとも思いません。
そもそも‘我’を軸にして生きていることが、イコール、‘迷いの根源’だなんて聞いても右から左の私です。
そんな私の‘思い’などに関係なく、真実一如の仏さまは、「おまえは無始よりその‘我中心の心’のために迷って来たのだぞ!」とおっしゃっているのだと教えていただきました。
「そしてこれからも、おまえのその‘我’を中心とした性根は変わることなく、それ故に永遠に迷い続けて行かねばならないのだぞ!」 と聞かせていただきました。
しかし、自分を見れば、何度聞かせていただいたとてもその性根はまったく変わらないのです。

この詩を始めて目にしてしばらくした後、この詩を元に 「ゲド戦記」というアニメ映画の挿入歌 「テルーの唄」という曲が作られたということを知り You Tube で聞いてみました。
手嶌葵さんという歌手が歌っておられるその曲は、原作の詩以上に私の心にしみこんで来て、私はこの曲をとても好きになりました。

     夕闇迫る雲の上 いつも一羽で飛んでいる 鷹はきっと悲しかろう
     音も途絶えた風の中の 空を掴んだその翼 休めることはできなくて
     心を何にたとえよう 鷹のようなこの心 
     心を何にたとえよう 空を舞うよな悲しさを 

本当の意味の 寂しさ・悲しさに気付くことなく、独り生きて、独り死んで行かねばならない私です・・・
「音が途絶えた」のではなく、私は何も‘聞く気のない’ヤツなんです…、 ‘聞けない’ヤツなんです…。
だから、休むことなく後生へと向かって歩み続けたその先で、「空(くう)」を握りしめたまま死んで行かねばならない身なのです…。

     雨のそぼ降る岩陰に いつも小さく咲いている 花はきっと切なかろう
     色も霞んだ雨の中 薄桃色の花びらを 愛でてくれる手もなくて
     心を何にたとえよう 花のようなこの心
     心を何にたとえよう 雨に打たれる切なさを

私は、岩場に咲く一輪の花のようにいつも孤独で、その命は、花のようにとてもはかない…。
切なくて・淋しくて、孤独に押し潰されそうになっても、自分一人ではどうすることもできず…、 この命が尽きるひの日まで、ただひたすらに愛でてくださる手を待ち続け、孤独の雨に打たれ続けて行くばかりです…。
生まれ咲いて、散り死ぬまで、真実の愛ををただ求め、ひたすらに求め続けたあげくに、私を愛してくれたたったひとりの存在である私自身の我愛にさえも裏切られて、独りっきりで死んで行かねばならない身なのです…。

     人影絶えた野の道を 私とともに歩んでる あなたもきっと寂しかろう 
     虫の囁く草原(くさはら)を ともに道行く人だけど 絶えて物言うこともなく 
     心を何にたとえよう 一人道行くこの心
     心を何にたとえよう 一人ぼっちの寂しさを

孤独いっぱいの私にピッタリと寄り添って、こんな私を一方的に愛してくださり、共にこの堕ち行く道を歩んでくださるお方がたった一人だけいます。 なんと心強いことでしょう! 喜ぶべきことでしょう!
それなのに私には、これを喜ぶ心もなくて、ただひたすらに己ばかりを あて・頼りにしてしまう・・・。
その方のお心を無視し、背いて、その方を悲しませることしか私はできません。

こんな私の前に立たれて、「そのまんまの君でいいから、これだけは聞いてください」と、その方は頭を下げておっしゃいました。
それは、たった一つのお願いでした。 そしてそれは、とても簡単なお願いでした。
そのお方は、 私が、どう思おうが、思うまいが…、 また、信じようが、信じまいが…、 たった一言でいいから 「我が名を称えておくれ!」と…、  聞く気もなく、頭の下がらないこの私に向かって、「我が名を称えてください!」と、十劫もの昔から、こんな私と向き合って深々と頭を下げられ叫び続けてくださっていました。

そのお声は既に私の耳に届いています。 それでもまだ、私は自分の‘思い’に囚われながら、自分の心に振り回されて生きています。
そのお方は、そんな私だと百も承知の上で、三世に渡って私に寄り添い、ずっと ず~っと 叫び続けてくださっているのです。
そのお方こそ、私一人の為に ‘南無阿弥陀仏’ となってくださった私の如来さまなのです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog
詩・言葉 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。