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つねに慈父母となりたまえり  [詩・言葉]

本願寺出版から出されている 法語カレンダー『心に響くことば』の2011年9月のお言葉は、親鸞さまが『教行信証・信文類』の中にて『涅槃経』を引用されたお言葉です。

      「  如来 一切のために つねに 慈父母となりたまえり  」

私には親がいました。 ですからこうしてこの世に生れ、今日まで生きてこられたわけですが、私には子供がおりませんので、残念ながら親の心というものを知ることはできません。
ただ、友達や周囲の親達の姿を通して「親」というものの大変さを想像することはできたとしても、それはほんのわずかな空想の世界の話に過ぎません。

ひとつハッキリ言えるのは、「あぁ、私はこの親の子であったのだ」と信に受けた時、「そうだったのだ! 親さまがいてくださって私でいられるのだ」、と心底喜べるのではないでしょうか。

私が母の介護をしていた時、私にとって母は親ではなく子供同然でした。
でも、母を亡くし、南無阿弥陀仏と出遇ってから、母はまぎれもなくこの世の親だった、この母の生き様、そして死に様を、私は決して無駄にしてはならないのだと知りました。

それが1,2年して、落ちるべきところまで落ちた私を受け止めてくださったのが、この世の親とは違う、私が子供の頃より探しに探し求めていた真の親さまでした。
私は何ひとつとして真実のわからない・・・、自分の力では何ひとつとし出来ない丸裸の赤ん坊のまま、ただ ただ 泣き叫びながら落ちて行くしかない者なのだ・・・、と知れた時に、初めて真の親さまの出遇う奇跡に恵まれました。
もちろん、それは一時的な思い込みかもしれません。
ただハッキリしているのは、落ちるしかない自分と、何が何でも助くるという真の親の願いを、「そうだったんだ!」と疑いなく知った瞬間は、今も鮮明に覚えています。

自分は大人だから何か出来ると思っている内は、決して子供の心にはなれません。
それは、己が如来さまの子供であることを知らない、とても とても 不幸なこと・・・、親さまである如来さまを一番悲しませることに他なりません。

大泣きしながら・・・、自分の欲ばかりを叫び散らしながら・・・、ジタバタと癇癪を起こすことしか出来ない赤子の自分なのだ知れた時にやっと、真の親さまの懐で甘えられるのではないでしょうか。
少なくとも私はそうです。 親さまを泣かせる度に、その親さまに甘えることしか出来ないのが私で、そんな時、自分の感情に関係なく「南無阿弥陀仏」と口にするしか出来ません。

それにしてもスゴイ言葉だと思います。
「親は」、「一切全てを引き受けて」、「常に間断なく」、「慈悲のこころで」、「父にも、母にも、なってって」、「私一人を救うとの誓いを実行してくださった」と言うことです。 
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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