SSブログ

桜梅桃李 [随筆日記]

ご近所にも梅の花が咲き始めた三月の上旬、カメラと共にお出かけしてきました。

2011.2.26  梅園.JPG

梅の木は、遣隋使が中国から持ち帰り日本に伝えられたと言われています。
その中国の故事に、「桜梅桃李(おうばいとうり)」というものがあります。 
鎌倉時代に編纂された世俗説話集 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の中にある 「春は櫻梅桃李の花あり、秋は紅蘭紫菊の花あり、皆これ錦繍の色、酷烈の匂なり」 というのは、この故事が元になっているようです。
「桜梅桃李」というのは、桜と、梅と、桃と、李(すもも)のことです。
互いに似たような花ではあるけれど、桜は桜として、梅は梅として、桃は桃として、李は李として、個々の特徴を精一杯に生かし、いずれも独自に美しい花を咲かせるという意味です。
桜は桜のままに、梅は梅でしかないのだし、桃は桃のままだからよいのだし、李は李なのだから・・・、「そのままの私でいいんだよ」、「そのままの私でしかないんだよ」って、教えてくれているんです。

人は、己と他者と比べては、自惚れたり、卑下したり・・・、それで傷付いたり、傷付けたり・・・、そんなことばかりしているけれど、そんな人間界に、「もう、春はすぐそこまで来ているよ」と優しく囁きかけてくれる梅の花。

私、思うのです。 「桜梅桃李」というのは、桜のふりなんかしても無意味だよ、梅になったつもりでいてはもったいないよ、桃になろうとしても無理を重ねるだけだよ、李になる必要はないんだよ。
そのままの私でいいんだから、春に包まれるままに、私らしく花を咲かそう! って。
どんな私でも、そのままの私を春は包んでくれるのですから。
花が一つ開く時、南無阿弥陀仏と聞こえます。 花が一つ落ちる時も、南無阿弥陀仏と聞こえます。

法然さまの誕生から入寂に至るまでのご生涯の行状、また法語やご消息、著述などの思想なども描かれている『法然上人行状絵図』の中にも、「桜梅桃李」という言葉が見られます。

近来の行人、観法をなす事なかれ。 仏像を観ずとも、運慶快慶が造りたる仏程だにも、観じあらわすべからず。
極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花果程も、観じあらわさん事かたかるべし。
ただ 『彼の仏今現に世に在して成仏し給えり。 当に知るべし、本誓の重願虚しからざることを。
衆生称念すれば、必ず往生を得』 の釈を信じて、ふかく本願をたのみて一向に名号を唱うべし。
名号を唱うれば三心おのずから具足する也」  (『法然上人行状絵図』巻第二十一)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。