十方諸仏同体の大悲 (from Mr. IN) [御法座・仏法]
INさんよりご丁寧なメールをいただきましたので、そのまま転記させていただく存じます。
「 INめの、素懐に、ご不審もおありかと思いますが、
INは愚者なれば、日々念仏の縁に催され、
ただ純心無垢に親鸞様のお言葉を、我意を混えず聴聞申し上げるばかりです。
顕浄土真実行文類二の巻頭に
「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり・・・
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。・・・
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、・・・
『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま(十方)如来に対して弘誓を発せり。
まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。
もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。
(追補:十力無等尊のお心をとらえる事はできない、もしご賛同を得れば)
心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。
広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}
最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。
善法を円満して等倫なけん。 大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}
『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「『われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、
無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。
諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。
しからずはわれ作仏せじ〉と。」
また、顕浄土真実信文類に十方諸仏同体の大悲を、
「一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。
一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」
と、お示しくださっています。
和賛にも、つまびらかにお書きくださっています。 『高僧和讃』 龍樹讃
「安養浄土の荘厳は、唯仏与仏の知見なり、究竟せること虚空にして、広大にして辺際なし」
「天人不動の聖衆は、弘誓の智海より生ず。心業の功徳清浄にて、虚空のごとく差別なし」
大経にも 「去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。 今の仏も諸仏を念じたまう」 に始まり
「往ごん偈」 に詳しくございます。
十方諸仏、我執を離れたまえるが故に仏なのです。
弥陀如来、正覚の初一念に十方諸仏如来皆歓喜賛同されたまいて、その聖衆と共に、来往され、
弥陀等正覚をお開きくださいました。
以来、十劫微塵世界に弥陀等正覚の如来満ち々々、深き大慈悲と智慧の光明によって、私たち
一人一人を、念仏の道に歩ませて下さっているのです。
これ、また自然法爾抄のお心でございます。
宗祖の金言、重ねて、つぶさに、ご聴聞おねがい申しあげます。
南無阿弥陀仏、ただただ、南無阿弥陀仏 合掌 IN
INさん、どうもありがとうございました。
「 INめの、素懐に、ご不審もおありかと思いますが、
INは愚者なれば、日々念仏の縁に催され、
ただ純心無垢に親鸞様のお言葉を、我意を混えず聴聞申し上げるばかりです。
顕浄土真実行文類二の巻頭に
「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり・・・
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。・・・
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、・・・
『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま(十方)如来に対して弘誓を発せり。
まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。
もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。
(追補:十力無等尊のお心をとらえる事はできない、もしご賛同を得れば)
心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。
広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}
最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。
善法を円満して等倫なけん。 大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}
『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「『われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、
無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。
諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。
しからずはわれ作仏せじ〉と。」
また、顕浄土真実信文類に十方諸仏同体の大悲を、
「一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。
一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」
と、お示しくださっています。
和賛にも、つまびらかにお書きくださっています。 『高僧和讃』 龍樹讃
「安養浄土の荘厳は、唯仏与仏の知見なり、究竟せること虚空にして、広大にして辺際なし」
「天人不動の聖衆は、弘誓の智海より生ず。心業の功徳清浄にて、虚空のごとく差別なし」
大経にも 「去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。 今の仏も諸仏を念じたまう」 に始まり
「往ごん偈」 に詳しくございます。
十方諸仏、我執を離れたまえるが故に仏なのです。
弥陀如来、正覚の初一念に十方諸仏如来皆歓喜賛同されたまいて、その聖衆と共に、来往され、
弥陀等正覚をお開きくださいました。
以来、十劫微塵世界に弥陀等正覚の如来満ち々々、深き大慈悲と智慧の光明によって、私たち
一人一人を、念仏の道に歩ませて下さっているのです。
これ、また自然法爾抄のお心でございます。
宗祖の金言、重ねて、つぶさに、ご聴聞おねがい申しあげます。
南無阿弥陀仏、ただただ、南無阿弥陀仏 合掌 IN
INさん、どうもありがとうございました。
最後に「南無阿弥陀仏」と書かれてますが・・・
どの様な意味なのか、お教え願えれば幸いです^^
by yu-papa (2011-04-27 20:53)
「南無阿弥陀仏ってなんですか?」って疑問にぶち当たるのって、ものすごいことです!! 奇跡だと私は思います。
yu-papaさんも、「なぜ人間に生まれさせていただいたのか、なぜ今を生きなければならないのか」ということを考えたことがおありだと思います。
その答えが“南無阿弥陀仏”なのです。
南無阿弥陀仏の意味は、とても とても 簡単なことなのに、悲しいことに、これを理解したくない輩が自分の中には居るんですよね・・・。
でも、yu-papaさんのように、「南無阿弥陀仏って何?」ってところに引っかかるのは、極々限られた人しかありません。 スゴイことです~(^o^)v
これをコメント欄に書くのはちょっと厳しいので、また時間が出来ましたらBLOGの方に書かせていただきたいとおもいます。
どうもありがとうございました。 南無阿弥陀仏
by 奈っちゃん (2011-04-27 22:33)
南無阿弥陀仏というのは、「苦しんでいる人々を救うぞ」という阿弥陀如来の誓い。仏さんの前に来たら、座る、手を合わせる、南無阿弥陀仏を言う、これ、あたりまえのこと。だから最後につけるのも礼儀としてあたりまえのこと。
by 真宗坊~い (2011-04-28 01:23)
私にとっての「南無阿弥陀仏」は奇跡のいただきものですね~。
今では当たり前のように、御仏前では、座し、合掌て、「南無阿弥陀仏」と称え、頭を下げる。
でも、これって人のふりを見たり、教えていただいたからこそ出来るようになったことなのですよね。
私のBLOGのTOPに書いてある、「仏法聞き難し 今已に聞く」とは、聞くことの困難な「南無阿弥陀仏」を、今、聞かせていただいているということです。
真宗坊~いさんが言われるように、当たり前にしか思っていないの私だけで、本当はスッゴイ奇跡と出遇わせていただいているのだなぁ~なんて私は思っています。
by 奈っちゃん (2011-04-28 10:04)