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さくら さくら [随筆日記]

先週、四月初めの週末には、まだ一分咲きだった桜の花。
この一週間は体調を崩してしまい、どこへも出かけることが出来ないままに過ごしてしまいましたが、今日は支部法座のある日…、どうしても出席せねばならなくて渋々と外出をするにあたり、乗車駅からは少し離れているものの、桜まつりをしている公園の駐車場に車を止めようと思い、少し早目に家を出ました。
そろそろ満開を迎えているかなぁ・・・と思っていた桜の花も、既に満開を過ぎていて新芽が出ていることに少々驚き、「時の過ぎるのは何と早いことか」と、目に実感いたしました。

「諸行は無常である」と言葉にするのは簡単なことです。
でも、これを我が身に引き寄せた時、「諸行無常」とどれほどにわかっていると言えるでしょうか・・・。
時計の針を見ていれば、刻々と時間は過ぎていきますが、自分自身はどうなのか…、ということです。
細胞レベルで言えば刻々と歳をとっているでしょうし、感覚的にも時間が過ぎて行くのは理解できます。
同じことですが言い方を変えれば、「生ある者は死す」と言うことです。 生れさせていただいた以上は、必然的に死に向かって生きているということを、我が身がどれほどにわかっているか?と言うことです。

キャンパス.JPG左の図は御法話で示された、生れてから死ぬまでの一生を山の絵にしたもので、例えば80歳まで生きたとすれば頂上は40歳です。
しかし、自分の寿命などわかる人はおりませんから、この図が完成するのは死んだ後のことになります。
ただ、この日の御法座でG先生が、「今、みなさんはどの辺りにいるでしょうか?」と質問をされた時、誰もがみな、この図のどこに今の自分を置こうかと迷いながらも、「半分を過ぎたところかなぁ?」、「もう終わりの方かしら?」なんて言っていることに私は少し驚きました。

この図でいけば私はちょうど山頂の所になりますが、仏法を聞くということは、今が何歳であろうとも、自分はいつも一番右端の下のところ、「死(80歳)」の淵にいるのだということを聞かせていただくことです。
生死というのは例え話でも何でもない、自分自身のことなのです。
でも、これは頭でわかっているだけのこと・・・。
実際の私は、やっぱりお山のてっぺんにいて、「死」が…、「終点」がどこにあるのか、まったく問題にしていないのです。

さくら さくら
今朝、車を止めた駐車場に夜になって戻ると、フロントガラスの上に桜の花びらが数枚落ちていました。 見上げればチラホラと舞い散るさくら。
さくら さくら
こうして今日が終わるということは、刻々と死に近づいていているということです。
桜のことでも、他の誰の事でもなく、この私が落ちる日が今とも知れずに近づいているということです。
さくら さくら
舞い散る桜の花びらを手に取るように、私は親の手元へと落ちて行きます。 南無阿弥陀仏

キャンパス (3).JPG

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