生きる喜び [座談会・懇親会]
この日の御法話は、「生きる喜び」というテーマで、G先生がお話しくださいました。
「生きる喜び」というのは、とても とても 簡易なお話しであると同時に、とても とても 難義なお話であると思います。
まず、「生きる」ということ一つ取ってみても、測り知れない奥深さがあります。
「生きている」ということを当たり前と思っているのが私ですが、源信僧都さまは『横川法語』にて、「まず、地獄界・餓鬼界・畜生界という、仏法を聞くことの出来ない三悪道という世界を離脱して、仏法を聞くことのできる人間界に生まれさせていただいたということは、なんと喜ばしいことであろうか」と示してくださった通りに、人間として生まれさせていただいたというのは、本当に 本当に 奇跡なことでございます。
このことを知ることさえも難しいのに、ましてやこれを「喜べる」などというのは、難中の難。
しかし、これ以上の喜びなどこの世には存在いたしません。 これは一時的な幸福などというものではありませんもの。
「生きる」とは何か…、その「喜び」とは何か…、このテーマに、御法の重さをズッシリと感じました。
「生きる」というのは、本当に大変なことでございます。 難あり、苦ありと、人それぞれ一様ではございませんが、皆各々に頑張って生きているのです。 でも、頑張っても報われず他人のせいにしてみたり、自分のレベルで他人と比較したりしては嘆いてみたり、思い通りに事が運ばないことに絶えず愚痴っているのが私です。
それは何故でしょうか・・・・・・
それは、私は自分の力で生きていると思っているからではないでしょうか。
源信さまはおっしゃいました、「間断のない責め苦にある喘ぐ地獄界の苦しみや、食欲しかない餓鬼界の辛さ、また、事の判別もつかぬ畜生界の嘆かわしさ、そして、戦いに明け暮れる悲しみと恐怖ばかりの修羅界、これらの世界と比べたらならば、この人間界に生まれさせてもらったといことは、何にも変え難い喜ばしいことなんだよ」と。
でも、人間界は四苦八苦の世界です。 生れる苦、老いていく苦、病を負う苦、死んで行かねばならぬ苦、それと、愛する者と別れねばならない苦(愛別離苦)、怨み憎んでいる者とも付き合わねばならない苦(怨憎会苦)、求めるがままに得ることの出来ない苦(求不得苦)、そして全ての精神的な苦脳(五蘊盛苦)など、人間として生きていくということは、苦しみに満ち満ちております。
しかし、この苦しみを苦しみとわかるのは人間に生まれさせていただいたからであります。
だから仏法が聞けるのです。 仏法の聞けることを喜べる世界と出遇うことができるのは、人間界だけなのです。
Sちゃんからこんなことを教えていただきました。
「仏法を生きるために利用してはならない。 生きることを利用して仏法を聞くのだ」 と。
源信さまがお示しくださった、「世の住み憂きはいとうたよりなり」 と同だと思いました。
お釈迦さまが教えてくださった通りに 「人生皆苦」、この世を生きていくのはとても難しいことです。
ですが、「その困難の一つ一つを厭うことを機縁として、仏さまの教えを聞かせていただけるのが人間界であるのだよ」 と。
源信さまが教えてくださった通り、私は、「生きて行くのが辛い…、もう死にたい…」との人生苦の中で、「辛い思いをさせてゴメンネ」と謝ってくださっている真の親様と出遇わせていただくことが出来ました。
もしも、この出遇いがなかったならば、人生は苦しいままに終わり、人間に生まれさせてもらったことを真に喜ぶということなど出来なかったでしょう・・・。
それでもなお私は、「あ~良かった、楽しかった」とか、逆に「あ~悔しい、辛い」だとか、我が身の上の出来事にばかりに一喜一憂して、人間に生まれさせていただことを不思議とも思っていなければ、有り難いとも思っておりません。
だけれども、そ~ゆ~ことがわかるのです。 人間だから。
わかることはわかる、わからんことはわからんと。 道徳や理屈も、教えもらったからわかるのです。 そして喜びや悲しみ、感じることが出来るのも、これを相手に伝えることが出来るのも、人間として生れさせていただいたから出来ることであります。
しかし、ただそこに留まっているだけでは本当の喜びには出遇えません。
人間に生れさせていただいたからこそ、仏法を聞かせていただける身となり、「お育ていただきました」というところで如来さまのお心に触れさせていただいて、そして、生死を越える教えと出遇わせていただいたと言うことが知れた時に初めて、人間に生れさせていただいたことを喜べる身にさせていただけるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「生きる喜び」というのは、とても とても 簡易なお話しであると同時に、とても とても 難義なお話であると思います。
まず、「生きる」ということ一つ取ってみても、測り知れない奥深さがあります。
「生きている」ということを当たり前と思っているのが私ですが、源信僧都さまは『横川法語』にて、「まず、地獄界・餓鬼界・畜生界という、仏法を聞くことの出来ない三悪道という世界を離脱して、仏法を聞くことのできる人間界に生まれさせていただいたということは、なんと喜ばしいことであろうか」と示してくださった通りに、人間として生まれさせていただいたというのは、本当に 本当に 奇跡なことでございます。
このことを知ることさえも難しいのに、ましてやこれを「喜べる」などというのは、難中の難。
しかし、これ以上の喜びなどこの世には存在いたしません。 これは一時的な幸福などというものではありませんもの。
「生きる」とは何か…、その「喜び」とは何か…、このテーマに、御法の重さをズッシリと感じました。
「生きる」というのは、本当に大変なことでございます。 難あり、苦ありと、人それぞれ一様ではございませんが、皆各々に頑張って生きているのです。 でも、頑張っても報われず他人のせいにしてみたり、自分のレベルで他人と比較したりしては嘆いてみたり、思い通りに事が運ばないことに絶えず愚痴っているのが私です。
それは何故でしょうか・・・・・・
それは、私は自分の力で生きていると思っているからではないでしょうか。
源信さまはおっしゃいました、「間断のない責め苦にある喘ぐ地獄界の苦しみや、食欲しかない餓鬼界の辛さ、また、事の判別もつかぬ畜生界の嘆かわしさ、そして、戦いに明け暮れる悲しみと恐怖ばかりの修羅界、これらの世界と比べたらならば、この人間界に生まれさせてもらったといことは、何にも変え難い喜ばしいことなんだよ」と。
でも、人間界は四苦八苦の世界です。 生れる苦、老いていく苦、病を負う苦、死んで行かねばならぬ苦、それと、愛する者と別れねばならない苦(愛別離苦)、怨み憎んでいる者とも付き合わねばならない苦(怨憎会苦)、求めるがままに得ることの出来ない苦(求不得苦)、そして全ての精神的な苦脳(五蘊盛苦)など、人間として生きていくということは、苦しみに満ち満ちております。
しかし、この苦しみを苦しみとわかるのは人間に生まれさせていただいたからであります。
だから仏法が聞けるのです。 仏法の聞けることを喜べる世界と出遇うことができるのは、人間界だけなのです。
Sちゃんからこんなことを教えていただきました。
「仏法を生きるために利用してはならない。 生きることを利用して仏法を聞くのだ」 と。
源信さまがお示しくださった、「世の住み憂きはいとうたよりなり」 と同だと思いました。
お釈迦さまが教えてくださった通りに 「人生皆苦」、この世を生きていくのはとても難しいことです。
ですが、「その困難の一つ一つを厭うことを機縁として、仏さまの教えを聞かせていただけるのが人間界であるのだよ」 と。
源信さまが教えてくださった通り、私は、「生きて行くのが辛い…、もう死にたい…」との人生苦の中で、「辛い思いをさせてゴメンネ」と謝ってくださっている真の親様と出遇わせていただくことが出来ました。
もしも、この出遇いがなかったならば、人生は苦しいままに終わり、人間に生まれさせてもらったことを真に喜ぶということなど出来なかったでしょう・・・。
それでもなお私は、「あ~良かった、楽しかった」とか、逆に「あ~悔しい、辛い」だとか、我が身の上の出来事にばかりに一喜一憂して、人間に生まれさせていただことを不思議とも思っていなければ、有り難いとも思っておりません。
だけれども、そ~ゆ~ことがわかるのです。 人間だから。
わかることはわかる、わからんことはわからんと。 道徳や理屈も、教えもらったからわかるのです。 そして喜びや悲しみ、感じることが出来るのも、これを相手に伝えることが出来るのも、人間として生れさせていただいたから出来ることであります。
しかし、ただそこに留まっているだけでは本当の喜びには出遇えません。
人間に生れさせていただいたからこそ、仏法を聞かせていただける身となり、「お育ていただきました」というところで如来さまのお心に触れさせていただいて、そして、生死を越える教えと出遇わせていただいたと言うことが知れた時に初めて、人間に生れさせていただいたことを喜べる身にさせていただけるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
その様にさせていただこうと思っています。
多くの方々からのコメントは・・・・
本音で書かれてる事に、言葉を失い感謝の涙が溢れます。
by yu-papa (2011-04-25 12:56)
ブログ・・・もう少し続けてみようと思います。
気が向かれるなら、遊びに来てください・・・お待ちしております。
by yu-papa (2011-04-25 13:03)
同じ病気だからなんとなく気持ちがわかると言うのは私の傲慢でしかありませんので、yu-papaさんのお気持ちがわかりますとは言えませんが、ただ、yu-papaさんを応援してくださっているたくさんの方々がいらっしゃるということは忘れてはならないと思いますよ。 それは、とても とても 幸せなことですよね。(^-^)v
人として生まれさせていただけたから得られた喜びであり、もしもこの苦しさを経験していなかったならば気付かなかった喜びでもあると思います。
頑張るよりも…、何かこうしようと決めてしまうよりも…、今、ありのままのyu-papaさんのままで行きましょ!o(^-^)o
by 奈っちゃん (2011-04-25 13:45)