いま、ここの、わたし [座談会・懇親会]
仏法讃談(?)しましょ ということで、YTさんにお誘いをいただいて、お食事デートにお出かけしました。
う~ん… 確かに御法のお話しを、いっぱい いっぱい あちらこちらに 飛びながら 戻りながらの おしゃべりをさせていただいたのですが、いったい何をお話しして、何をお聞かせいただいたのか・・・、 さて はて、 あまり覚えていません…。
でも、食べたものだけは 結構 しっかりと 覚えています! ホント…、 こんなものでしかないのですね・・・・・。
連れて行ってくださったお店は [和咲日(わさび)]という小料理屋さんで、YTさん、大切なお仕事をそっちのけに、仏法談話できるお店を…、 と 探してくださったそうですが、結局は、仏法よりも お酒とお料理の美味しそうなお店をチョイスされたとのこと…、(^-^; そのおかげさまで、とっても 美味しく 楽しく お話しをすることができました。
ということで、お料理のお話しは写真を参考にしていただいて、 共感できたところ、何となく覚えているところを、ここに少しだけ書き留めておこうと思います。
聞法で、「いま、ここの、わたし」 と言われるところの、「いま」がわからない、というお話しをいただき、 あぁ~、私も同じ穴にハマったなぁ~ と、振り返るきっかけをいただきました。
「今」って言っているうちに 「今」は過去のものとなり、そうかといって未来にも「今」はなく、 「今」って、「今」という点の連続のように、また一本の線のように止めどもなくて、 アッ!とも イッ!とも 言う間もなく流れて行ってしまいます。
「いま、ここで聞かせてもらう!」 と言われて、「今」を探すことに一生懸命になってしまったり、「今」と言われた「今」が通り過ぎてしまい、そんな過ぎ去った「今」に、「あぁ、ダメだった・・・」などと過去の「今」に落ち込んだりして…、 結局、ほんとうの「今」が抜けてしまって、 いったい何を聞きに来たのだか・・・ と、 まったく見当違いの私がそこにいました。
「今」を探したところで何ともなりません。
「今」は、「今」なんです。 コロコロと変化し続けている「今」が、「今」なのです。
その、常に移り変わっていく私の心をありのままに捉えていくと、動いて行く「今」の中に「私」を発見することが出来て、その「私」を 深く、細かく捉えていくと、「今」、お聞かせいただいている「御法とはそぐわない私」でありながら、「御法に説かれているそのままの私」を垣間見ることができます。
その「私」…、 仏智に照らされ観させていただいた この「私」の上に、阿弥陀さまの願いを思うと、そこでお念仏が出てきてくださり、 「いま、ここの、わたし」に届けてくださった その‘南無阿弥陀仏’を聞かせていただける。
「いま、ここのわたしが聞かせていただく」とは、 「いま」を探すことでも、 「いま」にこだわって 過去や未来を気にかけることでも、 また、「ここのわたし」だけを問うことでもなく、 「いま」、動いている 「ここのわたし」の中に、阿弥陀さまのお心を問うことだと思うのです。
ただこれは、あくまでも私の受けているところでのお話しですので、正解とか、方法論というものではありません。
少し長くなりそうなので、お食事会の続きのお話しは、テーマを変えて 次回のBLOGにて書こうと思います。
う~ん… 確かに御法のお話しを、いっぱい いっぱい あちらこちらに 飛びながら 戻りながらの おしゃべりをさせていただいたのですが、いったい何をお話しして、何をお聞かせいただいたのか・・・、 さて はて、 あまり覚えていません…。
でも、食べたものだけは 結構 しっかりと 覚えています! ホント…、 こんなものでしかないのですね・・・・・。
連れて行ってくださったお店は [和咲日(わさび)]という小料理屋さんで、YTさん、大切なお仕事をそっちのけに、仏法談話できるお店を…、 と 探してくださったそうですが、結局は、仏法よりも お酒とお料理の美味しそうなお店をチョイスされたとのこと…、(^-^; そのおかげさまで、とっても 美味しく 楽しく お話しをすることができました。
ということで、お料理のお話しは写真を参考にしていただいて、 共感できたところ、何となく覚えているところを、ここに少しだけ書き留めておこうと思います。
聞法で、「いま、ここの、わたし」 と言われるところの、「いま」がわからない、というお話しをいただき、 あぁ~、私も同じ穴にハマったなぁ~ と、振り返るきっかけをいただきました。
「今」って言っているうちに 「今」は過去のものとなり、そうかといって未来にも「今」はなく、 「今」って、「今」という点の連続のように、また一本の線のように止めどもなくて、 アッ!とも イッ!とも 言う間もなく流れて行ってしまいます。
「いま、ここで聞かせてもらう!」 と言われて、「今」を探すことに一生懸命になってしまったり、「今」と言われた「今」が通り過ぎてしまい、そんな過ぎ去った「今」に、「あぁ、ダメだった・・・」などと過去の「今」に落ち込んだりして…、 結局、ほんとうの「今」が抜けてしまって、 いったい何を聞きに来たのだか・・・ と、 まったく見当違いの私がそこにいました。
「今」を探したところで何ともなりません。
「今」は、「今」なんです。 コロコロと変化し続けている「今」が、「今」なのです。
その、常に移り変わっていく私の心をありのままに捉えていくと、動いて行く「今」の中に「私」を発見することが出来て、その「私」を 深く、細かく捉えていくと、「今」、お聞かせいただいている「御法とはそぐわない私」でありながら、「御法に説かれているそのままの私」を垣間見ることができます。
その「私」…、 仏智に照らされ観させていただいた この「私」の上に、阿弥陀さまの願いを思うと、そこでお念仏が出てきてくださり、 「いま、ここの、わたし」に届けてくださった その‘南無阿弥陀仏’を聞かせていただける。
「いま、ここのわたしが聞かせていただく」とは、 「いま」を探すことでも、 「いま」にこだわって 過去や未来を気にかけることでも、 また、「ここのわたし」だけを問うことでもなく、 「いま」、動いている 「ここのわたし」の中に、阿弥陀さまのお心を問うことだと思うのです。
ただこれは、あくまでも私の受けているところでのお話しですので、正解とか、方法論というものではありません。
少し長くなりそうなので、お食事会の続きのお話しは、テーマを変えて 次回のBLOGにて書こうと思います。
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