SSブログ

ただ「運転する」 と ただ「聞く」 [御法縁]

今日は、奈良に来ています。 一年ぶりの天川村です。
でっ、今年はなんと! 一人で車を運転して来ちゃいました~ \(^o^)/
先週、イエローハットでETCを取り付けて、そしてディーラーでカーナビのディスクを新調して!!  事前準備での出費はちょぴり痛かったけれども、でも、念願の一人ドライブ旅に出かけられることが出来たこと(^^)v、自分で自分を褒めてあげたい! な~んちゃって… (^.^ゞ

旅BLOGは、帰宅してから改めて書く予定ですが、一つだけ、今日思ったことを書いておこうと思います。

車を運転するのは好きではありません。 キライと言った方のがシックリときます。
でも、昔は自分で運転をしてあちらこちらへとドライブ旅をするのが大好きで、今のような列車旅をすることの方のが稀でした。
「怖いもの知らずだった・・・」 理由は、ただそれだけのような気もしますが・・・・・

今日、運転しながら 「あれ~?」 と思ったのですが・・・・・、 車を、「ただ運転する」だけならすごく簡単なことなんですよね。
エンジンをスタートさせて、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏んで、道路に合わせてハンドルをきる。
そんな簡単なことなのに、何がそんなにイヤなのかと考えたとき、二つの理由が思い浮かびました。

一つは、「私一人だけが、ドライバーというわけではない」ということ。
私だけの道を、私だけが自分勝手に走ることが出来たなら、そんな楽なことはないでしょう。
でも、車社会には無数の人たちがいて、そんな他人同士が、同じ時間に、ほぼ同じ場所を共有することで、互いに接点を持ってしまいます。 例えば、前を走る車、後ろを走る車、追い越し、追い越され、対向車となったりしながら、遠からず、少なからずの接点がそこに生まれます。
これが何かの因縁に触れれば、時には己の煩悩が逆巻いたり、時には事故となって生命にかかわる事態にまで発展することも少なくはないはずです。
つまり、一人ではない限り、上手くやっていかなばならないという煩わしさとか、危険というリスクを背負うことになってしまうわけです。

もう一つは、「ただ運転するという行動のみに収まることなく、私の心が常にその行動を妨げる因縁になっている」ということ。
例えば、早く走りたいだとか、あの車の前に出たいなどの欲心。  また、怖いだとか、Highな気分だとかいった心持ち。 
そんな自身の心情が運転するという行動を面倒くさく複雑なものにしているのではないでしょうか。

それって・・・・・、 仏法聴聞も、同じなのではないかしら・・・?  と、思ったのです。

「ただ聞く」だけなら、簡単なはずです。
でも、自分一人だけで、じ~っと耳を澄ましていればどこからか御法が勝手に耳に入ってくると言うものではありませんので・・・、 御法は、その教えを本に、同じ道を歩む先生やお同行さんの声や姿を通して聞かせていただくものですから、 そこに人間関係という煩わしさが生じて、また、相手がいるために外面をとりつくろうというプライドなども働いて、「ただ聞く」ということを大いに妨げてしまうことになります。

そして、一番に厄介なのが、私の「思い」です。
煩悩具足で、悪念の塊の私ですからね・・・、 「ただ聞く」ということことを、「私の思い」で、はねつけ、捻じ曲げ、弄んで、私自身が御法を厄介で難解なものにしてしまっているのです。

考えてみたら、運転するという行為のみならず、すべてのことにおいて人間関係に煩わされ、自分の思いに迷惑しているのですね・・・・・。
自分にさえもこんなに手を焼いているのに、如来さまの御苦労は如何ほどのものでしょう・・・。
南無阿弥陀仏
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

6月の輪読法座響流十方 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。