辻家の家庭法座 [座談会・懇親会]
「今日は、命がけでお話しをさせていただきます」
それが最初の一言でした。
一気に溢れ出した涙・・・・・
私は、ただここに、当たり前のごとくに座っているだけでした。
誰のおかげもなく
誰のご苦労も知らずに
私は、なんも知らんと、用意された座布団の上にただ座っただけでした。
誰の為に命をかけてくださっているのか・・・
何のために命をかけてくださっているのか・・・
「命をかける」とはどんなことなのか・・・
皆、自分の智恵でわかったような気になっている人たちの姿に、
鏡を見るが如くに哀れな自分が映し出されました。
「わたしと同じ仏にさせる!」
その二言目を、ただ惚け~と耳に聞き
「絶対に失うことのない宝物をあげる!」
との三言目に、命がけの説法とは真逆の方を向いている私
「必ず救う」は、如来さまの願いです。
「仏にさす」は、如来さまの誓いです。
私には何もない・・・・・・
私には、私(我)そのものしかない・・・・・・
それすらもわからん私なのに・・・・・・
最後の一言は、
「どうか仏になってください、 どうぞ“南無阿弥陀仏”をもらってください」
そう言って床に額を擦りつけられた如来さまに、
「ごめんなさい」 と 泣いて称えた 南無阿弥陀仏をいただい上に
「ありがとう、信じてくれてありがとう」 の 南無阿弥陀仏もいただきました。
南無阿弥陀仏を聞かんならんのは、他の誰でもないこの私でした。
ただ ただ 私の為の南無阿弥陀仏でした。
それを知らんで、
それを知らんで、
私(我)の願いばっかりに執着しておる私に
果てしない過去より、南無阿弥陀仏となってずっと一緒におってくださった。
南無阿弥陀仏を知らん私を、南無阿弥陀仏でずっと包んでおってくださった。
これ一つ
これ一つ、
どうか、どうか、聞いてくださいと、南無阿弥陀仏になってくださった。
その御苦労など全然わからん・・・・・・
私には、全く 全く わからんけれど、
どうぞ、どうぞ、聞いてくださいの南無阿弥陀仏は、
こんなにも こんなにも いつも一緒におってくださったのです。
それが最初の一言でした。
一気に溢れ出した涙・・・・・
私は、ただここに、当たり前のごとくに座っているだけでした。
誰のおかげもなく
誰のご苦労も知らずに
私は、なんも知らんと、用意された座布団の上にただ座っただけでした。
誰の為に命をかけてくださっているのか・・・
何のために命をかけてくださっているのか・・・
「命をかける」とはどんなことなのか・・・
皆、自分の智恵でわかったような気になっている人たちの姿に、
鏡を見るが如くに哀れな自分が映し出されました。
「わたしと同じ仏にさせる!」
その二言目を、ただ惚け~と耳に聞き
「絶対に失うことのない宝物をあげる!」
との三言目に、命がけの説法とは真逆の方を向いている私
「必ず救う」は、如来さまの願いです。
「仏にさす」は、如来さまの誓いです。
私には何もない・・・・・・
私には、私(我)そのものしかない・・・・・・
それすらもわからん私なのに・・・・・・
最後の一言は、
「どうか仏になってください、 どうぞ“南無阿弥陀仏”をもらってください」
そう言って床に額を擦りつけられた如来さまに、
「ごめんなさい」 と 泣いて称えた 南無阿弥陀仏をいただい上に
「ありがとう、信じてくれてありがとう」 の 南無阿弥陀仏もいただきました。
南無阿弥陀仏を聞かんならんのは、他の誰でもないこの私でした。
ただ ただ 私の為の南無阿弥陀仏でした。
それを知らんで、
それを知らんで、
私(我)の願いばっかりに執着しておる私に
果てしない過去より、南無阿弥陀仏となってずっと一緒におってくださった。
南無阿弥陀仏を知らん私を、南無阿弥陀仏でずっと包んでおってくださった。
これ一つ
これ一つ、
どうか、どうか、聞いてくださいと、南無阿弥陀仏になってくださった。
その御苦労など全然わからん・・・・・・
私には、全く 全く わからんけれど、
どうぞ、どうぞ、聞いてくださいの南無阿弥陀仏は、
こんなにも こんなにも いつも一緒におってくださったのです。
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