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理解と厄介 [座談会・懇親会]

昨日は、8月の支部法座でした。
自身が不安定な状態の中、初めて利用させていただく会場、久しぶりにご講師としてお迎えするG先生の体調、そして役員上層部間で日々強まる不協和音・・・、打ち合わせもないままにこの日が来てしまった・・・、そんな感じでの会場入りでした。

しかし、今回は知人(副住職)のお寺の本堂(冷房付き)を借りての御法座ということもあって、環境はすこぶる良く、初参加の10名を加えての40名をはるかに超える大所帯に、驚きと、嬉しさと、大変さで、目が回るような御座となりました。

この日のテーマは、「蓮如上人と『御文章』」。
でも・・・、私自身の気持ちはまったく外を向いていて、御法話中に何度も立席しなければならない立場に、ただ ただ 聞こえてくるのものは、自身の欲の叫び声と、特定の人に対する怒りの心のみ・・・。
それらを打ち消すようにお念仏を何度も何度も口に出させていただきました。 南無阿弥陀仏

そんな支部法座が終わってやっと帰れる! と安堵したのもつかの間、懇親会会場へ強制連行されて、一杯だけアルコールをいただいた後は、何度も帰るチャンスをうかがってはいたのですが、新規参加の方への対応をしていたので、なかなかタイミングがつかめず、挙句、ド壺に・・・

会話は支部の話しとなり、「仕事なんて、やらなければやらないで済んで行くよ!」と言う支部長と、その代行をして尻ぬぐいをしなければならない私の仕事量の多さにストレスはたまる一方・・・。
そのストレスが起因となり精神的にも不安定になってきて、「やらなければならないことをする時間がない・・・。 私がやらなければならない」 という新たなストレスが加わり、最近では、もう いっぱい いっぱいだと感じていて、メールをチェックすることも苦痛でした。
それが表面的にも出てしまったのでしょうか・・・、今度は本部の方から「私」外しが決まったと聞きました。
もちろん悪意でないことは説明を受けるまでもなくわかっています。 私に対する気遣いだと言うことも頭ではわかっているのです。
でも、私自身が、それがうまく受け入れができないのです。

昨日の懇親会でも、ある先輩から言われました。
「あなたのアメリカン的な性格はとても良いとは思うけど他人からは反感をかうのよ。 それでいて繊細な心をもっているからあなたとは一線を隔して直接関わりたくないの」と・・・・・
そこに先輩の隣に座って聞いていた支部長がここぞとばかりにアレコレと私の性格非難などを始められ・・・、「あぁ、この人は本当に自分ことが何も見えていないのに、自惚れだけは天下一品だなぁ~」、なんて冷静に彼を見ている私がありました。

先輩から言われたいことは理解できます。 けれど抑えていた疲れが ド~~~ッと噴出して来て、これをきっかけに懇親会を中座させていただくことにしました。

帰り道、地下鉄の改札口前で不意に倒れてしまったのですが、この時、なんだかすごく泣きたくなってしまったのですが、周囲の視線や、転んだ恥ずかしさもあったのでそこはグッとこらえて、駅で少し休ませていただいた。
そこへ何時く懇親会を中座した友人が現れて、彼が一緒に帰ってくれることになりホッと一安心。

でも・・・・・ いつまで続くんだろう・・・、このストレスは・・・・・
日々の生活に入り込んでしまった御法のお仕事からは、いろんなことを教えていただきます。
やっぱり私は仏法なんか大嫌い! ・・・。 とか・・・・・
でも、そのおかげで“南無阿弥陀仏”との出遇いは確実に増えています。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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生きる喜び [座談会・懇親会]

この日の御法話は、「生きる喜び」というテーマで、G先生がお話しくださいました。
「生きる喜び」というのは、とても とても 簡易なお話しであると同時に、とても とても 難義なお話であると思います。
まず、「生きる」ということ一つ取ってみても、測り知れない奥深さがあります。
「生きている」ということを当たり前と思っているのが私ですが、源信僧都さまは『横川法語』にて、「まず、地獄界・餓鬼界・畜生界という、仏法を聞くことの出来ない三悪道という世界を離脱して、仏法を聞くことのできる人間界に生まれさせていただいたということは、なんと喜ばしいことであろうか」と示してくださった通りに、人間として生まれさせていただいたというのは、本当に 本当に 奇跡なことでございます。
このことを知ることさえも難しいのに、ましてやこれを「喜べる」などというのは、難中の難。
しかし、これ以上の喜びなどこの世には存在いたしません。 これは一時的な幸福などというものではありませんもの。
「生きる」とは何か…、その「喜び」とは何か…、このテーマに、御法の重さをズッシリと感じました。

「生きる」というのは、本当に大変なことでございます。 難あり、苦ありと、人それぞれ一様ではございませんが、皆各々に頑張って生きているのです。 でも、頑張っても報われず他人のせいにしてみたり、自分のレベルで他人と比較したりしては嘆いてみたり、思い通りに事が運ばないことに絶えず愚痴っているのが私です。
それは何故でしょうか・・・・・・
それは、私は自分の力で生きていると思っているからではないでしょうか。
源信さまはおっしゃいました、「間断のない責め苦にある喘ぐ地獄界の苦しみや、食欲しかない餓鬼界の辛さ、また、事の判別もつかぬ畜生界の嘆かわしさ、そして、戦いに明け暮れる悲しみと恐怖ばかりの修羅界、これらの世界と比べたらならば、この人間界に生まれさせてもらったといことは、何にも変え難い喜ばしいことなんだよ」と。

でも、人間界は四苦八苦の世界です。 生れる苦、老いていく苦、病を負う苦、死んで行かねばならぬ苦、それと、愛する者と別れねばならない苦(愛別離苦)、怨み憎んでいる者とも付き合わねばならない苦(怨憎会苦)、求めるがままに得ることの出来ない苦(求不得苦)、そして全ての精神的な苦脳(五蘊盛苦)など、人間として生きていくということは、苦しみに満ち満ちております。
しかし、この苦しみを苦しみとわかるのは人間に生まれさせていただいたからであります。
だから仏法が聞けるのです。 仏法の聞けることを喜べる世界と出遇うことができるのは、人間界だけなのです。

Sちゃんからこんなことを教えていただきました。
「仏法を生きるために利用してはならない。 生きることを利用して仏法を聞くのだ」 と。
源信さまがお示しくださった、「世の住み憂きはいとうたよりなり」 と同だと思いました。
お釈迦さまが教えてくださった通りに 「人生皆苦」、この世を生きていくのはとても難しいことです。 
ですが、「その困難の一つ一つを厭うことを機縁として、仏さまの教えを聞かせていただけるのが人間界であるのだよ」 と。
源信さまが教えてくださった通り、私は、「生きて行くのが辛い…、もう死にたい…」との人生苦の中で、「辛い思いをさせてゴメンネ」と謝ってくださっている真の親様と出遇わせていただくことが出来ました。
もしも、この出遇いがなかったならば、人生は苦しいままに終わり、人間に生まれさせてもらったことを真に喜ぶということなど出来なかったでしょう・・・。

それでもなお私は、「あ~良かった、楽しかった」とか、逆に「あ~悔しい、辛い」だとか、我が身の上の出来事にばかりに一喜一憂して、人間に生まれさせていただことを不思議とも思っていなければ、有り難いとも思っておりません。
だけれども、そ~ゆ~ことがわかるのです。 人間だから。 
わかることはわかる、わからんことはわからんと。 道徳や理屈も、教えもらったからわかるのです。 そして喜びや悲しみ、感じることが出来るのも、これを相手に伝えることが出来るのも、人間として生れさせていただいたから出来ることであります。
しかし、ただそこに留まっているだけでは本当の喜びには出遇えません。
人間に生れさせていただいたからこそ、仏法を聞かせていただける身となり、「お育ていただきました」というところで如来さまのお心に触れさせていただいて、そして、生死を越える教えと出遇わせていただいたと言うことが知れた時に初めて、人間に生れさせていただいたことを喜べる身にさせていただけるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

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辻家の家庭法座 [座談会・懇親会]

   「今日は、命がけでお話しをさせていただきます」

   それが最初の一言でした。
   一気に溢れ出した涙・・・・・
   私は、ただここに、当たり前のごとくに座っているだけでした。
   誰のおかげもなく
   誰のご苦労も知らずに
   私は、なんも知らんと、用意された座布団の上にただ座っただけでした。

   誰の為に命をかけてくださっているのか・・・
   何のために命をかけてくださっているのか・・・
   「命をかける」とはどんなことなのか・・・
   皆、自分の智恵でわかったような気になっている人たちの姿に、
   鏡を見るが如くに哀れな自分が映し出されました。

   「わたしと同じ仏にさせる!」
   その二言目を、ただ惚け~と耳に聞き

   「絶対に失うことのない宝物をあげる!」
   との三言目に、命がけの説法とは真逆の方を向いている私

   「必ず救う」は、如来さまの願いです。
   「仏にさす」は、如来さまの誓いです。

   私には何もない・・・・・・
   私には、私(我)そのものしかない・・・・・・
   それすらもわからん私なのに・・・・・・

   最後の一言は、
   「どうか仏になってください、 どうぞ“南無阿弥陀仏”をもらってください」
   そう言って床に額を擦りつけられた如来さまに、
   「ごめんなさい」 と 泣いて称えた 南無阿弥陀仏をいただい上に
   「ありがとう、信じてくれてありがとう」 の 南無阿弥陀仏もいただきました。

   南無阿弥陀仏を聞かんならんのは、他の誰でもないこの私でした。
   ただ ただ 私の為の南無阿弥陀仏でした。
   それを知らんで、
   それを知らんで、
   私(我)の願いばっかりに執着しておる私に
   果てしない過去より、南無阿弥陀仏となってずっと一緒におってくださった。
   南無阿弥陀仏を知らん私を、南無阿弥陀仏でずっと包んでおってくださった。

   これ一つ
   これ一つ、
   どうか、どうか、聞いてくださいと、南無阿弥陀仏になってくださった。

   その御苦労など全然わからん・・・・・・
   私には、全く 全く わからんけれど、
   どうぞ、どうぞ、聞いてくださいの南無阿弥陀仏は、
   こんなにも こんなにも いつも一緒におってくださったのです。

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否定的人生観 [座談会・懇親会]

一昨日から一泊二日で京都に滞在。 朝から体調が思わしくなく出かけることを躊躇しておりましたが、夕食後のドライブから徐々に調子を取り戻してきて、夜の伝道研修会への初参加が叶いました。
その冒頭にS先生がおっしゃった 「否定的人生観」 という言葉が、あれからず~っと頭に残っておりますので、先生が何とおっしゃったのかは忘れてしまったのですが、今一度自分なりに味わってみたくなりました。

性格的なことを言えば、私は「自己否定」のタイプに属するでしょうね。
昨日も、事務所のコピー機が唐突に動かなくなったのですが、私はその横で仕事をしていて、「えっ?! もしかして私の負のエネルギーで壊してしまったのかしら?」なんて冗談的な発想をけっこう真面目に自分の中で熟成させてしまったりします。
まぁ~ これはさておき…、こんな思考回路をレパートリー豊かに取り揃えておりますので、人の失敗をも自分のせいに考えてしまったり、自分の成功を素直に認められなかったり・満足しきれなかったりと、ある意味損な性分にございます。
こと一番に厄介なのが、自分自身の失敗についてです。 後悔と自責の念に囚われて、自分自身を責め・追い込むことを何よりの専決事項とし、意識する・しないに関わらず、これに努めてしまいます。
これは性格的と言うよりも病的な面を多分に有してはおりますが、「オマエが悪い!」、「オマエのせいだ!」と言われれば、その言葉通りに自己暗示をかけ、少しでもこれに抵抗する思いや、反抗をする心を見つけたならば、即刻、そんな自分・その心を咎め抹殺しようと努め、ますます自己否定の泥沼へと沈んでゆきます。
それが正しい方法だと自動判定された時点で、他のアイディアをも閉ざしてしまうのでしょうね・・・。

この道の終着地点は、「自己の存在否定」 です。
経験のある人にしかわからないこととは思いますが、ここまで到達してしまいますと、「おまえなんか死ねばいい」 との言葉ですごく楽になれるんです。 自分の行く道を示していただけた喜びと、これで責任を果たすことが出来るという満足感、それに何よりも、やっと苦悩から解放される…、と、そんなふうに思うことが出来るようになるんです。

先生のおっしゃった 「否定的人生観」というものがどのような意味かはわかりませんが、確かあの時、「自分で思っている自己否定と、仏教で言われている自己否定とは違います」と言われたように思います。
私が否定している私は、自己の善し・悪しの基準でもって、「悪し」と判断した部分を自分自身で糾弾しているにしか過ぎません。
「オマエのせいだ」と人から責められたり、「オマエが悪い」と人から反省を強要されたりした時に、自分の中にこれを認めることの出来ないものが少しでもあれば、その思いは苦しみになります。
そんな自分を「良し」と判断すれば、少なくとも自分で自分を責める必要はないと思います。
だけれども、そんな自分を「悪し」と判断するから、自分で自分を責めてしまうのでしょうね・・・。

では、「仏教で言われている自己の否定」というのは、何なのだろうな? と考えました。
私には小難しいことはわかりませんが、先の「自分でする自己否定」というのは、あくまで私の判断基準、その時々の自分の思いでもって、「悪しき私」というものを責めているのに対し、如来さまは、そんな私をも肯定してくださっています。 南無阿弥陀仏
たとえ世界中の人が「私」を否定しても…、自分さえも見限った「私」であっても、私の如来さまだけはそんな私を許してくださっていいます。 それなのに、私が「私」を許すことが出来ずに責めているのです。

だからと言って何でも許されているということでは決してございません。
それが、「仏教で言われている自己の否定」なのではないでしょうか。
つまり、仏さまの目から見られた「私」という物柄を教えていただき、その御教えと照らし合わせた「私」というものがどのような者であるのか、そこのところで自分の思い違いを否定されていくのが、「仏教で言われている自己の否定」 ということなのではないでしょうか。

何につけても自分の判断基準を第一に、自分の思い「我」なくして生きていくことなど出来ない不実の私が飽きもせずにやっている「自己否定」というのは、一見、自分を否定しているようでいて、その実は、自己満足への「自己肯定」でしかないのだと思います。
そんな不実な私を真実の目から御覧になって、これを教えてくださっているのが仏教です。
その真実とは真反対な「自己」を観させていただくということが、「否定的人生観」ということなのかなぁ~? なんて味わっております。  南無阿弥陀仏

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高山支部報恩講 (後編) [座談会・懇親会]

報恩講の準備もひと段落して、ちょこっと休憩したいな~ぁ・・・ なんて思っているうちに報恩講さんは始まりました。
まずは、『禮讃文』と『正信偈』と『六首引き御和讃』をあげさせていただき、続いて『御文章』をいだいたのですが、でも、まったくの他所事・・・。 阿弥陀さまも、親鸞さまも、スッポリと抜けてしまっている・・・。
勤行の後にお斎をいただきながら、「あぁ、報恩講だったわね~!」なんてやっと気付く程度です・・・。

初日の御法話は、「『正信偈』とは…」 という大枠からお話ししてくださいました。
ここは先月の輪読法座でもお聞かせいただいたところですが、『正信偈』は、親鸞さまの信仰体験の告白であり、その喜びを話すことが如来さまの御徳を褒め称える仏恩になるのだと教えていただきました。
思い返せば、縁あって浄土真宗と出遇い、最初に興味を引かれたのが『正信偈』であり、その内容が知りたいという思いから私の聞法はスタートしました。
そして去年、報恩講の世話人をさせていただきましたのをきっかけに、「御恩徳」ということが初めて自分の中で問題になってきたのであります。
それまでは、「この御恩、どうお返ししていこうか」と、恩を返すことの出来る自分だと思っておりました。
それ以前に、「如来さまの御恩徳を、いかにして深く感じることが出来るようになれるのか」と、恩を感じることの出来る自分であることを前提にして、機(私自身)の詮索ばかりをしていました。
ところが、知れてくるのは自分の欲望を満たしてくれたものに対する薄っぺらな感謝の気持ちしかない。
そして自分が受けた喜びの分量を自身の都合で推し量り、これを対価計算したものを返すことで、「この恩は返した」と自惚れるばかり・・・。
私が見聞していない所でどれほど広く深い御恩徳があったのか・・・、私の存知しない所でいかほどの手厚い御恩徳が今も働いているのか・・・、そんなこと微塵も考えたことなどありませんでしたし、まったく気付きもしませんでした。 いえ、たとえ気付いたところで、「こんな私」ではこれを御恩として感じ得ることなどなりえないのです。
ただ、人智でわかる範囲のところから教えてくださる先輩がいます。 御法のところから説き開いてくださる先生がおられます。 こうした身で聞いたところから指し示してくだされる先達方の御苦労の結果として、今、ここの私のところに届けられた御恩徳が、いかに 尊く 大きく 深いものであるか・・・、それをお聞かせていただく御縁の一つとして、報恩講さんがあるのだなぁ~ というのが私のお味わいです。

初日の法座が終わった後は、お楽しみの懇親会で、ここでも美味しいお酒やご馳走が振舞われます。
少々眠たい目をこすりながらも、深夜遅くまで ワイワイ ガヤガヤ と 凡夫まるごとをさらけ出しつつも、その話のすべてが御法になって行く不思議・・・。 すべてが仏法領のものであり、何一つとして仏さまの願いのかかっていないものはないのだと、フッとした瞬間に感じさせていただける不思議・・・。 他の命を喰らいながら、愚痴ばかりを吐き出しながら、その口から 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」と飛び出してくださったお念仏が、御恩報謝になるというのだから・・・ まったくもって不思議、不思議・・・・・・。

二日目の午前の御法座では、『正信偈』の構成について教えていただき、その日の午後は、『正信偈』の最初の二行 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」についてその御心をお聞かせいただきました。
「南無阿弥陀仏」は、「早く来い! 今すぐ来い!」との如来さまの招喚の勅命。 その命令は、上から頭ごなしにではなく、私の足元で、「お願いだから今すぐに来て!」と額を地に付け、血が滴るほどの絶叫で呼び続けてくださっている大慈悲心なのだと・・・。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

御法座の後は、S先生とTuさんと三人でイタリアンレストランにてディナータイム。
久しぶりにS先生とゆっくりお話しする機会に恵まれ、本当に何から何まで「私のため」でした。
と言うことは、御恩を恩とも存ぜぬ私が、いかに大きな御恩徳を賜っているのか・・・ ということ。
大願のもとの御苦労をほんのチョッピリ感じさせていただきながらも、報謝の心は泡のようにはじけて終わり・・・。 その報謝の念も如来さまからのいただきもので、私にあるのは高慢な自惚ればかりです。
私の迷いは果てしないな~ぁ   南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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高山支部報恩講 (前編) [座談会・懇親会]

またまたBLOGの更新が滞ってしまいました。 ここ最近ちょっと忙しくて(^^;) 嬉しい~(*^-^*)

昨日まで、二泊三日で高山支部の報恩講に参加をさせていただいていました。
御座は二日間でしたが、前日よりアレコレとお手伝いをさせていただく御縁をいただきましたおかげで、この三日間を通してホンに私一人のための御座であったと味合わせていただいております。

「報恩講」とは、阿弥陀さまの御心をあきらかにしてくださった親鸞さまの御苦労を偲び、その御恩徳に報いるために、親鸞聖人のご命日にあわせて営まれる法要で、浄土真宗では一番大切な行事とされています。
なぜかしら・・・、 私は報恩講さんがとても好きなんです。
今回の御法座は三座あり、親鸞さまが書き残してくださった『正信偈』を通して、このわが身にかけられた御恩の深きことをS先生がお話しくださいました。 (御法話については後日別記したいと思います。)

さて、報恩講さんの前日に高山入りをしてF家に到着した時には上着いらずの暖かい雨にちょっと戸惑いましたが、日が落ちてからはどんどんと気温が下がってまいりまして夜半過ぎには雪へと変わりました。
「奈ちゃんが来ると雪が降る!」との「雪女」説も板についてきた感じで、高山ではこの冬初めての積雪となったそうです。
窓の外は雪、そして暖かな室内では毎度の事ながら話は尽きず、深夜遅くまでお付き合いいただきましてありがとうございました・・・(#^.^#)
そして翌朝は、さっそく雪だるま作りです! とは言っても、わずかばかりの積雪しかありませんでしたので、30cmほどの雪だるまを三つばかり作っただけですがとても楽しかったです!

朝食の後は報恩講さんのお斎(おとき)の準備で大わらわです。
今回は、最小でも50人分を用意するとあって汁物だけでもキョエ~(^o^)丿と言うほどの量でしたが、普段見慣れない量なだけに面白かったです。 でも、手がふやけました。(^^ゞ
DSC00634.JPGお昼からは地元のお同行さんも早めに来てくださってみんなで盛り付け大会です! が・・・、盛り付け一つをとっても各々が意見を持っておられますので、その交わることのない平行線上の意見交換が、まるで漫談でもしているかのように可笑しくて楽しくお手伝いをさせていただくことが出来きました。
それに今年は13品もあったので大きなお皿にいっぱい いっぱいで、とっても豪華なお斎となりました。

この一品一品にも、その素材から工程に至るまで、私には知り得ることのない御苦労があるのです。
その御恩を恩とも思わずに、当たり前のように「私のモノ」として食ろうているのが私です。
「報恩講、報恩講」と口では言うていても、その趣旨も心に掛らず、ただ「美味い、美味い」と我欲のままに命に食らいついているのが私なんです。
私が食ろうているその命は、如来さまの御命です。
なぜ、この場所(報恩講さん)で、このお食事をいただけているのか・・・。 そんなことは理屈で考えて出せる答えではありません。
ただ、今、この私にどれほどの尊い御恩徳をかけてくださっているのかということを、ほんの一瞬、ほんの一端ではありますが、感じさせていただける不思議がとてももったいなく思います。
(つづく)
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11月 東海支部輪読会 [座談会・懇親会]

昨日は、東海支部の輪読会に初めて参加させていただきました。
支部の行事に参加するのは8ヶ月ぶりとあって、直前まで参加の有無を自分の中で推し計っていたのですが、ものの見事にランチに釣られてしまったわけであります・・・(^_^;)。

輪読は、Mo先生の書かれた 「なくなる心、なくならない心」 のお味わいを軸に進められ、参加者は19名とけっこう多かったのですが、大きな気負いもなくその場にいさせていただくことができました。

冒頭の、「後生が明るいとは、浄土の光り輝くヴィジョンが迫ってくることでもなければ、‘往生ハッキリ、往生スッキリ’ と叫べるようになることでもない」 と言う所だけでもかなりの時間を要しての談合となりました。
私の方としては、やっぱり ‘往生ハッキリ、往生スッキリ’ と叫びたいですし、そこに欲の手も伸びていきます。 でも、そんなところをどこまでも求めていっても後生は明るくなどなりません。
振り返ってみれば、往生がハッキリ・スッキリしたかしないか、自分の喜びは本物か偽者か、これは自力なのか他力なのか、そんな判断を人に求めて、自分の理想を実現化することにずっと力をそそいできましたが、そこには私の思いしかありませんでした。
輪読会でも、ご意見が腹にストンと落ちるか落ちないか、罪悪や無常を感じられるか感じられないかということを問題にいくつもの意見が飛び交いましたが、肝心なところがまるで抜けてしまっているのです。

事実は事実であり、その事実に対してトヤカク言っている「私」という本体が抜けていては仏法にはならないということを申し上げたのですが・・・。 
罪悪深重というのも、諸行無常というのも、これは事実であり、そう思えるか思えないか、感じられるか感じられないかではなく、そんなところに囚われている「私」とうヤツを問題にせずして、思いや感じのところだけを右に左にやっていたのでは、仏願の生起は聞かれないということです。
私は、自分の罪悪など聞きたくないし、その業を背負った後生など知りたくもありません。
でも、「うるさい!放っといてくれ!」などとわめいている「私」というヤツを他所に置いていては仏法になりません・・・、 「私」なくして、この私にかけられた如来さまの「願い(御心)」など、知り得るはずがありませんもの。 

私が引っかかったところは、「後生の問題を如来様に取り上げられてしまった」という箇所でした。
そもそも、後生を問題にしたことのない私の「後生の問題」を取り上げられるというのは、ど~ゆ~ことなのかしら?との疑問がわいて来たわけであります。
私のこの発言に対して、Imさんから、「僕は後生の一大事があったから仏法を求めてきた。みんプロセスは違えども、それが無いというのは・・・」と言われたのですが・・・、 私は、後生に一大事があるということも知らなければ、仏法を求めていますとの宣言の元に努力をしたこともありません。

「我」でしか聞けない私のいい訳ではありますが・・・
「後生に一大事があるよ」というのは、私は教えていただいて知ったことです。
でも、その一大事を一大事と聞けない私がいて、だから 何度も 何度も 「後生は大丈夫か?!」と、人に、自分に、問うてくださっているのではないのでしょうか。
それに、私が求めていたものは、「仏法です」とは…、恥ずかしながらとても言えないです。
私は、仏法を利用して、この世をいかに気楽に過ごせるかばかりを昔も今も追い求めています。
その為の努力といえば、お金と時間を使って法座に通い、お念仏を称え、と・・・・・ 如来さまの御手柄を全部自分の手柄にしておいて、「こんなにお願いしているのに、なんで私の願いを叶えてくれん!」 と・・・、 真逆な・・・、地獄行きの努力しかしてきていないのです。

私の引っかかりのその答えは、この文章の最後に問題提起の形で書かれてあると読ませていただきました。
「なぜ、(如来さまは)血をしたたらせてまで絶叫されずにはおられないのか」
誰がそうさせているのか・・・。 それは、この私でした。 
なぜそうさせているのか・・・。 それは、後生を一大事とも知らず、顛倒(てんどう)していることも知らず、自分の状況も知らないくせにわかったような顔をして、ず~っと ず~~~っと迷い続けて来て、これからも果てしなく生死の苦界に迷っていく私を放ってはおけないと仰る如来さまが大慈悲心を起こしてくださったからです。
その証拠が、私の称える 南無阿弥陀仏  如来さまの血の叫びである 南無阿弥陀仏 です。
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11月 浅野屋交流会 [座談会・懇親会]

ちょっと前になりますが、久しぶりに浅野屋交流会に参加させていただきました。 半年ぶりです。
「今日は、貝でいよう…」 なんて初めのうちは口を瞑っていたのですが、Imさんが登場されてからは、その言葉の一つ一つが 「自分とは違う…」 というところで引っかかってしまってどうしても言いたくなってしまい、今の私のところをアレコレと声に出させていただきました。
その喜んでいらっしゃるところの奥にある御心は? というところで、とてももったいないという気持ちになったのであります。

仏法を聞かせていただける御縁を結んでいただいたということは、それは それは 語り難いほどに尊く喜ぶべきことだと思いますし、こうした御同行との交流の場にて法水を浴びせていただけるという御法縁を、どうしようもなく嬉しく思うというのは正直なところではあります。
でも、「仏法を聞くとは?」というところに立ち返った時、はたしてそこの御縁のところで立ち止まったまま喜べるのかな~ぁ… と思ったのであります。
そもそも 「仏法を聞く」とは、本当の私の姿を聞かせていただき、そこにかけられた如来さまのご苦労を聞かせていただくことだと教えていただきました。
しかし、私の方は、それが聞きたくないのです。
己の罪悪もわからず、この世の無常もわからずに、地獄行きのタネまきばっかりをしている自分を これでもか! これでもか! と聞かされるのですからね・・・。 
仏も法もそっちのけの日暮らしの中で、「こんな私のために・・・」 と涙することなどまず無いヤツが、この私一人のために命を投げ出してくださっているという如来さまの苦労話しを聞かされるのです。
そんなの私としては、聞きたい話しでも、喜ばしい話しでもありません。
自分の苦労話はみんなに聞いていただきたいが、逆の立場で他者の苦労話や、ましてや私の為に御苦労をしてくださっている方の話しを聞かされるなどという、そんな御縁を結んでいただくのですからね~ぇ、 まったく迷惑千万でしかありません。

でも私は思うのです。 ホンの断片的な 小さな 小さな一片であっても、本当の自分の姿を観させていただくって ものスゴイことだなぁ~って。
自分でも吐き気のするような卑劣でおぞましい我が身、我が心なんて見たくも聞きたくもないのが私ですから、「そうそう、私はこんなに悪いヤツなのよ! 極重悪人なの!」 だなんて素直に聞けるはずがないんです。
そんなヤツなのに、「私って、こんなに醜いんだ…、恐ろしいんだ…」って 一瞬でも見ることが出来るだなんて、それってやっぱりものスゴイことだと思うのです。

でも私は、ずっと ず~っと、これに 逆らい 逆らい続けてきました。 こんな自分を観せられるたびに、これを私に見せつけているヤツ(如来さま)にたて突いて、「なんで私を苦しめる! どうしておまえは私を不幸に陥れるのか!」 って憎み続けてきました。 「仏法なんかと出遇わせやがって!!」 と、そんな真の自分を観させていただく御縁など、喜ぶべきどころか、私にしてみたらこれほど迷惑なことはない! と、如来さまを恨み続けてきたのです。

でも、そんな私がチラッとでもお経に言われている自分を、「は~ぁ~、そうかい! 私はそんな悪人だったんかい!」 と 受けることが出来た時、同時に、「そやったら、如来さん、さぞ御苦労をなさったのだろうな~ぁ~」 というのが出て来たのです。
私は、如来さまの御苦労がわかるような輩ではまったくありません。 なんぼ自惚れ強い私でも、「私は如来さの御苦労を知っているのよ~!」などとはとても言えませんが、でも、「こんな私」 というヤツを、縁にふれ折にふれて観させていただくたびに、「そ~だったんだ、 あぁ、そうだったのだ~」 と聞かせていただき、そこで如来さまの御苦労と遇わせていただいた上に、そこのところで ヌフッ という喜びまでいただける。
バカでアホでダメダメな私を観せられるほど、それが黒ければ黒いほど、深ければ深いほどにそこにかけられた願いの大きさを知らされ、そこでさらに 大バカで大アホで全然ダメダメな私を知らされるんです。
そんな自分を知らされて、イェ~ィ(^◇^)v という喜びや、ありがたや ありがたや という殊勝な心が出てくるわけではありませんが、ただ、こんなにも苦堕落な自分を観させていただけるというのは、めっちゃめちゃにスゴイことだと思うのです。

御縁のところでは喜べないということでも、喜んではいけないということでもなくて、そういったご縁のところで、今こうして現に働いてくださっている如来さまを感じさせていただけているという事実の上に、これまでおかけした御苦労を垣間見させていただき、それが全部この私一人のためだったと知らされたら、嬉しく思うよりも申し訳なかったという思いの方が先に湧き上がってまいります。
「今まで何も知らなんだ・・・・・」
今だって私が如来さまにかけてきた御苦労など霞ほどにもわかっちゃいませんが、ただ、「御縁ありがたや~」と言っていた私に、「そんなもんやないでー!!」と叱咤してくださった先輩お同行さんのお言葉が、ほんのちょっぴり身に染みてきたのであります。 南無阿弥陀仏
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6月 浅野屋交流会 [座談会・懇親会]

昆虫はとても苦手ですが、蜘蛛が巣を作っているのを見ているのは面白いものです。
今、書斎のデスクから見える窓の軒先で一匹の蜘蛛が巣作りをしているのですが、そのこが可笑しいほどに不器用で、時々足を踏み外しながら一生懸命にマイホームをこしらえている姿は、なんとも微笑ましいものであります。

そう言えば、先月の浅野屋交流会では、虫の話題で盛り上がりました。(^-^ゞ
きっかけは、「こころ」について語っていた時、「本能」と「脳」と「心」って・・・? という疑問からでした。

仏法を聞かせていただき知らされるのは、 「私(我)」ばかり! ということ。
「君は、自分の気持ちばかりじゃないか!」 、「君は、自分の思いばかりに囚われている!」
この一年、 いつも いつも 言われ続けてきた言葉・・・。 
そして私は、そんな自分を ず~っと責め続けてきました。  自分の気持ちは捨てなくっちゃいけない! 自分の思いが出てきてもそれを言葉に出してはいけない! 私は、「私(我)」ばかりだからダメなんだ! と・・・、 自分の心が動いて、それに囚われて行く自分自身を、私は責め続けてきました。
でも ある時、そんな自分に苦しくて仕方がなかった時にKnさんがくださったメールには、
「それが 「奈っちゃんだよ」 と教えてくれているのが阿弥陀様だよ。
阿弥陀様の声をまったく聞かないのが「私」。 聞かん奴に聞かすのが阿弥陀様の仕事(お力)。」
と教えていただいて、「あぁ、どんな私であっても私は私。 「私(我)ばかりの私」と教えてくださっているのも如来さまの御力で、「私(我)ばかりの私」だからこその御本願なのね。
でも、私は「私(我)」で充満しているから如来さまの御心の入る隙間がなくって・・・。 そうかと言って自分の心の隙間を空けることなど出来ない私だから、こんな私のまんま丸ごとスッポリと包み込んでくださっているのね・・・」
そう受けた時から、私から出てくるモノは「私の思い」しかないのは当然のことで、そんな自分本位の私の思い、その一つ一つにめがけて如来さまの御心がかかっている・・・。 それを聞けるような私じゃないのに、時折 フッと 私のものではない御心に触れさせいただける不思議・・・。
こうして止めどもなく溢れ出てくる「私の思い」こそが迷いそのもので、そこにかけられた如来さまの願い・御苦労を聞かせていただくのね・・・ と。 
それ以降は、自分から出てくる様々な「思い」に嫌悪することはあっても、「思ってはいけないんだ」とか、「思うからダメなんだ」と、自分を責めることは止めにしました。

それでも、「本当に私の心って厄介モノだわ~!」 との愚痴の中から、 ところで、「心」ってどこにあるの? 「脳」と「心」は同じなの? 「本能」に「心」は伴わないの? などの疑問が湧き出して来ちゃったので、Dr.Fさんにお聞きしてみたわけであります。
そこで、「脳は、脊椎動物固有のものだけど、無脊椎動物にも同じような機能をもつ神経節があって、でも、「心」が「脳」にあるかという問題は、まだ解明されていない」と教えていただき、「本能」と「心」については、昆虫を例にして医学的な見地からお話しくださいました。
が・・・・・、 すっごく興味深くて面白いお話だったのだけど、もう一ヶ月も前のことなので、ほとんど忘れちゃいました~ (^.^ゞ
一つだけ覚えているのは、多数体で行動する蟻や蜂などは、その一つの集団をもって一個体とする考え方があるのだそうです。
蟻一匹にも「脳」はありますが、「生きたい」という本能はあっても一匹で生きて行くことは出来ません。
集団を一つの個体として考えた時、蟻一匹が単純な神経細胞であり、それが多数集まることによって「生きる」という営みができるのだとお話しくださったことだけは、なんだかとても印象に残っています。

さてさて、今回も美味しいお料理をいただきました。 どうもごちそうさまでした。[るんるん]
6.18 浅野屋交流会.JPG

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整えられて「聞く」御縁 [座談会・懇親会]

話しは前後しますが、京都での御法縁をいただいて Nrさんのお家でミニ座談会をしていただきました。
その御縁は、まさに 「私一人がお目当て!」 
でも、その「私」とは、どのような私なのか・・・、 これを聞かせていただき、 その「私」一人にかけられた願いを聞かせていただく。
今まで、二年近い時間を費やして、私はいったい何を聞いていたのでしょうか・・・・・・・
まったく、呆れるほど何も聞けてはいませんでした。
自分にとって都合の悪い、聞きたくない所はスルーして、 自分にとって都合のよい所ばかりを取り込んできた… と思っていましたが、そんな一時的な宝物でさえも見失っている私を観させていただきました。

Nrさんが作ってくださった夕食のカレーライスをいただきながらTNさんとおしゃべり。
「奈っちゃん、“ 聞く ” って、何を聞かせてもらうの?」  TNさんのその問いに、答えたくない私がいました。
正解を言葉にしたところでど~なる! という思いと、 「地獄一定」という言葉を口にしたくない! という思いと、 わかるはずもない…、聞けるはずもない… そんな御心を言葉には出来ない! という思いと、 複雑に絡み合った私の思いが邪魔をして口を重くし、 ただ一言、「きれいごとじゃない・・・・・」 とだけ答えました。

仏法を聞くって、楽しいことでも、有り難いことでもありません。
むしろ、聞きたくないことばかり聞かされるし、ときに有り難がっている自分を嫌悪すらします。
それなのに、私は、なぜにわざわざ京都くんだりまでやって来たのでしょうか・・・・・
それを考えると、恐ろしいほどにたくさんの御因縁と、想像をはるかに超えた御力によって、私は、今、ここに座らせていただいているのだなぁ~と・・・、 それも、さも自分の意志や力でここまで来たのだという横柄極まりない態度で座っているのですからね・・・、 果てしなく馬鹿な私です。 恥知らずの大馬鹿者です。
そんなバカな私が、「今夜は帰らない!」 と ここで宣言したのも、私の成せる業ではありませんね・・・。

輪読会の日程が、明日に変更になっていたことをこの日に知って、「出たいけれど 出たくない・・・、 でも、せっかく京都に来たのだから泊まって行こうか 帰ろうか・・・」 そんな自己問答を昼間から ず~っと 自分の中で繰り返していたのですが、もう帰らないといけない時間になって、ついうっかりとこの口が、「明日の輪読会に出たい!」と、本心ではない宣言をしてしまいました。
Nrさんが、「家に泊まっていけばいいよ」と言ってくださったのですが、これに甘えることの出来ない私がいて・・・、 それに、「宿が取れなければ帰る!」との逃げ出す口実を捨て切れなかったこともあって、 とりあえずは家に外泊許可の電話を入れると、「お泊りOK!」と即答され、 それでいつものHOTELに電話をしてみたら、「一部屋だけ空いている」と、有り難くも不都合な返事をいただき・・・、 結局、私の気持ちを無視してすべての御縁が整い、翌日の輪読会に出席する手筈が整ったわけであります。

この後、「そ~と決まれば カラオケに行こう!!」 と・・・?! 私の理解を超えた展開になって・・・、 そこに、タイミングを見計らったかのようにSgさんが帰宅をされ、おまけにパチンコで勝ったとのことでおこづかいまでカンパしていただき、みんなでカラオケBOXへ、Let’s Go !

半年ぶりのカラオケで一皮脱いだ後は、コンビニでお泊りセットを購入し、少し疲れてHOTELに IN !
この日の御法縁は、楽しかったというよりも、自分の殻を内側から割った少々厳しいものでありましたが、 「ここまで用意されて、文句を言うな!」 という自身の叱責に、少し嬉しい気持ちになって、ぐっすりと眠ることが出来ました。
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聞きやすい場所 [座談会・懇親会]

先週末の金曜日、久しぶりに京都へ行ってまいりました。
しばらく御法座から遠ざかっている私を心配してお電話をくださったNrさんから 「遊びにおいでよ!」 と誘っていただき、そのお気持に甘えさせていただきました。
Nrさんは、言うなれば「京都のお母さん」といった存在の方で、私が緊張の中、初めて参加した本部行事の時から ず~~~っと 親身に関わってくださった方です。

そのお電話をくださったのは、ちょうど高山へ出かける前々日で、私自身、グレーな緊張感に包まれている最中でしたが、Nrさんのチャキチャキとした明るさに背中を押され、またその直後にお電話でお話しくださった 「高山の第二の母」といった存在のETさんより手を引っ張られて、高山法座の場へと 押し出され 引き出されて 参加させていただくことが出来ました。
本当に、如来さまのあたたかくも強い執念を、ものすごくわかりやすい形で見せていただき、これに相反している私というものも同時に観させていただきました。
高山ではリハビリもほぼ完了して、そこで自分のなりに問題点と出会わせていただき、これを持って 今回 京都に出かけたわけでありますが・・・・・、

京都には10時少し前に着いてNrさんのお家へと向かいました。 それこそ久しぶりです。
「午後からは京都支部の面々も来るから!」と、他の方々も呼んでくださったとのことですが、午前中は二人きりで、いつも以上に内も外も普段着のNrさんにつられて、私も重いコートを1枚、2枚と脱いでいくことが出来たように思います。

Launchは、ご近所の喫茶店でごちそうになったのですが、そこで、「スープは、セルフサービスで、お一人様一杯まで無料」 と言われて、「ほな、山盛り注がな損やなぁ~!」 と 恥も外聞もなくカップ満タンにスープを注ぎ、「えげつないなぁ~!」 と口にしながらも、内も外も我欲だけの私で、御法をおかずに如来さまの御命をいただきました。

お昼からは、一人、二人・・・と 御法友が参加してくださって、Nrさんの提案で、「奈っちゃんの人生を語る会」 なるものをセッティングしてくださいました。
そこで、ポツリ ポツリ と 過去の私を言葉にしていく内に、改めて、「私の人生は、何のため?」 という大きなテーマと向き合わせていただいたように思います。
そしてもう一つ知らされたのは、近頃、皆さんがよく言ってくださる、「自分に聞きやすい場所で聞いて行けばいいよ!」 という言葉に、「?(ハテナ)」がついたことでした。

「自分に聞きやすい場所」 と言われて、私は、どのような「場所」が聞きやすいのかと、「場所」にこだわっていましたが、フッと、「何を聞くための場所?」 という、肝心な 「聞く」 ということが抜けていたことにハタと気が付きました。
「聞きやすい場所」と言われて、「今生事に引っ張られずに、御法と向き合える場所」と、ただ漠然とそう思っていたのですが、「何を聞くための場所なのか」と考えた時、 あぁ・・・、私は何を勘違いしていたのか! と・・・・・。
私が聞かなきゃならないのは たった一つ、仏さまの鏡に映し出された私自身です。 そこの私にかけられた たった一つの願いを、この身で聞かせていただくことです。
その場所を、自分の都合や思案で あ~だ こ~だ とはからっていること自体が迷いそのもの。

私は自分の人生を語りながら、頭の隅っこの方で、 先輩方が、「自分に聞きやすい場所で聞いていけばいいよ!」と言ってくださったのは、 ドレスアップして我を見失うほど緊張してしまうような場所ではなく、今、こうやっておしゃべりが出来ているように、普段着のままの私でいられる場所、 時には丸裸になって自分をさらけ出せるような場所で、 そのまんまの私を 「なんまんだぶつ」 と言って受け取ってくださる、そんな場所のことを言っておられるのかなぁ~ と思いながらお話させていただきました。

でも・・・、「ダメな私」を喜んで聞いてくださる仲間がいるって、スゴイことです!
「ダメな私」のままでいさせてくれる場所があるって、本当にありえないほどスゴイことです!!
それが、全部、私一人のために用意してくださっているのですから!!!  南無阿弥陀仏
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高山支部法座 にて [座談会・懇親会]

初夏らしからぬ肌寒い日が続いていますが、今日からは衣替え、早くも六月になりました。
先週末、一ヵ月半ぶりの高山訪問と、同じく一ヵ月半ぶりに御法座へ出席しました。
出かける前と帰宅した後とでは、まるで衣替えでもしたかのように、何か一枚上着を脱いだ気分です。

先週初頭、会うべきではなかった人と会ってしまい・・・、また憂鬱な時間に埋没する羽目に・・・。 
まったく・・・、 自行自得です。
 「 「今」 が、 書けないのです・・・・・    「私」 が、 書けないのです・・・・・ 」
この一行から先の言葉が浮かばずに、BLOGを更新することも出来なくなっていた中、 少しでも気分転換になれば・・・、 と言うよりも、その週末にある御法座に出席する為の自身への口実として、予定よりも一日早く高山入りをし、気晴らし旅 & プチ座談で御法に向かおうというで前泊することになりました。

当日、高山へ向かうバスの中では、翌日からの御法座に対して、ひどく後ろ向きに逃げ出したい気持ちでいっぱいになったり・・・、また反対に御法にすがり付きたい気持ちになったり・・・、やはり、「今」も、「私」も、見失ったままの自分を、無理に元気づけているようなところがありました。
でも、バスが高山駅に到着して降りる時のこと、 同乗していた見知らぬ夫人に呼び止められ、
「あなた、バスの中で ず~っと笑っていらしたわね」 と 声をかけられ、 
「すみません、うるさかったですか?」 と 私が謝ると、
「いえ いえ、 あなたの笑い声と笑顔で、楽しい気持ちをいただきました。 どうもありがとう」 と言ってくださいました。
それが、すごく嬉しかったのです。 自然に笑えるようになった自分にも嬉しかったですし、私が私らしくいるだけで、「ありがとう」と言ってくださる方がいることに、すごく嬉しかったのです。

旅BLOGについては、後日、改めて記すことにしますが、初日のプチ観光を終えて夜の懇親会では、久しぶりにラフな気持ちで、自分の思うところをたくさん言葉にすることが出来たように思います。
そして、いくつかのアドバイスをいただく中に、ひとつ ひとつ 自分なりの答えを見つけ出して、ポチポチとではあますが、「今」 の 「私」 を 認識することが出来るまでになりました。
「奈っちゃんは、お酒を飲んで酔っ払っているくらいがちょうどいい」 と よく言われるのですが、この日の夜も 美味しいお酒と、人の優しさと、何よりも大きな御法をいただきながら、束縛のない場所で、自由な気持ちのままにお念仏に触れさせていただいたように思います。

翌日、御法座当日の朝は、思っていたよりもスッキリとした気持ちで迎えることが出来ました。
そしてこの日もプチ観光を楽しんで、夕刻には久しぶりにS先生との再会。 駅でお待ちしている間はドキドキとしていましたが、先生のお顔を見た瞬間にそれも吹っ飛んで、「よぅ 来たな!」 の一言が、やっぱりすごく嬉しかったです。

御法話BLOGは別記するとして、今回もいつもと変わりなく… 、 いえ、それ以上に、高山支部のみなさまの深く温かいお心に支えられて、久しぶりの御法座に気負うことなく法水の中にどっぷりと浸けていただきました。
今回、「念仏者は無碍の一道」 を自分自身のテーマに掲げてこの御座に臨んだのですが、所々で そのお心にふれさせていただき、「何を聞かせていただくのか」 というところを確認させていただけたように思います。

「他の誰でもない、この私が聞かせていただくんだ!」 というところを、改めて聞かせていただきました。
帰りのバスの車中では、そんな思いで、「今」の 「私」を言葉にしながら、自分自身に、「今」の 「私」にかけられた如来さまの御心を聞かせていただきました。
もったいないです・・・・・、  数々の御縁をいただきながらも、自身のちっぽけな感情一つで、如来さまの御心を平気で踏みにじりながら、「この私を救わずにはおれん!」との願いのこもった ‘ 南無阿弥陀仏 ’ を この口から出させていただけるなんて。 もったいないです・・・・・。  南無阿弥陀仏
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どんな時にお念仏を称えていますか? [座談会・懇親会]

三月の輪読会では、『不断煩悩の救い』を通して、そのお味わいを分かち合いました。
しかし、もう一ヶ月も前のことなので、記憶に残っているものは二つ三つ程度しかありません(^-^;

その紙上法話についてのお味わいではなく、今、思うところのお味わいなのですが・・・、
ある座談会の場で I さんが、「どんな気持ちでお念仏をされているのですか?」と質問をされたそうです。
この問いにFさんが、「お念仏は御恩報謝の気持ちで称えています」 と答えられたのだそうですが、そのFさんの回答に対して疑問を抱かれたNrさん・・・、 「ほんまに ‘有り難い’ と思っとるんか?」 と つぶやかれたそうです。
そのつぶやきを耳にしたFさんは、これに腹を立てながらもその場ではNrさんに対して何も言えず、後日、Nrさんに電話をしてその真意を尋ねられた結果、自身の間違えに納得をされたとのお話しをなされ、それが一番心に残っています。

Nrさんのそのつぶやき・・・、 私は、とても共感できました。
「あぁ 有り難い」とお念仏を称えておられる人… 、 「感謝の念を込めて」とお念仏を称えておられる人…、 そんな人たちに違和感を覚えてしまう私がいたから、Nrさんのつぶやきは、私のつぶやきでもありました。

Fさんが、どのように納得されたのかはわかりませんでしたが、私自身のところで言えば、「私には、‘感謝の念’ など微塵も起こってこない」 ということ・・・。  ましてや、「何に対して感謝をすればよいのかわかっていない」 ということ・・・。

教えていただいた知識では、「お念仏のお救いに遇わせていただいたことへの御恩報謝に‘南無阿弥陀仏’のお念仏を!」、 「地獄一定のままで往生一定の身にさせていただいた‘南無阿弥陀仏’さまに御恩報謝のお念仏を!」 などと言葉を変えていろいろと出てはまいりますが、実際の自分自身の内を観た時、 「私は、いつまでたってもお念仏が好きになれないし・・・、  お念仏の功徳など何度聞いても馬の耳に念仏・・・、  ましてや‘南無阿弥陀仏’となってくださった如来さまのご苦労などまるで他人事にしか思っていない・・・、  それどころか、この私の煩悩が望んでいない ‘ 真実信心 ’ だの、 ‘ 後生の解決 ’ なるものを廻向してくださったと言われても、どうしてそんな訳のわからないことに感謝など出来ようものか!」 という ‘ 思い ’ しかありません・・・。

しかし、そんな私の ‘ 思い ’ などとはまったく無関係なところで、遠い 遠い 過去世より、今現在の今時この時も、絶え間なく働き続けてくださっている不可思議なる御力によって、ほんの時々 ほんのちょっとだけ ‘南無阿弥陀仏’を感じさせていただけることがあり、 そんな時にだけお念仏をこの私の口から出させていただき、私の‘南無阿弥陀仏’さまと出遇わせていただいています。

そしてそこで知らされるのは、 「如来さまの御恩徳に感謝しなければならないと聞かされていながら、ホンに私は感謝の出来ない自分だなぁ・・・・・  こんな私に向かって、「よく聞いてくれたね、有り難う! 有り難う!」と、如来さまの方が感謝をしてくださっている・・・・・  全部が全部、如来さま任せ! 感謝の念までも如来さま任せ! 私は、なんにもしていない・・・、 なに一つとしてまともなことの出来ない私なのです・・・・・・」

S先生が、 「みなさんは、どんな時にお念仏を称えておられますか?」 との質問をされました。
ある方は、「有り難いご縁をいただいた時」と答えられ、ある方は、「情けない自分を聞かせていただいた時」と答えられました。
この問いにNrさんは、「御縁を喜ぶ時よりも、極悪人の自分を観させていただいた時。 つまり、御法座などの場で、聞かせていただいたことに感動して涙を流しているような自分よりも、サッパリしらけて御法など微塵も興味を持っていない自分を観させていただいた時にこそお念仏と出遇わせていただける」 とおっしゃられ、 あぁ… なるほどなぁ~ といただきました。

私は、この場では言葉に出すことが出来ませんでしたが、 私自身、如来さまからの呼び声が届いた時にだけ お念仏を口に出させていただいているなぁ~ と 思いました。
普段の生活の中では、仏も 法も お念仏もない私ですが、フッとした瞬間に ‘南無阿弥陀仏’ と思いだすことがあります。 
それは、様々な御縁・如来さまの御働きを通じて、常念仏の如来さまの御心に触れさせていただけたその一瞬で、 この時、この私が何と思おうとも関係なく ‘南無阿弥陀仏’ と称えさせていただくしかないなぁ~ と・・・、 私はそんな感じで称えています。

S先生がおっしゃられた 「お念仏自体が御恩報謝です」 というお言葉が、とても心地よく心に残っています。    南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

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本当の私にかけられた願い [座談会・懇親会]

続きですが…、 YTさんとのお食事会にて仏法談話を交わすなかで、 もう一つ、 これも 聞法を始めた私が一番初めに引っかかったところのお話しが出されました。
前回のお食事会の時にもお話しした、 「ほんとうの わたし」 と出会う、というところです。

私も彼も似たような境遇の中で、自分を守るために、自分さえも騙して生きてきました。
そうしなければ、私は今日まで生きては来られませんでした。
「私は幸せと思いたい」・・・、 ではなく、 「私は幸せです」 と言い切ることに何の疑問も持たなかった私でした。

私の中には、高性能な 自動分別装置 があって、自分にとって不都合なことは無意識の内に闇のBOXへとしまい込み、その入り口さえもわからないように上から砂をかぶせてしまいます。
しかし これに失敗すると、今度は 超高性能な 自動修復装置 が作動して、壊れた心を即座に、自分に都合のよいように補修するのです。
聞法を始めた時、その闇のBOXの存在を指摘され、その蓋を開けるように指摘されて、私は必死になってそれを拒絶したのですが、いつしか闇のBOXの存在を否定することが出来なくなってしまいました。
でも、その蓋を開けることなど出来ませんでした。 怖くて、怖くて・・・  闇のBOXの存在は認めたとしても、その存在自体を懸命に拒否し続けることしか出来ませんでした。

しかし、それをどんなに否定しようとも、拒絶しようとも、既に阿弥陀さまのお手の中・・・・・
縁あるごとに そのBOXの前に立たされ、強制的に向き合わされる。
そのお力の前には、私の自動分別装置も、自動修復装置も なす術がなく、何の力にもなりませんでした。

古い、古い、セピア色の映像が巻き戻るように見えてきたものは、 甲斐甲斐しく私を護る私がいて・・・、 そこで護られている私は、ただ孤独にうずくまって泣いていました・・・・・
でも、 護る私も、護られている私も、どちらの私も私であり、 どちらの私も孤独なのです・・・。
不安で…、寂しくて…、悲しくて…、 そんな自分を見つけた時に、そっと包んでくださるあたたかな光にふれたような気がしました。
ひとり孤独に泣いている私と、一緒なって泣いてくださる方がいる。
ひとり強がって抵抗している私に、「大丈夫だよ、もう、独りで頑張らなくてもいいよ」と言ってくださる方がいる。
そこには、そのままの私を愛してくださる方がいました。

見たくも 知りたくもない私・・・、 決して認めたくない私・・・、 寂しくて孤独に泣いている私・・・、 そんな私を大きな愛で包んでくださっているほんとうの親さまは、
「自らが造った ‘業’ とは言え、 寂しい思いをさせてゴメンネ、 辛い思いをさせてゴメンネ。
わたしの力が足りないばっかりに、 あなたに悲しい思いをさせてゴメンネ、 苦しい思いをさせてゴメンネ。」
って、泣いて謝ってくださっていたのです。 こんな私に頭を下げて、「ゴメンネ、ゴメンネ」って・・・・・。
親さまを泣かせいているのは、他でもないこの私自身なのに・・・・・。
それなのに、何一つ咎めることなく、無償の愛で包んでくださり、
「もう大丈夫だよ。  わたしがあなたを護るから! 
わたしは、いつでも、どんな時でも、いつまでも ずっとずっと一緒にいるから! ‘南無阿弥陀仏’となって一緒にいるから!!
だから、思い出した時だけでいいから、‘南無阿弥陀仏’と称えておくれ。
どんな心でもいいから、ただ‘南無阿弥陀仏’と称えておくれ。」 

これを聞かせていただいても、ただ泣くことしか出来ない私です。 痛む自身の心に依存することしか出来ない私なのです。
でも、そんな私だから ‘南無阿弥陀仏’となって成就してくださり、 私に届けてくださったのです。

「‘南無阿弥陀仏’と称えておくれ」 その願いを聞くことだけが、唯一、私のお仕事なのです。
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いま、ここの、わたし [座談会・懇親会]

仏法讃談(?)しましょ[るんるん] ということで、YTさんにお誘いをいただいて、お食事デートにお出かけしました。[黒ハート]
う~ん…  確かに御法のお話しを、いっぱい いっぱい あちらこちらに 飛びながら 戻りながらの おしゃべりをさせていただいたのですが、いったい何をお話しして、何をお聞かせいただいたのか・・・、 さて はて、 あまり覚えていません…。
でも、食べたものだけは 結構 しっかりと 覚えています!  ホント…、 こんなものでしかないのですね・・・・・。

連れて行ってくださったお店は [和咲日(わさび)]という小料理屋さんで、YTさん、大切なお仕事をそっちのけに、仏法談話できるお店を…、 と 探してくださったそうですが、結局は、仏法よりも お酒とお料理の美味しそうなお店をチョイスされたとのこと…、(^-^;  そのおかげさまで、とっても 美味しく 楽しく お話しをすることができました。

3545170

ということで、お料理のお話しは写真を参考にしていただいて、[猫] 共感できたところ、何となく覚えているところを、ここに少しだけ書き留めておこうと思います。

聞法で、「いま、ここの、わたし」 と言われるところの、「いま」がわからない、というお話しをいただき、 あぁ~、私も同じ穴にハマったなぁ~ と、振り返るきっかけをいただきました。 
「今」って言っているうちに 「今」は過去のものとなり、そうかといって未来にも「今」はなく、 「今」って、「今」という点の連続のように、また一本の線のように止めどもなくて、 アッ!とも イッ!とも 言う間もなく流れて行ってしまいます。
「いま、ここで聞かせてもらう!」 と言われて、「今」を探すことに一生懸命になってしまったり、「今」と言われた「今」が通り過ぎてしまい、そんな過ぎ去った「今」に、「あぁ、ダメだった・・・」などと過去の「今」に落ち込んだりして…、 結局、ほんとうの「今」が抜けてしまって、 いったい何を聞きに来たのだか・・・ と、 まったく見当違いの私がそこにいました。

「今」を探したところで何ともなりません。 
「今」は、「今」なんです。  コロコロと変化し続けている「今」が、「今」なのです。
その、常に移り変わっていく私の心をありのままに捉えていくと、動いて行く「今」の中に「私」を発見することが出来て、その「私」を 深く、細かく捉えていくと、「今」、お聞かせいただいている「御法とはそぐわない私」でありながら、「御法に説かれているそのままの私」を垣間見ることができます。
その「私」…、 仏智に照らされ観させていただいた この「私」の上に、阿弥陀さまの願いを思うと、そこでお念仏が出てきてくださり、 「いま、ここの、わたし」に届けてくださった その‘南無阿弥陀仏’を聞かせていただける。

「いま、ここのわたしが聞かせていただく」とは、 「いま」を探すことでも、 「いま」にこだわって 過去や未来を気にかけることでも、 また、「ここのわたし」だけを問うことでもなく、 「いま」、動いている 「ここのわたし」の中に、阿弥陀さまのお心を問うことだと思うのです。

ただこれは、あくまでも私の受けているところでのお話しですので、正解とか、方法論というものではありません。
少し長くなりそうなので、お食事会の続きのお話しは、テーマを変えて 次回のBLOGにて書こうと思います。
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「余命一ヶ月」と言われたら…? [座談会・懇親会]

今回の支部法座には、定例のメンバー、特にお世話係をかって出てくださる方々が欠席されていたので裏方のお仕事の方が大忙しでした。 他の支部ですと、みんなで協力し合って会場設営からお茶出し、そして後片づけまでするのですが、当支部はどなたもお客さまになっています。
以前、これを声に出していろいろな方々に協力を仰いだのですが、諸先輩方にそれを指摘されたことがありましたので、今はなかなか声も出しづらくて・・・。
ですので、新しく参加をされた方々や、メール・電話をくださっている方々、お久しぶりの方々などとお話しをしたかったのですが、先にも 後にも 全くその時間が取れずに…、 ただ忙しいだけで終わってしまったような感があります。

御法座の後にはいつものように懇親会を企画しましたが、後片付けの方が忙しくて、多くの方に声をかけることが出来ませんでした。 前に立って大きな声で呼びかければよいのでしょうが、立場上、それもなかなか難しいものがあります。
お誘いした方の中に、懇親会に参加するメンバーの面々を聞かれてから、「それなら、やめる」 と言って 帰って行かれた方があり、その対応にとても残念なものを感じました。 また同時に 「迷い」そのもののだなぁ、というすがたを観せていただきました。

懇親会では、YMさんが、先日参加された研修会のことを少しお話ししてくださり、それに合わせて、最近の私の心境などを聞いてくださいましたが、他の方々もいらしたので、表面上のところでしかお話しすることが出来ませんでした。 でも、「奈っちゃん、モノ(物)にならんでもええで~」と言ってくださったこと、嬉しかったです。

そのあとは、今日の御法話のお味わいを、気のおける仲間たちと存分に出し合うことが出来たように思います。
前半の話題は、「大切にしていない命、 恐ろしい命」 というところでしたが、お肉やお魚などの他の命を食しながら、また、コッテリ系・油もの・塩ものなどの身体に良くないものを食しながらの仏法談話に、「ほんまやな~ぁ…、 仏説まことやな~ぁ…、 仏さんから頂戴した命かぁ~・・・」 と言いながらも、「わたしら全然わかっていないね~!」 というところに、ノホホンとふんぞり返っている私を観させていただきました。

それから、 「余命一ヶ月だとしたら、あなたは何をしたいですか?」 というテーマに、御法座の席では言えなかったことなどを互いに言葉にし合ううちに、新たな思いや心の動きが出てきました。

たとえば、御法座の場で最初にこの問いかけを受けた時から、私には、「一ヶ月」と言われた言葉が抜けていたように思います。
「いつかはわからないけど訪れるであろう‘死’を前に しておきたいことは何ですか?」 と 自分に聞いて出てきた答えが、世界旅行だとか、挨拶まわりなどであり、「一ヶ月」と問われたところには、‘無常’を感じるどころか、果てしなく先の方に ‘来るかもしれない’ 死期を思い描いて考えていたことに気が付きました。

「余命一カ月となったら、いよいよ後生の解決を急がねば!!」 とお答えになった方々に、「余裕があり過ぎ! 余命一カ月と聞いて仏法を聞かんならんというのは、自分勝手な都合でしかない!  安心して死にたいということでしょ?!」 と ご指摘くださった先生のお言葉に、ほんとうに自分のことしかかんがえていないなぁ~・・・、 それに、まったく‘無常’の抜けている、どこどこまで行っても御法に寄り添わない私だなぁ~ と・・・・・
「なぜに後生を解決したいのか?」 と 我が身に問えば、 知った ・ 聞いた の知識の上に見せていただいた自分の罪業で堕ちて行かねばならない世界には、何が何でも行きたくない!! 「私の造った罪を引き受けてくださるというのが仏さまのお仕事でしょ! だったら早く責任とってよ! あと一ヶ月しかないのだから早く私の後生を解決してよ!」 と、我が身知らずの、自己中心的な私が騒ぎ立てているように思いました。

今日の懇親会はかなり遅い時間まで仏法談話に花が咲き(?)、その帰り道、人もまばらになった列車の中で思ったのですが、 「余命」というものを、ほんとうに聞き入れることが出来たならば、 「死ぬのが怖くて何も考えられない、手に付かないでしょう…」、 「何をしたって楽しめないでしょう…」、 ましてや、「人のため、たとえ親のためであったとしても、自分の限りある命の時間を費やして、何かをしてあげようなどという気持にはなれないでしょう…」 と 思いました。
要は、「私は死ぬとは思えない」から、悠長に、親孝行だ、挨拶まわりだ、旅行だ、などとほざいておれるのです。

ほんとうに 「私が死ぬ!」 ということが自身に知れたならば、何が出てくるかわからない私・・・!
そんな恐ろしいこの命を、「哀れだ、助けてやりたい」と願いをかけてくださった方がいてくださるのだなぁ~、 そのおすがたが‘南無阿弥陀仏’なのだなぁ~、 とのお味わいを胸に深夜近くの帰宅となりました。
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2月の輪読法座 [座談会・懇親会]

「行かなきゃ~・・・・・」  でも、 着て行く服が決まらない・・・、  遅刻するくらいなら行かない方がいい・・・、  このまま辞めちゃった方が楽になれる・・・、  そんな言い訳の数々を、 自らに課した 「いただいた御法縁の ひとつ ひとつを、大切に引き打受けて行く」という ゆるゆるの誓いが 何とか制し勝って、京都行きの列車に乗ることが出来ました。
今日の御法縁を、自分に負けて握り潰すようなことをしたら、私はきっとこの先、ず~っと逃げっぱなしになっちゃう…、  でも、そうはなりたくない…! という気持ちが、私の中にしっかりと生きていたように思います。

駅で、仏法とは無関係の友人とバッタリ出会いました。
その友達を見かけた瞬間から元気に手をふっている自分に驚き…、 また、友人とすご~く明るく会話をしている自分にも驚き…、 でも、そんな私をつめたく冷やかに傍観している自分がいることにも驚きました。 「私…、 嘘の塊・・・?」
友人と別れてからの私は、いったい何を考えていたのでしょう…、 思い出せません…。 本をひざの上に置いたまま、消え去ってしまうような妄想の世界にドップリと浸かっていました。

京都駅でNOちゃんと会い一緒に会館へ向かったのですが、今度は、先ほどと違って全然しゃべることが出来ないのです…。  会館に着いてからもYKさんの隣に座ったものの、私の方から話す言葉が全然見つかりませんでした…。
「やっぱり 私…、 しゃべれない?・・・  何しに来たの?・・・  ここにいてもいいの?・・・」 
そんな時でした。 S先生が、私の肩にそっと手をふれて、「よう来たなぁ、よう来てくれたなぁ~」と声をかけてくださり、それで緊張の糸が一気にほぐれて、「私…、S先生の前では、頑張らなくてもいいんだ…」って思ったら、ホッとして、嬉しくて、隣にいてくださることにすごく安心することができました。

今日は輪読会でしたが、文中からも、そして先生やお同行さん方の言葉を通して、この席ではドップリと御法に浸けていただくことが出来たように思います。 
自分が、‘自分の死’と向き合った時に はじめて知らされた様々なことが、みなさんのお話しを通して 自分の中で確認され、ほんとうに、「今、死ぬ」というのが抜けたら、それは仏法ではないなぁ… ということを感じさせていただきました。
そこのところに立った時、「聞けた」 ・ 「聞けない」 を 問題している私って いったい何なん?って・・・

   しかれば穢悪濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀をそしる。
   今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。              (『化身土巻』本)

S先生がおっしゃられた通りに、自分自身に目を向けた時、 やっぱり私は間違っている…、 御法とは寄り添わない私だなぁ~ と・・・、 そんな私の闇を照らしてくださるお光に導かれて、今日、私は ここに座らせていただくことが出来たのだなぁ~ と 思いました。

御法座が終わって S先生から 「辛かったなぁ~」との言葉をいただいた時・・・、 「私…、 誰かにわかってほしくて、今日、ここに来たんだ!」ってことを、自覚しました…。
御法座の最後に、「甘えてもいいんやで~」と、仏さまのお心を説いてくださった先生のお言葉を、まるまる今生事で受け止めてしまった私でしたが、S先生ならきっとわかってくださると思って甘えさせていただきました。

不思議なんです・・・・・・
先生にお話しを聞いていただく中で、今まで 押さえて 溜めこんできた気持ちを ひとつ ひとつ 言葉にしていく内に、 自分では気付かなかった 自分の気持ちが 浮上してきて、 「あぁ… 、 私 、こんなふうに思っていたんだ…」 って 知ることが出来ました。
そのように先生が聞いてくださったからだと思います。
貴重なお時間を いっぱい いっぱい 私のためにいただいて、S先生、ほんとうにありがとうございました。
そのおかげで、久しぶりに 地に足をつけて立っている感覚です。 

この後、いつもの場所で待っていてくださる法友方のもとへ行ってきましたが、すっかり普通にお話しすることが出来ている自分にビックリです。 先生にお話しを聞いていただく前の私とは、別人みたい!(^^ゞ
TNさん、NRさんには、ホントに親身になってアドバイスをしていただき、私はすごく幸せ者です。 ありがとうございました。

終電ギリギリに帰宅の途につき、日付が変わっての深夜帰宅になってしまいましたが、帰り道、自分の御法に対する姿勢を反省…(というか…(^^;) することはあっても、暗く落ち込む気持ちにはならなかったです。
ただ、ここまでお光に照らされ、願われているのに、 私 、いったい何やってるの!! という腹立たしさはありました。

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罪悪を観るということ [座談会・懇親会]

Kzさんに、「これは、自力ですか? 他力ですか?」との質問をされたので、「分けて考える必要はないと思いますよ! だって私は自力の塊ですから、自力の中から他力は出てきませんもの!」と答えると、妙に納得されて、 「じゃ~、聞け、聞け、と言われるが、わたしはちゃんと聞いています。 自力そのままに聞いていけばいいのでしょ?!」とおっしゃられました。

先日の座談会でOG先生から言われた一言に傷つき、「聞け」と言われることに 嫌悪感を抱いてしまったそうです。
難しいですよね~、 「聞くひとつだ」、 「ただ聞くだけ」、 と言われて、聞いた・知ったを口にすると、「全然聞けていないじゃないか!」と否定され、 否定されるからと口黙ると、それはそれで叱られる。
でも、「じゃ~、どう聞けば?」と 問えば、 やはり「方法論を聞いてどうする!」と指摘され、また、時には真剣に聴聞したつもりになっていても、やっぱり ダメ出しの完全否定をされると、 「ただ聞くだけ!って言われたから、ちゃんとそのままに聞いている! それも 真剣に聞いているじゃないか!  それのどこが悪いんだ!」と居直ってしまう。
そうなってしまったことで、「聞く気がないのなら帰れ!」と先生に言われて、「なんて失礼なヤツだ!」と腹が立ったのだということをお話ししてくださいました。

「聞く」ということについて 私が 云々することは出来ませんでしたが、 「どうかお願いですから聞いてください」と 頭を地べたにすり付けて頼んでくださっている方が、今、私の目の前におられるのですよ、 と 私が聞かせていただいたところを お話しをさせていただきました。
でも、「聞く」ということ・・・ これは私自身の課題であると… 、 「私がどう聞いたか」ではなく、「どんな私に、何を聞かせてもらったのか」ということを 私自身がもっとちゃんと知るべきだと思いました。

また、「罪悪観、無常観をとりつめなければ 本当に聞けないんのですか?」と質問され、そのあとに KIさんが、「罪悪観をとりつめ、機(自分自身)をいじりだしちゃったら、浄土真宗ではなくなってしまうのではないですか?」と付け加えられました。
「どうして?」と尋ねると、「機(自身)を問題にして正すそうとすることは、聖道門でしょ?」と…、 だから、罪悪ノートをつけることも自力の修行になるのではないかというので私の受けたところをお話しさせていただきました。

まず、罪悪を正せとは誰も言っていないですよということをお話ししてから、自身の体験をお話しさせていただきました。
「罪悪ノート? 何、それ?」 と、私も最初は反抗的に聞いていました。 だって、自分の思量で罪悪の判断なんかしてどうなるの?って…
でも、実際につけてみて思ったのです…。  初日、 せいぜい書けても10項目程度のことでした。
お聖教には、「暇なく罪悪を造り通し」と説かれているのに、自覚出来る罪悪なんてほんの僅かなものなんです。
二日目、 昨日と同じような事柄ばかりが書き並びました。 つまり、悪いことだと知っていても、何も更正する気がなく、「悪いことだとは思うけれど…、でもしかたないじゃん…」 って開き直っているんです。 
いえ…、 知識の上で「悪」と聞かされているだけで、少しも「罪悪」だと認めていないのだと思いました。
三日目、 書くのが嫌になりました。 自身が造る罪悪は、一つたりとも見たくない…、 認めたくない…、
仏さまの説かれた「私」など聞きたくないのです。  結論、仏法なんか聞きたくないんです。
四日目、 罪悪ノートをつけないことの言い訳だけは次々と出てくるのです。 そこには、先生のおっしゃることよりも、仏さまのおっしゃられたことよりも、自分の考えを善しとする私しかいませんでした…。
それは、親鸞さまのおっしゃられた 邪見驕慢 の 私 そのものでした。

そんな時、MO先生から、「五悪段は、お釈迦さまの訓戒だ」と教えていただいたことを思い出しました。
お聖経の教えを、ただの言葉として聞いていてはすぐに忘れてしまいますし、それでは一方通行です。
お釈迦さまが、誰に向かって説かれたお言葉なのか、何を願って説かれたお言葉なのかを考えた時、「あぁ…、 ‘私’が抜けていてはお話しにならない!」と思いました。
五悪段は、どんな私に向かって、どんなお心で説いてくださったのか、 私の造った「悪」、そのひとつひとつを自分の身を通して聞かせていただいた中に、はじめて、「あぁ、ここの私にかけてくださったお心だった…!  ここにこそ仏さまの願いがかけられていた…!」と私は受け取りました。

それは、罪悪ノートという提議をしていただいたことで、‘私’を抜いて仏法はあり得ないということに気付かせていただき、同時に、仏さまの御光によって観させていただいた「罪悪」の中でこそ聞かせていただけるのだと私はいただきましたので、これをお話しさせていただきました。

この時、フッと気付いたんです。
第18願に相応すべき、「唯除五逆 誹謗正法」は、誰か?! ということです。
それが、「私」とピッタリ合った時に、はじめて18願のお心に触れさせていただくことができるのではないでしょうか。

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言うも、聞くも、妄念妄想 [座談会・懇親会]

SUさんからお声をかけていただき、ヒョッコリ遊びに行かせていただきました。
ご夫妻ともに仏法聴聞歴は長いのですが、入会されてからはまだ二ヶ月足らずで、ここひと月ほど前からメールのやり取りなどをさせていただいていて、その中で、直接会って会話が出来れば… とのお話をいただき 今回 お声をかけてくださいました。 
お誘いをいただきました時には、「法友と語り合える」という嬉しさの上から、「今の私に何が言えるの…?」という不安が覆いかぶさり、一旦は消極的な気持にもなりましたが、数日前に 「ひとつ ひとつの いただいた御法縁は 自身でつぶすことなく、大切に引き打受けて行く」という自らに起てた誓いを思い出して、今の私のままで今回の御縁をちょうだいすることにしました。

お昼過ぎにSU家へ到着。 噂には聞いていましたがホントに素敵な邸宅で、とても落ち着いた雰囲気の中で語り合うことができたと思います。
挨拶もそこそこにお話しされたのは、「○ ○ さんの信心をどう思いますか?」といった類のもので、方向違いの問いかけだとは思いましたが、彼らのお気持ちを察することが出来ただけに返答には少々詰まってしまいました。
そこで、「あなたの信心はどうなのですか?」と逆に尋ねてみると、「わたしたちはまだです」と答えられました。
「わたしたち?」… 、「まだ?」… 、 これを、私になりに受けているところでお話しをさせていただいたのですが、はたしてどこまでお伝えすることができたのか…、 いったいどのように受け取ってくださったのか…、 そこのところを もっと もっと 深くお聞きすることが出来なかったことが今回の反省点でありました。

このお話しの流れの中でもう一つ質問をさせていただきました。 「なぜ、仏法を求めておられるのですか?」と。
この問いには、「後生が気になったからです」と お答えになられたので、「後生って何ですか?」と 二重に問うてみると…、 やはり 通り一辺倒のお答しか返ってきませんでした。
そこで、「その後生の解決を 本当に 求めて 求めて 手に入れたと思っていますか?」と問えば、「はい!」とのお返事。
「‘後生’という言葉に描いた、自分の理想を求めているのではないですか?」 と問えば、「そうなんですか?」と逆返し。
「自身の後生の解決に、自身の命をかけられますか?」 と問えば、「う~ん…、そう言われても…」と口ごもり。

いろいろお話を聞かせていただきましたが、すべては自分の思い・妄想でしかないのだということを 強く 強く 感じさせていただきました。 それは、SUさんたちが…ではなくて、私自身も同じなのだと…。
「あなたたちの言っていることは、すべて自分中心のものの見方、自分は正しいという考えの上に立った、‘邪険驕慢’以外のなにものでもない! その賢ぶった頭で仏さまを足蹴りにしていることにすら気がつかず、そうして踏みつけにしている仏さまのお心を全く聞こうともしていないくせに、聞けないことを仏さまのせいにして!!」 との強い叫びが自らに返ってきて…、 私は、言葉を失いかけました…。
でも、反応するのです…。  私の思いとは別の所で、何かが反応して言葉になってくるのです…。
それが自分でも不思議で…、 本当に「私が聞かせていただいている」ということを肌で感じました。

Kzさんがこんなお話しをしてくださいました。 「最近、お念仏を称えながら歩いていたら、 ‘まだ、今はいいです’ という心が出てきました」 と。
先ほどの、「まだ、信心をいただいていない」という言葉と折り重なるように、「まだ、信心をいただかなくてもいいです」という彼の言葉が、私に重くのしかかってきました。
私は、どこまで行っても「まだ」なんです…。 その通りなんですよね…。 そんな自分に腹が立ちますよ~!
「今、ここで」のお救いに、「まだいいです」って?! それで求めてるって?! 何なんですか、それ?!?!?!
なんだか、すごく腹が立って、そして悲しくて・・・・・、 もちろん表面にそれを出すことなどしませんが…。

結局、私は、「私が求めているもの」と、「仏さまがくださるというもの」がぜんぜん違うということを根本ではわかっていないし、 「聞けない私」を見ることもなく、「いつかは聞ける」と思いたいばかりだし、 「堕ちる私」と聞かずに、「救われる私」と都合よく聞いて、 すべてが逆さまの妄念妄想であるということを知り得ないのです。
これを人に伝える時も、私はお聖経の言葉はほとんど記憶にないしわかりませんので、私の妄念妄想のお話し、私自身が味わっているところでしかお話しすることが出来ません。 それで いいのか 悪いのか・・・。  
でも、本当に ひとつ ひとつの御縁を通して、この私が聞かせていただくのだなぁ~ というところに、仏さまの願いを強く感じさせていただきました。
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