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十力無等尊 (from Mr. IN) [御法座・仏法]

INさんより、新たにいただきましたメールも転記させていただきたく思います。
INさん、どうもありがとうございます。

 さて、僕ではとうてい捉える事の出来ない「十力無等尊」について、 真宗聖典の
 【脚注】には、以下の記述がございましたので、 ご参考までに、

 【脚注】 十力無等尊 = 十種の力をそなえてならびないので無等尊という。

       十力(じゅうりき) = 仏が具えている十種の力。

<1> 処非処智力。 道理・非理を知る力。

<2> 業異熟智力。 業とその果報との因果関係を知る力。

<3> 静慮解脱等持等至智力。 禅定や三昧を知る力。

<4> 根上下智力。 衆生の能力や性質の優劣を知る力。

<5> 種種勝解智力。 衆生の意欲や望みをあきらかに知る力。

<6> 種種界智力。 衆生の本性を知る力。

<7> 遍趣行智力。 衆生の人・天等の諸世界に趣く行の因果を知る力。

<8> 宿住随念智力。 自他の過去世のことを思い起す力。

<9> 死生智力。 衆生の未来の生死・善悪の世界を知る力。

<10> 漏尽智力。 煩悩を滅した涅槃の境地と、それに到達するための手段を知る力。

 【脚注】では、「仏が具えている」と流してありますが、
 到底、般若腹蜜の智慧だけでは到達することが出来ない、想像を絶したお力とお智慧です。
 宿命通力・他心通力・を超えた観自在の神通力と方便智を備えた大乗功力ですね。
 仏陀ご自身は備えていらっしゃいましたが、入滅涅槃を求めるお弟子様方には必要の無い
 不思議なお力です。

 まさに、言葉も絶えたりの世界ですね。
 親鸞様は、それを、捉えていらっしゃった。
 でなければ、わざわざ引用する必要はありませんからね。
 そこが、また、すごいですね~。

 まさに、仏法不思議、如来様は、更に不思議  南無阿弥陀如来様

                               南無阿弥陀仏     合掌礼   IN


      

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十方諸仏同体の大悲 (from Mr. IN) [御法座・仏法]

INさんよりご丁寧なメールをいただきましたので、そのまま転記させていただく存じます。


「 INめの、素懐に、ご不審もおありかと思いますが、
 
 INは愚者なれば、日々念仏の縁に催され、
 ただ純心無垢に親鸞様のお言葉を、我意を混えず聴聞申し上げるばかりです。

 顕浄土真実行文類二の巻頭に

 「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり・・・
 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。・・・
 
 しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
 すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、・・・

 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま(十方)如来に対して弘誓を発せり。
 まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。
 もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。
 (追補:十力無等尊のお心をとらえる事はできない、もしご賛同を得れば)
 心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。
 広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}

 最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。
 善法を円満して等倫なけん。 大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「『われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、
 無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。
 諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。
 しからずはわれ作仏せじ〉と。」

 また、顕浄土真実信文類に十方諸仏同体の大悲を、

 「一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。
  一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。」

 と、お示しくださっています。

 和賛にも、つまびらかにお書きくださっています。   『高僧和讃』 龍樹讃

 「安養浄土の荘厳は、唯仏与仏の知見なり、究竟せること虚空にして、広大にして辺際なし」
                                           
 「天人不動の聖衆は、弘誓の智海より生ず。心業の功徳清浄にて、虚空のごとく差別なし」

 大経にも 「去来現の仏、仏と仏をあい念じたまえり。 今の仏も諸仏を念じたまう」 に始まり
 「往ごん偈」 に詳しくございます。

 十方諸仏、我執を離れたまえるが故に仏なのです。
 弥陀如来、正覚の初一念に十方諸仏如来皆歓喜賛同されたまいて、その聖衆と共に、来往され、
 弥陀等正覚をお開きくださいました。
 以来、十劫微塵世界に弥陀等正覚の如来満ち々々、深き大慈悲と智慧の光明によって、私たち
 一人一人を、念仏の道に歩ませて下さっているのです。

 これ、また自然法爾抄のお心でございます。

 宗祖の金言、重ねて、つぶさに、ご聴聞おねがい申しあげます。

 南無阿弥陀仏、ただただ、南無阿弥陀仏                   合掌  IN

INさん、どうもありがとうございました。
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蓮如上人の御命日 [御法座・仏法]

ここしばらく、なんやかんやと山あり谷ありしんどくて、BLOGの更新がなかなか出来ませんでしたが、おかげ様で随分と回復してまいりました。 ご心配をくださった皆様、この場を借りて、どうもありがとうございました。m(__)m


今日、3月25日は、蓮如上人の御命日です。
蓮如上人と言えば 『御文章(御文)』ですが、その第一号は、1461年3月、蓮如さま47歳の時に、道西(善従)さまに宛てて書かれたお手紙だといわれており、『帖外御文章』に記載されていると聞きました。

 当流上人の御勘化の信心の一途は、つみの軽重をいはず、また妄念妄執のこころのやまぬなんといふ機のあつかひをさしをきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたかひなくたのむこころの一念をこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまふなり。
 これすなはち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ信心を如来よりあたへたまふといふもこのこころなり。
 さればこのうへには、たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはおもふべからず。
 ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。
 これまことの専修専念の行者なり。 これまた当流にたつるところの一念発起平生業成とまうすもこのこころなり。 あなかしこあなかしこ。


そして最後の『御文章(御文)』は、1498年12月15日、蓮如上人84歳の時に、法敬坊さまと空善さまに宛てて書かれたお手紙が、現存するお手紙の最後のお日にちとされていると聞きました。

 南无阿弥陀仏の体は、すなはちこれ願行具足のいわれなりとしるべし。また、機法一体ともこれをまふすなり。夫衆生ありて、南无と帰命すれば、すなはちこれ願のこころなり。
 抑帰命というは、衆生の阿弥陀仏をたのみ後生たすけたまへとまふすこころなり。すでに南无と帰命するところにをいて、やがて願も行も機も法も一体に具足するいはれなるがゆへなればなり。
 これによりて、善導大師は、南无といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願廻向義なりと釈す。
 されば、南无と帰命するところに、すなはち願も行も具足せしむる道理なり、とこころうべきものなり。
 されば、衆生の阿弥陀仏に後生たすけたまへとまふすこころは、われらもおなじく阿弥陀仏とならんとねがいひまふすこころなりとおもふへきものなり。 あなかしこあなかしこ。
予が身体によそへてかくのごとくをかしきことをつらねはんべり。
 老が身は六字のすがたになりやせむ。 願行具足の南无阿弥陀仏なり。


そして、3月25日(明応8年)に、山科本願寺にて85歳で示寂されました。

参考 : http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000015084

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高山法座より帰宅 [御法座・仏法]

高山の宿泊法座から帰宅して、ちょっとだけお疲れぎみな夜・・・・・。
この二日間、たくさんの愛、大きな愛に包まれて過ごしたせいか、今、こうして独りぼっちに戻ってみると、無性に人恋しくて・・・、 寂しくて・・・・・。

血縁的なつながりがあるわけでもなく、世間的にも何の所縁もない私に、年齢とか性別とか社会的立場さえも超えて、無償の愛で包んでくださる人達がいます。
その源には、御法を通して結ばれた「深縁」、同じ親仏の子どもという「真縁」なるものがあったとしても、それらは私レベルのところでわかるものではなく、ただ 表面的な「有り難き縁」として 簡単に通り過ぎてしまうだけの私です・・・・・。 そして、ホンのわずかでも感じたそのご恩にすら、何も返すことの出来ない私です・・・・・。
そんな私を高山のお同行さん方は、孫のように、娘のように、妹のように迎え入れてくださり、その上、「よう来たな! 来てくれてありがとうね!」 とまで言ってくだされる。
現実の家族以上に家族らしい高山ファミリーの中で、自由に笑ったり、大泣きしたり、わがままを言ったりしながら、私が私らしくしていられることを許されてここに居させていただける・・・。 南無阿弥陀仏
私にとって高山って何なのかしら・・・? そんな意味のない問いに、「南無阿弥陀仏に帰らせていただく御縁処」 との答えをくださっているような気がします。

「ただ、奈っちゃんに聞いて欲しいんや!」 という大きな願いの中で許されている私ってどんなん? という 「私のモノガラ」 を、今回もこの身にホンのチョット聞かせていただいて・・・、 でも、そのホンのチョッとの真実に、毎度のお決まりコースで、自分で自分を責めてしまうおバカな私・・・。
そんな私はこれから先も変わることがないでしょう。 これを自ら、また他人からいかに責められようとも、私の如来さまだけはこんな私を責められはせず、「ゴメンネ」と 私の業を謝ってくだされる・・・・・。
如来さまが、苦悩のイバラに雁字搦めにされて、孤独に泣いている私を見つけてしまったその日からずっと・・・、 世自在王仏のみもにて、私一人のために頭を下げてくださったその日からず~っと・・・、 ずっと ず~っと 頭を下げ続けてくださってる・・・・・。 
そうさせているのは私です。 
「お願いだから聞いてください」と額を地に擦りつけておられる如来さま・・・、 「わたしに力がないばっかりに、苦しい思いをさせてゴメンネ」と、如来さまを謝らせているのは私なのです。
それなのに当の私は、聞く耳も持たず、このマナコは曇り、 「真実」というものからかけ離れたところで 「我よし!」 と大きな顔をして、この頭を下げることの出来るような輩ではないという高座布団に座ったまんま・・・。
自分が死んで行くとも知らずに・・・、 その行く末も知らずに・・・、 いい気になってふんぞり返ったまんま・・・、 これを何とも思わずに、頭を下げられている如来さまを踏みつけにしているのです・・・・・・。

この二日間、「真実」と「現実」との区別もつかない今生事に染まりきって、仏も法も皆無の私のまんま、そんな私を丸ごとそのまんま、高山の法水にドップリとつけていただきました。
でも、法水から出て肌の水気も乾いてしまえば、何にも残っていない・・・・・・  南無阿弥陀仏
不思議です。 そんな私が何を感じて涙を流すのか・・・・・・  南無阿弥陀仏
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6月の輪読法座 [御法座・仏法]

輪読法座の当日、午前中は前日にOPENしたばかりの京都駅前のショッピングモールにて時間つぶしにふらふらとお散歩・・・、 と 言いながらも、赤札のワンピースとサンダルを買ってしまいました。(^.^ゞ
店内は、思っていたよりも店舗数が少なくてすぐに飽きてしまいましたが、その分、広々とした作りになっていてベンチスペースもたくさんあるので、なかなか都合のよい遊び場 & お休み処が出来ていい感じです(^-^)v

そして午後、久しぶりの会館訪問でしたが、予想外にリラックスしている自分にチョット嬉しかったです。
それに、少しだけでしたが、久しぶりにMrさんとお話しすることができて、それはとても嬉しかったです。
そんな落ち着いた気持ちで御法の円座に座らせていただいたのですが、この日の輪読会は、全体的に今までにない方向へと流れが偏った感じで、私自身も小さな戸惑いの渦中に停滞してしまったように思います。

この日の私のテーマは、「如来さまと向き合う」 ・・・・・ でした。
輪読会は、『法蔵菩薩のご修業』の最終回でしたが、初めから通して読んでいただき、有福の妙好人・善太郎お同行さんのお言葉を通して、如来さまが、どんな私をお目当てにご本願を建ててくださったのかということを改めて聞かせていただいたわけであります。 が・・・、 最終的に知らされたのは、如来さまと向き合うことなど鼻っから出来ない私でした。
どこどこまでも仏道に寄り添うことのない私が、この場に座らせていただき、お念仏を称えさせていただいているという不思議さえも、不思議と思うこともなく・・・、 ここに至るまでの如来さまの御苦労を、苦労と深く知ることもなく・・・、 「仏法嫌い」を盾にして、「自力」の矛で楯突くことしかできない私です・・・。

今回は、御法座の最中にあるお同行さんが、煩悩の熱火をめらめらと燃しながら、「自分は聞けている」という高座布団の上から、恩ある先輩同行に火の粉を投げつけるという場面が2,3度あって、そんな場面になる度に、自身を守ることに必死になっている私が前面に出てきました。
何が辛かったのかといえば、 それは、見たくない自分を観せられて・・・、 受け入れ難いそれが自分自身なんだと知らされて・・・、 御法を全身で拒絶している自分と出遭わされことが何よりも辛かったです。
このような御縁をいただき、たった今、聞かせていただいたばかりの善太郎さんのお言葉を何度読み返してみても、その御意見は私の薄っぺらな頭の先の方でヒラヒラとなびくばかりで・・・、 ちっとも私の中へは入って来やしません・・・。

私が地獄で泣いていがるを、ひと目この阿弥陀如来がご覧あらせられたのが不憫のはじまり。」
法蔵さまのご修業(ご苦労)の始まりは、こんな私がいたからでした・・・・・・。

御法座の終わりの時間が迫ってきてもなお、そのお同行さんの怒りの炎は落ち着き処を見失ったままで、私は、見たくない・聞きたくないの心いっぱいに、一人、御法へと逃げ込みました。
この時、Ukさんの書かれた4コマ漫画がフッと視界に入ってきて、それが痛く胸に突き刺さり・・・、
私というヤツは、如来さまからいただいたこの身体を、さも自分のモノのように粗末に扱いながら、その半面でこれを誰よりも愛し、それ故に人を平気で傷つけ、悪を造り続けるのだと・・・・・
それなのに、そんな私を 不憫だ、かわいいと言って自らの御命まで差し出して下されるとは・・・・・

すっかり自分の世界に入ってしまった私でしたが、この時、不意に名指しで当てられたために、何か取り繕ったようなチンプンカンな言葉を紡ぎ出してしまいました。  でもこれをきっかけに、ここのところだけはもう一度読ませていただきたい! という思いが出て来て、善太郎さんのそのお言葉を再度読ませていただく機会に恵まれました。

  おがんで助けてもらうんじゃない
  おがまれて下さる如来さまに 助けられてまいること
  こちらから思うて助けてもらうじゃない
  むこうから思われて、思いとられること この私・・・・・

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講習会 「称名論」 [御法座・仏法]

Twitter を 始めて三ヶ月になりますが・・・、 面白さはないですね~。 ただ、小さなストレスの発散にはなっているのかもしれませんが・・・、 その程度のことです。
でも、Twitter でなくても、私は よく 自分の呟きをメモに残す習慣があります。
御法座の最中にメモを取るのも・・・、 「書いている暇などないぞ!」と言われながら、 「おぉぉ」とか、「あぁ!」 といった呟きを走り書きして、後で新たに味わったりしています。
今年の講習会でも、講義の内容はさて置き・・・(^^ゞ、 いただいたプリントを見返すに、 「仏力でないものなど一つもない!」 などの呟きがアチラコチラに記されてあり、‘ 今 ’ のところで 新たなお味わいをいただいております。

今年は、真宗の安心論を、「名号論」、「信心論」、「称名論」、「得益論」 とわけたうちの、「称名論」について ご解説くださいました。
真宗で言われるお念仏には、「名号」、「信心」、「称名」 の 三つがあります。
1) 名号 ― ‘ 南無阿弥陀仏 ’ が成就されて、如来さまのお手元にあるお名号(法体名号)。
2) 信心 ― そのお名号を他力廻向によって私がいただいた相(信心正因)。
3) 称名 ― これを報恩行として口に称える(称名報恩)。

これを、出典をお示しくださりながら お味わいを交えて詳細にお話しくださったのですが・・・、 聞き慣れない言葉も多くて、 ついて行くことが出来なかったり…、 頭が外出中だったり…、  また、最終的には何を聞かせていただくのかという所に一人先走ったりしながら、自分の中で悪戦苦闘をしていただけに終わってしまったような気がします。
ただ、メモに残した呟きを見ると、これら難しい教量の元には、やっぱり一つの御心がズッシリとあって、そこのところを聞かせていただかなくてはなぁ~ と 思うのであります。

呟き その1) 「仏になるお話しを聞いている」 ということは、本当は、とんでもないこと!

「すっごいお話しを聞かせていただているのだわ!」 という感激など微塵もなくて、 「聞きたくない・・・、聞かないヤツだ・・・」というところで胡坐をかいているだけの私が、どうしてここに座らせていただけているのかしら・・・。

呟き その2) 私は 「他力」 をいただくだけ。 それは、法蔵菩薩さまの 「自力」 をいただくということ。

私は、如来さまのお仕事の邪魔こそすれ、タシになることなど一つもしていないのです・・・。
ただ、「他力」をいただく・・・。 それが、どれほど大きなことで、いかほどの御苦労の賜物であるかもわからずに、邪魔ばかりしていて・・・、  それは誰のため? それは何のため?  このため一つに、如来さまはいったいどれほどのご苦労をしてくださったのか・・・。
それを聞かせていただくために、私は、今ここに連れて来られ、座らせていただいているのだなぁ~。

呟き その3) 私のお顔は、糞の噴出口!

目糞、鼻水、耳垢、よだれ・・・  出るわ、出るわ、キレイでないモノ!
そんな糞の噴出口である私の顔に、ぽっかりと開いた大きなお口で、汚い言葉を吐き出したり、他の命を摂取したりしているのです。
これは「お許し…」、なんて都合のよい言葉で、殺生しながらお念仏を称えさせていただいているのです。

最後に、S先生がおっしゃってくださったことを呟きメモにして、講習会BLOGをENDといたします。

「 大悲の報恩行など出来る私ではない・・・。 お念仏のモノガラ自体に尊さがあるのです。 」
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「命」は、大切ですか? [御法座・仏法]

二月の支部法座、 先のBLOGに引き続き、協和発酵キリンが行った 「命の大切さ」 についての意識調査にあった質問項目、「みなさんは日頃、命の大切さについてどの程度意識されていますか?」 との設問についてお話しくださいました。
この調査結果では、「日頃から命の大切さについて考えている」との回答をされた方が90%以上もおられたのに対して、「命の大切さについてまったく考えていない」と答えられた方は0.5%だったそうです。(1,000人中)
私は、この問いかけに対して、「そもそも私は、命を大切だとは思っていない…」。 だから、答えられないと思いました。
「命は大切」という一つの言葉になってしまっていることに違和感をもってしまうのです。
これをズバリ、S先生に指摘されました。 「みなさんは、命を大切だと思っていますか?」 と・・・。
じゃ~ぁ、「命」は、大切か or 大切じゃないか、と問われれば、やはり大切だとは思いますが、それは知識の上での答えにしか過ぎず、何故に大切なのかが、自分の本心と噛み合ってこない…、と思いました。

でも、先生のおっしゃりたかったことは、やはり もっと もっと 大きなことで…、 「みなさんは、その大切だと思われている命を、本当に大切にしていますか?」 と、問われました。
そして 続けて、「その大切にしている命とは、どんな命ですか?」 と、問われました・・・・・
その答えは、「自分の命」です。 
「他の命」、自分以外のものの命のことなど微塵も考えてはいません・・・、 「自分の命は大切」ということです。
この私の命は 何にも代え難く 大切であるが故に、この私の命のためにならば、他の命を奪い取ることは平気! 自分の命を生き永らえさせるためになら、他の命が犠牲になるのは已むを得ない! と・・・・・。

「命は、恐ろしいものです」 と 先生はおっしゃいました。
「強いものが、弱いものの命を奪って何が悪い!!」 という世の中、 自分の命のためになら、何を仕出かすかわからないこの私の命・・・、  自分の思いを実現させるためになら、なんだってするこの私の命・・・、  滅茶苦茶に 醜くて、滅茶滅茶に 恐ろしいものだと思います。

『大無量寿経』下巻の、五悪段の中に、「大命(だいみょう)まさに終わらんとして、悔懼(けく)こもごも至る」 というお言葉があります。
この娑婆での命が尽きようとする臨終の時、後悔と、恐怖の念が入れ混じっ起こってくると説かれた経文です。
「大命」の「大」とは、「仏さま = 他力」 のことを言います。 なぜ、私の命に「大」を付けられたのでしょう・・・?
私は、私が実感できる範囲内での、親のおかげだとか、他の命を犠牲にしているだとか、そんな目に見えたものの様々な御恩徳のおかげで生かさせていただいているのだということには何となく頷けますが、阿弥陀さまの御命を頂戴しているというところで、頭がさがっているでしょうか・・・、 そこで御法を喜べているでしょうか・・・。

先生は、私が数々にいただいている縁他力のその根底には、仏さまの御命があるのだと説いてくださいました。
その上で私自身を振り返ってみた時に、 あぁ…、やっぱり私は一人じゃなかった・・・、 如来さまの御苦労を踏みつけにして生きてきたのだ・・・、 と 知らされて、お念仏がこぼれました。

私は、この私の命を生かすために、ほんとうに多くのものの命を犠牲にして生きてきましたし…、 他の命を奪い取ることでしか生きてこられませんでした。
それを当たり前のこととして、懺悔 も 感謝もなく生きているのが私です。
それなのに私は、すごく すごく 浅いところで、「私が生きていては迷惑になるばかりだから、死んだ方のがいいのです…」 などとほざいて・・・・・、
今、私がこの命を絶てば、それこそ 今日まで、私を生かすために奪い取ってきた無数の命を、無駄死にさせてしまうことになってしまいます…。
なぜに今日今時まで、生かさせていただけているのか・・・、 そのためにどれほどの命が犠牲になってくださったのか・・・、 それらを考えることなど出来る私ではありません。 またこれは、考えて出てくる答えでもありません。

この私一人を生かすために犠牲になってくださった無数の命…、 そこに阿弥陀さまが無量の御命を投げ出してくださっているのだということ、 そのお力を得る為の御修行・御苦労をしてくださったのだということ、 それは一重に、自分のことしか考えることのできない、無慚無愧の私がいたからです・・・。
どうしてこんな私の為に御苦労をしてくださったのか…、 これをお聞かせにあずかるために、人として生まれさせていただき、この瞬間まで生かさせていただいているのです。
すべての命、すべてのおかげさまの根底にある阿弥陀さまの願いの上にいただいた命・・・、 「大命」です。
それを私は・・・・・・
ただ、「ごめんなさい」しかありませんでした。 ただ、「南無阿弥陀仏」しかありませんでした。

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「親孝行」 とは [御法座・仏法]

二月の支部法座、 「‘命の大切さ’というテーマについて」の御法話をS先生よりいただきました。
協和発酵キリンという製薬会社が、20代~60代の男女1000人を対象に行った「‘命の大切さ’に関する意識調査」の結果をもとに、「余命一ヶ月だとしたら、あなたは何をしたいですか?」との問いかけをされました。
以前(半年ほど前)、同じ質問をされた時には、「海外旅行」と答えた私でしたが、今回、改めて‘今’の自分に問うてみた時・・・、 まず、「実際のところは、そうなってみないとわからないなぁ…」 と思いました。
でも、先日、この私の命を考えた時に…、 この命の幕引きを思うた時に、 「後腐れなくこの世を去りたい」 との想いから、 「私が存在したことでご迷惑をおかけしましたことに、ごめんなさい…」 と、 そして 「今日までお世話になったことに、ありがとうございました…」 と、これを申し上げてからこの世を去りたいという気持ちがわき起こったことを思い出して、この旨を発言させていただきました。

余命一カ月・・・、 協和発酵キリンの調査結果(世間)では、 一位に、「親孝行」41%、 二位が、「お世話になった人への恩返し」36%、 三位には、「世界中を旅行」31%、 この後に、「食べたかったものを食べる」、 「疎遠の友人に会う」、 「社会貢献」、 「恋・結婚」、などと続きました。
これに対してこの会場では、「後生の一大事の解決」という意見が数多く出され、言われてみればそれもあるかな?とも思いましたが、何にせよ、ここでは、「自分のことしか考えていない私」というのが知らされたわけであります…。

この調査結果を受けて、先生より 「第一位に挙げられた‘親孝行’ ですが、どんなことが‘親孝行’だと思いますか?」との質問をされました。
私には既に親がおりませんので、この質問に 即 思いつくものはありませんでしたが、皆さんのお答を聞いていて、「自分が思う親孝行と、親の願っている親孝行と、はたして合致するのだろうか・・・」という思いで聞いていました。
だって、親であれ、子であれ、みんな自分の方からしか物事を見られないのだし、所詮は自分のことしか考えられないのが人間ではないか・・・ と思ったからです。
でも、先生がおっしゃりたかったのはそんな小さなものではなく、「親孝行をする」ということは、
「自分で考えているような親孝行で返せるほど生易しい御恩徳を受けてきたわけじゃない! 何一つとして、その御恩徳に報いることの出来ない、親不幸の自分と出会わせていただくことが本当の親孝行と言えるのではないですか・・・」 と。

今、私の中で 「親」 といったら、「阿弥陀さま」 と出てきます。  実の親を亡くしているだけに、真実の御法と出遇わせてくださった母 = 真実の親さまである阿弥陀さま という妄念(?)に依存しているのでしょうか・・・。
その親さまの御恩徳は、私が思慮できるような小さなものではないと思うのです。
だって、その御恩徳を少しでも感じることの出来るような私であったならば、「親孝行とは?」と問われた時に、親さまの側に立って即答が出来たはずでしょう…。
でも私は、自分勝手な考えしか出てきませんでした。 如来さまのお心どころか、実の親の心にさえもふれることの出来ないような私なのです…。 すべてが自己中心的で、自分本位の妄想しか持ち合わせていないよう私なのです…。
そんな私に、親さまからいただいた御恩徳などわかろうはずがありません。
それ故に、 私には、その御恩徳に報いようとする心などわき立たず…、その御恩をお返ししようとする心すら微塵も持ち合わせてはいないと思うのです。

今日、教えてくださったこと。
真実の教えを聞かせていただいた上で、親不幸しか出来ない自分の姿を知らされ、初めて 親孝行と言えるのです。
聞いても、聞いても、如来さまのお心に背くばかりの本当の自分を見せていただく以外に、如来さまの御恩徳などわかろうはずがありません。
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