SSブログ

老少不定 [御法縁]

今日、通夜に行ってきました。
彼女からは、禅宗だと聞いていたのですが、お経(?)の最初から最後まで何度となく読みあげられる「南無妙法蓮華経~」
通夜式の後、葬儀場の人に、「日蓮宗ですか?」と尋ねたら、「日蓮系ですが法華宗です」とのことでした。
見慣れない祭壇に、聞いたことのないお経。
私は少し戸惑いながらも小さな声でただ一人、「南無阿弥陀仏」と称えさせていただきましたが、「南無妙法蓮華経」と口にしている人は、誰もいませんでした。
それにしても、宗派も知らずにお葬式を出すとは・・・? 今どきは、そんなものなのでしょうかね~?
隣りの式場から聞こえた『正信偈』の声が、とても有り難かったです。

しかしビックリしました。 金曜日の夜に、ご近所のお友達の旦那様がなくなられたと聞いた時は・・・。
だって、私の頭の中では、「ご近所での次の順番はあの人の番だな・・・」なんて勝手に死亡計画を立てていたのですが・・・、「老少不定!!」とズバリ指摘され、自分がそう思えても思えなくても、明日は我が身と言うのが真実。
いえ いえ、今、この瞬間に何が起こるかわからない、「今が後生ぞ!!」と指摘していただきました。 南無阿弥陀仏

彼女の旦那様ですが、身体中のアチコチが痛くてマッサージなどに通っていたそうですが、あまりの体調の悪さに総合病院にて検査をした結果、末期の肺がんだとわかり、それから、たった10日後の死亡だったそうです。

しかし、妻である彼女をはじめ、家族も親族もとても明るいのです。
確かに彼女の旦那様は婿養子に入られ、肩身の狭い思いをされた方だとは思いますが、まだまだ現役世代の夫を亡くし、あんなにも明るくしていられるのはどうしてだろう? と、ちょっと不自然さを感じました。
法華宗では、後生をどうとらえているのか気になりましたので ちょこっと調べてみましたけれどわかりませんでした。

明日は朝から葬儀で、午後からは初七日の法要がつとまります。
葬儀のお手伝いは大変ですが、またいろいろな発見に出会えることを不謹慎にも楽しみにしながら、自分の死はそっちのけに放っている私なのです。 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

念仏を称うべし [御法縁]

許されぬ恋があるように、許されぬ愛もある。
でも、何もかもを許してくださる愛があるから、私は生きていられる。
それなのに、生きているのが辛い・・・
生きていることが辛い・・・

今日、ある言葉をいただきました。

  自分が本当に悪いと思ったら念仏を称うべし
  自分は悪くないと思ったならば念仏を称うべし
  どちらかよくわからなかったら念仏を称うべし

  気がおかしくなったら、おかしくなったままに念仏を称うべし
  生まれたまま、ただ生きているままに念仏を称うべし

南無阿弥陀仏
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

自分は冷静です? [御法縁]

あれから体調は悪化の一途で・・・、まったく情けない限りでございます・・・、 いつ襲われるかわからない発作も怖いですが、それよりも自律神経系をやられてしまうと、正直、本当に辛いものがあります。

今日、友人から、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざをちょうだいいたしました。
「仏法に限らずとも、冷静な心持ちでいなくては、人の話は聞けませんよ!」ということを私に伝えたかったそうです。

そこで問題となるのが、「今、自分自身が冷静かどうか・・・?」ということを判断しているのは、私本人であるということです。 つまり、基準が「自分」iあるという自己判断であるということです。
しかし、「自分のことを正しく見る」とか、「冷静さを保つ」というのは、そうそう簡単に出来るようなものではなく、けっこう難しいものだと思うのです。
単純な例を申せば、飲酒をしてもうろうするほど酔っぱらった人などは、「まだまだオレは大丈夫~、酔ってなんかいなよ、まだまだいける」な~んて言ったセリフを耳にしたりしますが、他の人から見たならばどうでしょうか…? 疑問です。 逆に、ほんの少しだけ酔っている人などは、「ちょっと酔ったかな?」なんて、ある程度は自分を客観的に観察することが出来るでしょう。
しかしそれも、今ある自分の心の動き次第で、過剰評価したり、悲観的評価をしたりと、なかなか正確に自分を見るということは難儀なことでござます。 だって、私は常に「主観」であり、「客観」なんて出来ませんもの・・・。

今日の私は、とても落ち込んでいました・・・。
落ち込む原因となった昨夜の電話・・・、その電話でお話しくださった法友が心配して送ってくださったメールには、「調子に乗って自己を見失ってもダメだけど、落ち込んで自己嫌悪してもダメよ。 なぜならば、どちらの自分も自身(心)を見失っているということだからね」 と言った内容のことが書かれてありました。
自身を正しく見られない時は、人からの話しをちゃんと聞くことが出来ないということです。

しかし、いったいどれほどの人が、ちゃんと自分を見ることが出来ているのでしょうか・・・?
仏教的に簡単な言葉ですませてしまえば、「仏智に照らされてこそ、本当の自分を観させていただくのだ」ということを言われますが、今、私がここで申し上げたいのは、もっと軽く浅い今生的なお話です。

とある法友からメールを受け取った私は、世間一般的な評価では「過剰」と言われるほどの反応でその文面を読み、それを自分自身に受け取りました。 つまり、その文章にはひとつも「!」マークなど付いていないのにも関わらず、私にとってその文章は、かなり威圧的で、とても攻撃的で、冷血な冷たさをもった命令的な…、そんな弾圧的な、「!!!」マークだらけの文章として読むことしか出来ませんでした。

文章や言葉のやり取りと言うものは、お互いの人間関係におおいに反映されますし、その時の気分で大きく変わることもあるでしょう。
しかし、少なくとも相手に心意を伝えたいと思ったならば、「言い方(書き方)」というものをしっかりと考える必要があると私は思うのです。 そこには、文章の上手い・下手よりは、どれほど誠意を伝えられるか…、ということにあるのではないでしょうか。

現に、「元凶は君にあるんだからな」との私に対して弾圧的なメールを送ってきた人自身も、私からのメールのみならず、その他の人から送られたメールや言葉に対して、その人の心意を深く汲みとることなく、自分勝手な受け取り方で相手を攻撃したり、見くだしたり、又時には悲観的に読んだりと・・・。 結局、自分の「思い」のところでしか読むことしか出来ていないのです。 それが悲しいかな…、自身にわかっていないのです。

だからこそ、少しでも冷静な自分でいなければ、相手の話(メール)を聞くことは出来ません。
High tensionでも、feel downしていても、自己嫌悪したって、怒り心頭であっても、恐怖心を抱きながらでも、ダメなのです。
しかし、「自分は冷静だ」と思っている人(時)こそ、一番ダメなのかもしれませんね。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

突然のメール [御法縁]

今夜も眠れそうになくて・・・・・  雨が降っているせいでしょうか? なんとなくBLOGを書いてみる気になりましたので、書いてみようかな・・。

自分の行動や言動というものは、なかなか自分自身では、その善し悪しなどというものはわからないものです。
たいていの場合、自分のことは棚上げにして、「自分は善し」、「相手が悪し」と決めつけて曲げようとしないのが私たち凡夫の性ですからね~ぇ・・・、厄介なことです。
「人の振り見て我が振り直せ」ということわざではないですが、他人の立ち振る舞いを見て、まずは相手の悪愚痴が出てきます。 そしてことわざには、「我が振りを見直せ」とありますが、実際はこれに反して、我が過ちを直す人など、なかなかいないのではないでしょうか。 
しかし、お念仏の御いわれを聞いた人であればハタと気が付くはずです。 「あぁ、我が身も同じだなぁ~、人のことなど言える身か・・・」と。
たとえ謝罪することが出来なかったとしても、自分が言ってしまったことや、やったことに、あぁ…、恥ずかしいことをした・・・、なんてバカなことをしたんだ・・・、などという心が起こってくるのではないでしょうか?
今回の件では、わたしには、いったいどんな成り行きで、何故に相手が疑心暗鬼に誤解しているのかが全くわかりませんでしたが、「相手のせいにしているのはお互いさまだなぁ~、自分は言い訳ばかりだなぁ~」 と教えられました。

この話しは二日前の金曜日のことでした。
一方的に誤解された上で酷く罵られたメールを唐突に受け取ったのです。
私は何のことやらさっぱりわからないままでしたが、そのメールの文面からパニックに陥ってしまい、また発作に見舞われてしまいました。 そしてどうしたらよいのかわからなくなって、薬を乱用することしか出来ませんでした。
しばらくして少し落ち着いてきたところで、事の内容を確かめたく、そのメールに書いてあった名前の方に問い合わせてみたのですが、その方も、「彼が何を言いたいのか意味不明・・・。 妄念か…?!」と・・・・・。

でも、そのメールにはいつも同様に、「事の発端はオマエが原因で、オマエが悪いのだ!」と書いてあることから、私に対して謝罪を要求しているのだろうとは思ったのですが、でも、話しの脈絡がわからないのです。
ただ私に発作を起こさせたいのか・・・、れとも、また追い込んで楽しみたいのか…、とさえ勘ぐってしまうようなメールでした。

しばらくして発作は治まったものの、昨日も今日も体調はガタガタです・・・・・・。
つい数ヶ月前でした。 彼から、「僕のせいで病気になったのだから、僕が命がけで君の病気を治す!」、「君の病気を治すことが僕にとって最優先の課題なんだ!」などと言っていたあの言葉が、私の頭の中で空回りをしています・・・。
ああ・・・、本当に世間は虚仮だなぁ~ と、しみじみ身に沁みました。

もう一つ、ことわざをあげるならば、「人の悪きは、我が悪きなり」です。 つまり、相手が自分に対して悪意を持った態度を示してくるのは、こちら側に原因があったからだということです。
私は、なかなか反省など出来るような高等な人間ではありませんが、彼にとって私という存在は、「最も悪しき人間」なのだろうなぁ…」 ということくらいは推測出来るので、今一度、我が身を振り返ってみようと思っています。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

何もない [御法縁]

みなさま、お久しぶりでございす。 m(__)m

書きたくて 書きたくて 仕方のなかった時には、忙しくて書く時間がなかったり、体調が整わなかったりと書く御縁に恵まれずに、イライラッとした気持ちがここしばらく続いておりましたが、でも今日は、ホッと一息ついて、久しぶりにBLOGを書いてみようかなぁ~… なんて気持ちになったわけでありす。 が・・・・・
しかしながら、何もないんですね~~~。

もちろん、自分の中の感情は常に動いておりますし、自身を振り返りたいことや、外部に発信したいことなどはたっくさんございます。
でもこの『蓮華の薫るこの庭で』で書きたいことが、今は空ッポなのです。
つまり、私の中には、「仏」も、「法」も、それらの欠片すらも、何もないのです。

ですから、いざ書こうと思っても、私の中からは何も出て来ません。 出で来るものはしょうもない今生事の愚痴ばかりです。
いったい私から愚痴を取り除いたら何が残るのかしら? なんて考えてしまいます。
ここで、「仏法では、云々」といった講釈なんかしても仕方ありませんしね・・・

ただ、今は、本当に何もない自分だなぁ~ってところで、生きている・・・、生かさせていただいている意味をヌボ~ッと考えながら、眠気に襲われている、そんなところです。

   まことに知んぬ。 悲しきかな、愚禿鸞、
   愛欲の広海に沈没し、 名利の大山に迷惑して、
   定聚の数に入ることをよろこばず、
   真証の証に近づくことをたのしまず。
   恥ずべし、傷むべし。                  注釈版聖典「信巻」P266

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

騙し騙され地獄行き [御法縁]

グッチーさんから、「『親鸞展』も最終日だし、今から行こうと思うのだけど…」とのお電話をいただいたのですが、「残念! 実は私、もう行って来ちゃったの!」と・・・。
彼と一緒に見学することで、またいろいろな心の動きと出会えるかしら…、一緒に行きたいな… とも思ったのですが、すぐに出かけることの出来ない事情があって、彼が『親鸞展』を見学した後に会うことにいたしました。

グッチーさんとの待ち合わせ場所に向かう列車の中で、近くにいた70歳代ほどのご婦人二人の会話を聞くでもなく耳にしていたのですが、一方のご婦人が、「自分が、いつ、ど~なるかわからんもんね~」 とおっしゃった言葉にピクリッと反応いたしまして、フムフムという感じでその会話に興味を持ったのでありますが・・・、
 「自分が、いつ、ど~なるかわからんもんね~」
 「ホントよ~! だから人の話はちゃんと聞いておかんといかんのよ~!」
 「そうね、今度いつ車が壊れて、JAFを呼ばんならんかわからんもんね~」
と・・・、 結局は取るに足らないこんな会話だったわけですが・・・、無常を無常とも知らず…、ましてや我が身の無常には真逆に背を向けている私であるにもかかわらず、ピクリッと突いていただけるまでにお育てをいただき、まこと迷惑な有り難さにございます。

一度気になりだすと、どうも興味がそちらにそそがれ、名古屋駅に着くまでずっとそのご婦人らの会話を聞いていたのですが、こんなお話しもしておられました。
 「だけどニセ者だったらどうしよう~。 でもね、ホントにテレビで見るのと瓜二つだったのよ!」
 「イヤ~すごいね~、えらい得したね~、写真まで一緒に撮ってもらって、これ家宝になるね~」
 「そうでしょ! もしもニセ者だったらこんな写真撮らせてはくれんよね~。 
  でもさ~、もしニセ者だったら悔しいわ~、騙されたってことだもんね!」 と・・・。
どうやら一方のご婦人が、石原○○さんというタレントさんとヒョッコリ出会って、自宅に立ち寄ってもらうご縁に恵まれ、証拠の写メまで撮らせてもらったそうなのですが、それは彼女にとっては夢のような出来事であり、嬉しいけれども未だに信じられないというのです。
私からしてみたら、タレントさんと会うってそんなにエライことなん??? それが本物かニセ者か、それって重要なことなん??? なんで写真が宝になるっちゅ~ねん??? 騙されたってエエやん、何か減るものがあるわけでもなし…、 その時は有頂天に幸せだったんとちゃうの???  などと、まったく彼女らを小馬鹿にしながらその話を餌に時間を過ごしていたわけでありますが、そう言っている自分はどうなん? と、フッと立ち止まってみた時に、こんの言葉が浮かんでまいりました。

「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候。」
『歎異抄』第二章にあるお言葉です。

一念の信に射抜かれた人は、「今生の一大事」よりも、「後生の一大事」の方が苦になって、この世のゴタゴタは二の次になるのだ・・・ なんてことはサラッサラございません。
私というヤツは死ぬまで 「今生の一大事」で逐一 悩み苦しみ続け、「後生の一大事」から逃げ続ける輩には変わりないのです。 
だから、「馬鹿された!」と怒り狂ったり…、「騙された!」と後悔をしてみたり…、 事あるごとに他人のせいにし続けて、いつだって相手が悪いと思い続けている、そんな自分が消えてなくなるわけではございません。

でも、たった一つだけ、人のせいにも出来ず、 「騙された~!」 との後悔の出来ないものがございます。
それが、上記のお言葉にございます。

人は騙せても、真実の目を通して観させていただいた私自身を騙すことはできません。
たとえそんな私を騙すことが出来たとしても、真実を騙すことは決して出来ないのです。
人を騙すことも、人から騙されることも日常茶飯事ですし、自分さえも自分に都合よく騙しているのが私です。 これを人のせいにして、騙した・騙されたと迷いの猛渦でもがき苦しんでいるのが私なのです。
その苦悩の猛渦を作っているのは、まぎれもないこの私自身で、そのスクリューの底の底に私の地獄の入り口があるのです。 私は、そこへ行くための渦を絶え間なく造り続けているのです。

自分の造った地獄へ堕ちるのに 騙した・騙されたもなく、また、これを後悔し、因果の道理を受け入れるということも出来ない・・・、 そんな私のためにお念仏となってくださったのが私の阿弥陀如来さまです。

お話しをきかせてくださった二人のご婦人とは名古屋駅にてお別れです。 南無阿弥陀仏
この後はいつも通り、Launchをして、Tea timeをして、Dinnerをいただきながらず~っとおしゃべりをして、楽しい時間を過ごさせていただきました。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

『親鸞展』 ひっかかり編 [御法縁]

結局、今夜も眠れそうにありません。 もうすぐ夜が明けてしまいます。
もう雪は降っていませんが、お庭は薄らと白くなっています。 積雪2~3cmはあるのかしら?

前BLOGの続きですが、今度は引っかかりを感じたところを振り返ってみようと思います。

一番に引っかかったところですが・・・、 展示会場に入ったところに掲げられているパネルに書かれてあった文章の一節です。 それが、一緒に行った法友とは、別々のところで引っかかりを持ちまして、相手が引っかかったところにはお互い引っかからず・・・、 これを互いに議論しあっているところがまた面白くもありました。
だって、「法論」ではなく「議論」なのですもの! 仏法を語っているようでいて、その実、ただ単に自分の意見を申し立てているだけなのですから、熱くなればなるほどに笑えて来ました。

まず、私が引っかかりましたのは、「私たちは、誰ひとりとして例外なく生きる価値のある存在なのだ」 という文章です。
考える間もなく、私が生きているということは、多くの命の犠牲の上に君臨しているということであり、その命の代償をあがなわずして、「私は生きている価値のある存在なのだ!」とは、とても言えないと思うのです。
「私が生きる」という欲を満たしているということは、私が食している命の犠牲だけではなく、数限りないもののおかげさまと、そこには私のための犠牲が常にあるだと・・・、 これに「ハイ、その通りです!」と頷くことは出来ずとも、自分のやっていることを一つ一つ見ていけば、これを否定することなど出来ません。
でも、法友は言いました、「だけど、人として生きているから御法が聞けるんでしょ! それは生きている価値ではないの?」と・・・。 

人間として生まれさせていただき、これを価値のあることだとするか・しないかは、こちらの判断基準でモノ申せることでは全くないと思うのです。
確かにパネルに書かれてあるように、また法友が言うように、「人は皆、生きる価値のある存在」なのかもしれません。 でも、その「価値」って、どんな価値なのでしょう?
もし、「価値」があるとするのならば、それは、私が口にできることではないと思うのです。
「人身受け難し 今已に受く。 仏法聞き難し 今已に聞く。 この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてか この身を度せん。」
これは、私を仏法に引き付けた『三帰依文』の文頭ですが、やはり、「なぜ生まれさせていただいたのか」、「なぜ生かさせていただているのか」、「これらを抜きにして生きるということはど~ゆ~ことなのか」という疑問と出遇わせていただき、その解決の完了をもって初めて「生きる価値」というものが出てくるのではないでしょうか?
しかも、その「価値」は私の方が云々言えるものではなく、あくまでこの身をくださった真実の方が持たれる意味だと私は思うのです。

また、その法友が引っかかった文章というは、「“南無阿弥陀仏”を称えれば、すべての人が極楽浄土で救われる」 というところでした。
言葉尻の上げ足はともかくとして、「“南無阿弥陀仏”一つで救うぞ!」 と言うのが阿弥陀如来さまのお約束であり、 「“南無阿弥陀仏”に極楽往生させるための力を込めたぞ!」 とお誓いくださっているのです。
そして、「これを必ず受け取ってくれる」 と信じてくださっているのも阿弥陀如来さまなのです。
これに対して、「お念仏は、称えりゃいいってもんじゃないでしょ! その御心を聞かせてもらわにゃ~ならん! これを「ハイ!」と受けにゃ極楽浄土には参れんだろう!」 との意見を申し立てているのはこちらの側の話です。
こちらがいくら 「お念仏だけでは物足りない」と思っても、「如来さまのお心がわからないから救われない」と思っても・・・、何を思おうと、何を言おうと、すべて私の言い訳と計らいでしかありません。
そんな私に向かって、私の知らないずっと ず~っと昔の過去世より、「“南無阿弥陀仏”になってお前を救う! 必ず極楽浄土へ参らせてみせる!」と 如来さまはお誓いくださっているのです。
その誓いに…、その真実に対して、「称えただけでは救われるはずがない!」と私は自分を立てて、長い 長~い間、如来さまを泣かせ続けて来たのです。 
これをいつまで続けますか?
私の願いはコロコロ変わります。 でも、阿弥陀さまの願いは、「“南無阿弥陀仏”を称えておくれ、救わせておくれ」 という、その一つを私にかけてくださっているのです。  南無阿弥陀仏
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

『親鸞展』 興味編 [御法縁]

この冬、初めての積雪です。
年に一度、降るか降らぬかといった土地に住んでいる雪好き娘にとっては、とても嬉しい出来事であります。 最近、また眠れない日が続いていますが、この雪のおかげで今夜は眠れそうな気がします・・・。

先日、親鸞聖人750回忌記念企画の『親鸞展』に行ってまいりました。 たいへんな盛況ぶりでずいぶん混雑しておりましたが、想像していたより展示品も多くて、けっこう面白かったです。

一番興味を惹いたのは、東本願寺より出展された園林堂の御本尊・阿弥陀如来立像でした。
何が興味深かったのかと言えば、やはり普段はここまで間近に、しかもショーケースにも入ってない、手を伸ばせば届くような距離にて阿弥陀如来像が安置…といいますか、展示されてあり、これを繁と拝することが出来たことに、「オォ~!」 と思ったわけであります。
が、 しかし・・・、 そこでまず私の視線を釘付けにしたものは、その阿弥陀如来像の御本体ではなくて、その足元に投げ入れられていた物であります。 つまり・・・、その如来像を囲むように敷かれたシートの上に投げ込まれた現金の山であります。
まるで、お金の池の中に咲いた蓮華の上におわす阿弥陀さま… と言った様相で、これを見てエゲツないものを感じつつも、その一方で大きく頷いている私もいて、ここ一ヶ所だけでも十分に親鸞展を堪能させていただきました。

主催者側が、この現金池を想像していたのなら、たぶん初めから賽銭箱を設置したでしょうね・・・。
きっと一番乗りに現金を置いた人の真似をして、次から次へとお金が投げ入れられたと想像しますが、俗な私が考えることといえば、「いったいいくらあるのかしら?」とか、「このお金の使い道は?」など、野暮のことばかりです。 それから、「どんな意味を込めて投げ入れられたお金なのかしら?」なんて…、現世利益を願って投げ込まれたお金かどうかはわかりませんが、そんなわずかばかりのお金を仏像に差し出して、人はいったい何を心に思い描くのか?!と・・・、 気がつけば他人はもちろんのこと、仏さまをも馬鹿にしている私でした。
常に自分は正しくて、周りの人たちはアホなことばかりしていると人を蔑み、そんな自分がまったく見えていなくて、 何よりも、私は自分がバカにしているその人たちに対して、「みんな如来さまの願いがかかっているからこそ、この親鸞展に来れたのよ!」なんて心の中で言ってのけている自分に、「オマエ、何様のつもりじゃ!!」 とのお叱りの声が聞こえてくるようでありました。

私が興味を惹かれるところと言うのは、まったくもって俗なところばかりでありますが、もう一つ、「へ~!」と思ったところがあります。 まぁ~、単なる知識不足だったということだけなのですが・・・。
親鸞さまのお父様であられる日野有範さまは、親鸞さまがまだ幼き頃に亡くなられ、親鸞さまの「無常観」への追及は、ご両親の死であると聞いていたのですが、親鸞さまは五人兄弟の長子で、父君の有範さまは、かなり老齢まで生きられたそうです。
これを知ってどうということはありませんが、「へ~」とは思いました。

俗話ついでにもう一つ、親鸞さまのご師匠さまであられる法然さまの肖像画が展示されていたのですが、その解説文に、「法然上人の特徴である後頭部のくぼみは、‘法然頭’と言われている」と書いてあり、「へえ?」という感じの苦笑いをさせていただきました。
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

2011年 「報恩講」法座 [御法縁]

今週頭に一泊二日で報恩講法座に参加させていただきました。
報恩講に始めて参加させていただのは三年前で、この時は「受付・会計係り」としてのお役目をいただいての参加でした。 二年目の去年は初めて「総括」という大役をいただき、この時は事前準備の段階からかなり忙しくて アップ アップの状態であったことを、今回、懐かしく思い出しました。
そして今年は初めて「生活係り」というものをさせていただき、それもリーダーとしての任をいただいておりましたのでそれなりに不安とか緊張とかもありましたが、実際の仕事としては、今まで興味本位でお手伝いをさせていただいてきたことが役に立ち難なく動くことは出来ました。
ただ、毎年のことですが、反省点とか問題点とかは後に残ります。 そういった、今も自分の中で動いている何かを整理したくて、今日もこのBLOGに書いていこうと思います。

今回、世話役のSyoちゃんから、「生活のリーダーをしてほしい」と頼まれた時には、「とても無理!」と、すぐに了承することは出来ませんでした。  お手伝いをさせていただくのは大好きですし、裏方の仕事も嫌いじゃない。 ただ、リーダーとしての責任を考えた時、私には無理と思ったのですが、Syoちゃんからその他いろいろな相談をされる内に、これを受ける決心がつきました。 

事前準備の段階から気になっていたことは、そのメンバーでした。 経験者がほぼゼロのうえに人員も少なく、それが不安のタネでもあったのですが・・・、 当日は、これが別の形でストレスとなり、それ故に良い経験をさせていただいと思っております。

一番に考えさせられたのは、「何が聴聞なのか・・・」ということです。
メンバーに仕事の依頼をしても、「ハイ」と返事はしてくれるのですが、仕事はしてくれない・・・。
「私は聴聞に来たのだから」という理由で、他人のお世話よりも、まずは自分さまのご信心が最優先!
「法話を聞かなきゃ始まらない! 座談に出なきゃ意味がない! 私だけが一大事!」 と・・・。
ご名答! それはその通りなのですが、しかし、「聞かなきゃ~、聞かなきゃ~」と言っているだけで、何を聞かせていただくのか? その軸はどこにあるの? そこのところが抜けているように思いました。

以前 Yuさんから 「奈っちゃんは御法座だけの仏法になっている」と指摘された言葉を思い出しました。
確かにそうだった! と、今にしてやっと、なんとなくですが頷けます。
だって私は、ただ自分の気休めのために法座に出ていただけだったと、今にして思います。 あの時は、「自分は真剣に聴聞をするんだ!」という意気込みだけで、何を聞かせていただくのかということが、ブレにブレていました。
それに、こうして法座に座らせていただけた御縁ところを喜ぶだけで、この御座が催され、今、この私に至るまでのご苦労なんて、頭の中でチョチヨッと触れる程度で、微塵もわかっちゃいませんでした。

仏法は、この私の身を通して聞かせていただくものです。
だって、この私が居ったからこその仏法なのですもの。
「この私」の中に居ってくださる如来さまのご苦労を聞かせていただくのですもの。

この報恩講法座の二日間で、私はどれほどの怒りを生みだし、愚痴を吐き出し、人に迷惑をかけ、自惚れを肥大させてきたのか・・・・・  悪に限りなし! 私は悪の製造工場でした。
係りの仕事が忙しくて法話や座談に参加出来なかったのではなく、もとより聞きたくないんです。
係りの仕事が気にかかって御法話に集中できなかったのではなく、もともと聞く気がないんです。
それなのに自分の都合に合わせて、自分を正当化させるばかり・・・
つまり、じっくり腰を据えて法座に参加できなかったことを「損」としてみたり…、この身を通して聞かせてもらったと自讃して「得」としてみたり…、我が心で自分に都合のよい損得勘定をしているだけなのです。
そんな心には一切用事はないけれど、そんな心しかない私だからこそ、そこのところで、想像を絶する御苦労の末に “南無阿弥陀仏”となって届いてくださるその御心にふれさせていただける。

「報恩講」って、どんな意味があるの?
その御恩徳というものを考える時、私はいつも思うのです。 この場に私が居らせてもらえるのはなぜだろう?って・・・
その末席に居らせてもらっているということは、この私一人がお目当てだったということです。
「この私」を抜いては、仏法は聞かれないです。

報恩講法座のお世話を通して、「こんな私」を いっぱい いっぱい 観させていただきました。
その数分だけ、如来さまの御苦労を聞かせていただき、同じ数だけ、何も聞けていない自分を知らされました。  南無阿弥陀仏
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

晨朝勤行 [御法縁]

西本願寺の晨朝勤行(じんぢょうごんぎょう)に初参加させていただきました。

夜明け前、ほんのり冷たい秋の空が白み始めた頃、まだ車の音もまばらな京都の街に行事鐘の音色が朝の空気を揺り起こすかのように鳴り響きました。
その音色を境内にて心地よく聞きながら本堂へと向かい、『讃佛偈』の読経が始まると同時に堂内に入ると、既に200名ほどの方が座してお朝事に参加しておられました。
私は、後方のど真ん中辺りに座をとり、お念仏をしながら耳に読経をいただいていたのですが、「いっさいく~く~(一切恐懼) い~さ~だいあん(為作大安)」のところをなぜか唱和していて、そこで、どんな意味かもわからないまま何かこみ上げてくるものを感じました。
その後は、うる覚えのところだけでも読経に参加しようと試みたのですが、やっぱり全然覚えていなくて・・・、格好つけの口パクです。
ただ最後の、「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」 のところだけ、「あぁ、覚えているぞ」と声に出し、これを耳に聞きながら、「あぁ、そうだった、そうだったんだ」といただきました。

本堂を出ると、真正面、東の空に朝やけの美しい景色が広がっていました。 
「わぁ~、きれい~」と見とれていると、後方にいたおばさま方が、「早朝からお寺詣りをしてお経を聞かせてもらうと気持ちがいいわね~」と話しておられるのを耳にして、フッと自分の心を見てみると・・・、 「うん、確かに気持ちがいいぞ・・・」。 お寺詣りが気持ちいいわけでも、お経が気持ちいいわけでもないと思うけど、でも、なんだか気持ちいいと感じている私がいました。

本堂から御影堂へ移動して、今度は最前列に座をとり 『正信偈』のお勤めに参加させていただきました。
いや~~~~~ 、 『正信偈』で大泣きをするおじさんを知っていますが・・・、 まさか自分もあんなんになるとは思っていませんでした。 こんなことなら、後方の片隅にでも座っておくべきでした・・・。

私は真宗を聞きかじりながらも、『正信偈』すら、ここに何が書かれてあるのか、その内容の全てを知ってはいません。
ただ、「帰命無量寿如来」と「私」、 「南無不可思議光」と「私」、 今、その現実がここにあるのです。
それは、 お釈迦さま、 龍樹大士さま、 天親菩薩さま、 曇鸞大師さま、 道綽襌師さま、 善導大師さま、 源信和尚さま、 法然聖人さま、 これら高僧方が命をかけて伝えてくださったお念仏で、 それを親鸞さまがあきらかにしてくださいました。 これを蓮如さまが広めてくださって、ご先達方が人から人へとお念仏を相続してくださったおかげで、いま、ここの場に私が座らせていただいてるのだと・・・。
私には、そのご苦労を微塵も知ることなど出来ません。 考えたことすらありません。
でも、『正信偈』は、どこまでも どこまでも 果てしなく深い。 それをドキッと感じさせていただいて、この相続の末端が私であり、この私一人がおめあてだったのだと知らされたら・・・、なんだか涙が溢れてきちゃったんです。

「南無阿弥陀仏」が何なのか、私が知っているのは見・聞きしたほんの小さな知識のみで、本当は何一つわかってはいないけれど、でも、その「南無阿弥陀仏」によって、いま、ここに、私が座らせていただけていたんです。
「如来の願力どこにある!」、「御働きなんて糞くらえ!」、「大嫌い! 大嘘つき! 鬱陶しいぞ!」 と如来さまを罵っていた私。 きっと、また縁をもよおせば私の中からはワンサカと悪態が飛び出すでしょう。
そんな私だからこそ 「南無阿弥陀仏」しかなかった。
なんか訳わからんけど・・・、 御苦労だとか、御力だとか、私には何もわからんけど・・・、 でも、こんな私だから御苦労をおかけして、こんな私のために「南無阿弥陀仏」になってくださった。

『正信偈』のお勤めの後には短い御法話をいただきました。
親鸞さまの御教え、蓮如さまのお言葉をそのまま伝えて、そのまま受ければいいだけなのに、「私」が入るんです。 それが邪魔なんです。 説く方も、聞く方も、その大きな邪魔モノを持っているだなぁと聞かせていただきました。

私は今まで、「自力」とは、自分の力で力むことだと思っていました。 でも違いました・・・。
私そのままが自力でした。
何も力など入れなくても自力は自力であり、どんなに力んだところで、それは単なる独り相撲でしかありませんでした。
だって、他ではない、まるごとそのまんまの私自身が自力だったんです。

お朝事の最後に蓮如さまの『御文章』をいただきました。 蓮如さまからの御手紙は、一通まるまるで完結だったんですね~。
シーーーンと静まりかえた御影堂で、泣きながらツイッと出たお念仏に、周囲からは一歩引いた奇異の視線が寄せられましたが、私一人が儲けた感に、表面的な気恥ずかしさよりも憍慢な私が恥ずかしかったです。

晨朝勤行が終わって御影堂を出ると、今度は真正面より朝日が私めがけて一直線に放たれていました。
ホンに気持ちの良い朝でございました。
西本願寺の晨朝勤行.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

傷付けずにはおられない [御法縁]

自分の発した ひと言 ひと言が、誰かを傷つけているんです。
こちらに傷付ける意思など全くなかったとしても、私の発したひと言で傷ついている人がいるんです。

人は、誰もが皆、多かれ少なかれ何らかの傷を抱えながら生きています。
遠い過去に受けた傷が癒えぬままに今を生きている人もいるでしょう…、 その傷を忘れてしまったかのように生きていながらも何らかの縁によってその痛みを呼び起されるということもあるでしょう…。
その傷の痛みは、自分にしかわかりません。 身体に受けた傷も、心に受けた傷も、他の人と分け合うことなど出来ませんし、その痛みをわかってあげることも、わかってもらうことも出来ないのです。

例えば、「君はわがまま」 と言われて、あなたは傷付きますか? また、傷付いたとしたら、その痛みはどれくらいのものですか?
そのひと言を発した相手との人間関係や、その時の言い方、また今現在の自分の心境などによっても受け止め方は様々だと思います。

もしも愛し合っているホットな恋人から言われたならば、そのひと言にも愛を感じてペロッと舌を出しながら嬉しく思うかもしれません。 もしも仲むつまじい連れ合いに言われたならば、そんなわがままな私でも愛してくれているのねと、そのひと言が安心感に変わるかもしれません。
でも、もしも大嫌いな人間やわがままこの上ない上司などから言われたならば、きっと怒り心頭になるでしょうし、 もしも尊敬している師や片思いの恋人などから言われたならば、悲しみに落ちて行くかもしれません。

また、その言葉を受けた側のその時々の心境によって、同じ相手から言われたひと言であっても、嬉しかったり、悔しかったり、悲しかったりと変わってくるでしょう・・・。

それから・・・、 もしも 「君はわがままだ」 というそのひと言が、受けた相手にとって、過去に受けた傷、トラウマを呼び起すキーワードであったならばどうでしょうか・・・?
そのひと言を発した本人の意図しないところで、これを受けた相手をひどく傷付けてしまうことになるでしょう。

「傷付けるつもりなどなかった」というのは言い訳です。 「こんなことで傷付くなんて、受け止め方が悪いんだ」というのも、「勝手に傷付いて・・・、なんで傷付くのか訳がわかん」というのも、自分を正当化させるだけの言い訳にしかすぎません。
そうやって平気で人を傷つけ、自分に言い訳し続けているのが私なのです。

あるひと言で、ひどく落ち込んだことがあります。
あの時の私には、その相手から発せられたそのひと言を、受け止めることも聞き流すことすらも出来るような状態にはありませんでした・・・。 そして、未だ乗り越えていない過去の傷をさらにえぐられて、悲しみ、怒り、我を失うほどに 痛く 痛く 傷付きました。
その痛みは、自分にしかわかりません。 その傷を負わせた相手にも、どれだけ身近で親身になってくれる親や心友であっても、自分の受けた痛みをわかってもらうことなど無理な話なのです。

でも、私は傷付けられるばかりではありません。 何もわざわざ仕返しなどしなくても、私が傷付いたと同じように、私も自分では気付かない所で人を傷つけているのです。 私のひと言で相手に痛い思いや悲しい思いをさせているのです。
誰かを傷付けずにはおられない・・・。
たとえ自分にそのつもりがなくても…、たとえ誰も傷付けずに生きて行きたいと願い努力していたとしても…、私という人間が存在している限りそれは無理なんです。 誰かを傷付けずにはおられないのが私なんです。
そうかと言って、「だったら死んでやる」というのもやっぱり誰かを傷付けることになります。

でもね、そんな私が許されていたんです。
たくさんの人を、そして自分さえも傷付けて止まない私が、許されてここにいるんです。
「たとえ無意識であったとしても何者をも傷付けることはしてはならない」でもなく、「傷付けずにはおれないヤツは生きていてはならない」でもなく、人を傷付けてしか生きられない自分なのだと気付いてくれればいい。 また傷付けてしまった、自分が悪かったと気付いてくれればいいと。

「こんな私です・・・」と観させてもらった時に力なく顔を上げてみたら、そのまんまの私が許されて生かさせていただいているのだと知りました。 こんな私だからこその御本願だったと。 南無阿弥陀仏
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

甘えてもいいんだよ [御法縁]

私は、なかなかの根暗人間です。
必要以上に人さまからの忠告を受け入れてしまうし、不必要に自分自身を責め立ててしまいます。
それを上手いこと吐き出せたら良いのでしょうが、そこのところも不器用な上に、ある人から、「君は、自分の話しを聞いてくれる人に寄り付いて行くが、そんなことをしていてもいいのか!」と問われ、私は、「話しを聞いてくれる人に近づいてはいけないのだ。 話しを聞いてもらってはいけないのだ」と受けてしまい出口を私自身で閉ざしてしまいました。
そしてしばらくは、ただ一方的に受け続ける状態が続いたのですが・・・、 心には限界がありました。
ゴミは、溜まれば溜まるほどに重くなり悪臭を放ちながら目の前を塞いでいきます。 そうなると、目にモノを見ても何も映らず、耳にモノを聞いても何も聞こえず、ただ ただ ゴミ溜めに埋もれて行く「私」というヤツを傍観することしか出来なくなってしまいました。

そんな状態の私でしたが、外から穴を開けてくださり、「安心して流してもいいんだよ、どんなモノでも流していいんだよ」と、場所まで作っていただいたことで、恐る恐るではありましたが、何も整理の出来ないままに上辺の方から 一つ 二つと吐き出すことが出来ました。
それでも、話しを聞いてもらうのはいけないことではないのか? こんなことをしていたらまたダメだ、逃げるな、甘えるなと言われるのではないのか? と、自分で作り上げた罪悪に畏怖する心は止みませんでした。

そんな私に、「奈っちゃん、甘えてもいいんだよ」 って・・・。
今までも、いろんな人がそう言ってくださったのですが、私は、どう甘えたらいいのかその甘え方がわかりませんでした。
でもそれは、私が 全部 今生腹で聞いていたからわからなかったんです。 
誰から言われても、その人の言葉としてしか聞けていなかったから今生事としてしか受け取れなかったんです。

でも、「甘えてもいいんだよ」というのは、そう言ってくださった人を通して、如来さまが言ってくださっていた御言葉でした。

この二年、何も聞けない私の耳にも、「そのまま 任せよ」との如来さまの願いを何度も聞かせていただきました。 その如来さまが、「そのわたしの願いに甘えておくれ」と言ってくださっていたことに、今の今までまったく気が付きませんでした。
「甘えてもいいんだよ」と言うのは、そう言ってくださった人の思いに甘えるのではありません。
「甘えてもいいんだよ」と言うのは、自分の導き出した考えに甘えるのでもありません。
善知識、御同行が、「奈っちゃん、甘えてもいいんだ」と言われたのは、「如来さまの願いに甘えればいいんだよ。 奈っちゃんは頑張らなくてもいいんだよ」って、そう言ってくださっていたのに、私は、人に甘え、自分に甘えて、その行為を自分自身で叱咤して・・・・・ そんなことを ずっと ず~っと繰り返してきたのです。

「甘える」というのは、如来さまの願いを聞かせていただいて、これを受け入れることでした。
私が自分を許す・許さないじゃないんです。 自分で自分をどれだけ責めても苦しくなるばかり・・・。
こんな私を責めることなく許してくださっている如来さまの願いに甘えさせていただく。
「そのままでいいよ 任せておくれ」
そのままの私を許さなかったのは私自身。 でも、そのままの私を抱きしめてくださっている如来さま。
私は、「そのままの私」にかけられた願いを聞かせていただき、そのお慈悲の心を「はい」と受けて、その懐に甘えさせていただくだけでよかったんです。

「何を聞かせていただくのか」がブレていたから、「甘えるな!」とは聞いても、「甘えてもいいんだよ」とは聞けなかったんですね。 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

欲楽を求める蝶々 [御法縁]

家に居てもアレコレとしなければならないことに追われて、なかなか落ち着いて旅BLOGまで書くことが出来ずに残念です・・・。 と、言うことで、またまた食べBLOG!

6.1  猪口猪口.JPGこれまた二ヶ月近くも昔のお話しですが、名駅三丁目の 猪口猪口 (ちょこちょこ) というお店に連れて行っていただきました。 小粋で 大人の居酒屋さんという感じのお店です。
ここの私のお気に入りはデザートで、和風スイーツがとても美味しかったです! それから、メニューにはない「本日おすすめの日本酒」というのがあって、この日は、滋賀県の「里山」というお酒と、長野県の「豊香」というお酒を出していただきましたが、どちらとも美味しかったです!

さ~て・・・、 この日はどんなお話しで盛り上がったのだったかしら・・・?
そうそう・・・! 「仏法のことなど忘れ通しだね~ェ」 って・・・。 欲楽の世界に邁進することには努力を惜しまずに、その努力をしている自分に 「頑張ってるなぁ~ わたし!」 な~んて自惚れるばかりだけれど、 「仏法大事! 御法第一!」 って聞かせていただき、「ほんまに そ~やな~ぁ」 って思った端から欲の世界に埋没して行っているのですからね~、私は・・・。 言っている(思っている)ことと、やっていることが合致していないのです・・・。

私にとっては、まずは、今生事が最優先!!  その隙間に自分に都合よく仏法を割り入れているだけなのに、いかにも 「私は仏法を求めています」 と言わんばかりに御法座や御法縁に出かけさせていただいているのです。
外っ側だけでなく 自分の内っ側も同じです。 まずは、「私の思い」が最々優先!! こちらの方は満々に満ち溢れていますから 「仏さまの思い」の入る隙間はありません。
そこで私は、いかにも 聞いた・知った のところで 「仏さまの思い」を取り込もうとしているだけ・・・。
結局は、一人遊び・・・。 仏法ごっこで、御法までもを食い物にしてしまっている餓鬼そのものです。
それでも、悪いとも…、申し訳ないとも…、 私には そ~いった類いの思いの持ち合わせがないので、いつまでたっても頭が下がらないんです・・・。

さて・・・、 今の私は、何を最優先に生きているのかしら・・・? と 考えた時、具体的に出てくるものは特になく、あっちにも こっちにも まるで蝶々が どこよりも美味しい甘~い花の蜜を求めるが如く、定まり処を知らずにふらふらと飛んでいるようなもの・・・。 とりあえず、今の私を心地よく満たしてくれるモノを探し求めているに過ぎません・・・。

そんな私のふらふらとは違って、彼は、その欲楽を満たすためにまずはお仕事に頑張っておられます。
そして空いた時間に仏法を・・・、 と 行かなきゃならない気持ちはあるようなのですが、趣味の世界へと引き寄せられて、「こんなんで い~のかなぁ~」 な~んてお話しをしていました。
こんなんも、どんなんも、どっちに転んだって自分から御法に足を突っ込むような私ではありません・・・。
でも、こんな私の欲を満たしてくださるような御法縁を作ってくださった上で御法にふれさせていただき、そこで全くこの身にかからない私の後生を聞かせていただいているのです。
今、こうして 命を喰らいながら…、 愚痴を吐き出しながらでも、 法友と共に御法云々と口にさせていただいている私って・・・?  って、それを考えた時、 「すごくない?! こんなとんでもない私が、すごい御縁をいただいているよね!!」 って 御縁のレベルに留まりながらも、フッと湧き上がった想いを言葉に出して共感までさせていただける。

はぁ~~~、 本当に・・・、どこまで行っても欲のところでしか満足のできない私です・・・。

6.1 咲串おかげ屋.JPGそうそう、忘れてました! 
この日も またまた梯子をして、猪口猪口の後にいつものお店 咲串に
連れて行っていただき、またまたデザートをいただいちゃいました! 
咲串は、何をいただいてもホンに美味しです[るんるん]
ごちそうさまでした[黒ハート]
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

苦しめばOKなの? [御法縁]

もうひと月以上も昔のお話しなのですが・・・、 名駅三丁目の Diavolo e Bambina (ディアボロバンビーナ)というイタリアントラットリアに連れて行っていただきました。
忘れられないお味は、バーニャカウダーです。 初めていただきましたが病みつきになりそう~[るんるん]

5.18  ディアボロ・バンビーナ.JPGバーニャカウダーは、イタリア・ピエモンテ州の郷土料理のようなもので、「バーニャ」とはソースのこと、「カウダー」とは熱いという意味なのだそうです。
バーニャは、裏ごししたニンニクとアンチョビにオリーブオイルを加えてミルクor生クリームでのばしたディップで、これを専用の器で温めながらお好み野菜をフォンデュのようにからめていただくのですが、各家庭・各店によってそのお味は様々! ここ、Diavolo e Bambina は、食通の彼からもOKサインをいただいたほどのとっても美味しいバーニャカウダーでした[exclamation]

さて、この日は「聞けない者」同士の言い分? 言い訳… をアレコレと言葉にしながら如来さまの御苦労を感じさせていただきました。
「僕は、奈っちゃんみたいに御法を聞いて苦しくなったりしないから・・・、 だからまだ信心をいただいていないと言えるんだ」と言われた彼の言葉に、まず、私っていったい何に苦しんでいるのかしら? と思いました。 そして、苦しめばOKなのかしら? との疑問も・・・。 また、それが信心をいただいた証拠といえるのかしら・・・? とも・・・・・。

確かに、御法を聞かせていただいて苦しいと思ったり…、悲しいと思ったり… と、 私の中は 常に 「私の思い」で溢れかえっていますが、 私の感情が何?・・・、 それを問題にしていても仕方がないでしょ?!・・・ と聞かせていただいた通りに、 自分の感情、内面ばかりを相手にしていても出口は見えない・・・ と思います。
また逆に先輩同行さんから、「笑っていては聞けない」、「無感動な表情だからダメ」、「苦しみが足りない」 などと言われることも何度かありますが、外面的なそれらについても何だかズレて行くような気がして、このことをあまり深く考えたことはありませんでした。
だって、それらに心を寄せて行っても、それは結局、自分の「思い」を相手に一人相撲をとっているにしか過ぎない・・・ と思うのです。  
なんてね! そうは頭の中で言っているのですが、実際のところ、 私はいつも自分の「思い」の耳でしか聞けていないし、それ故に 自分の「思い」の結果で あ~だ こ~だ とほざくばかり・・・。  まさに一人相撲です。
いつも如来さまを抜きにして、「私」という土俵で、一人、七転八倒しているだけなのです・・・。
命がけの真剣勝負で私と向き合ってくださっている如来さまの前で、私は何をやっているのでしょう・・・。

そうやって、自分のはからい心ばかりを相手にしている私・・・。 それが迷っている姿・・・。
そう指摘されても 痛くも痒くもなく、何にも感じていない私・・・。 それが狂っている姿・・・。
そんな私だもの、御法を聞いて苦しいだなんて思うはずがなく・・・、 私が苦しいのは、果てしのない我欲ばかりを追い求めているからです。
それは御法に対しても同じで、自分のわかる範囲のところの欲望に手を伸ばしてばかりいるから・・・、 それが満たされないから苦しいのです・・・。
こんな 哀れで 惨めで ちっぽけな私を見つけてしまったのが如来さまの御苦労の始まり。
私が苦しいのではなく、私の如来さまが苦しんでくださって、御苦労をしてくださっているのだと・・・
その証拠が、私の口から出させていただく 「南無阿弥陀仏」であり、これ以外には有り得ないです。

残念ながら私には信心なんてものはわかりません・・・・・。 
ただ、私がどんな「思い」であっても、証拠の「南無阿弥陀仏」を口に出させていただく他に、私に出来るお仕事などないなぁ~ と・・・・・。

さてさて、少し飲み足りないかな? な~んて、二軒目に連れて行ってくださったのは、 Diavolo e Bambina の道向かいにある Neat (ニート)というBarでした。
シックだけれどもカジュアルさもあって、なかなか雰囲気のよいお店です。
フレッシュフルーツで作っていただいたカクテルはとても美味しかったのですが、フルーツ名でオーダーしてしまったために、カクテルのネーミングを聞きそびれてしまったのはちょっと失敗でした。
いただいたのは、ストロベリーと、パッションフルーツと、メロンのカクテルで、赤・黄・緑の信号色。
また行きたいお店に登録決定です![手(チョキ)]
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

御法座で 何を聞くの? [御法縁]

ここのところ、また体調の安定しない日々が続いておりますが、心悩ます問題をあれこれと抱えていながらも精神的にはそう悪くもなく、今日から二日間の御法座に参加させていただけることになりました。
憂鬱といえば憂鬱なのですが・・・、 後生にも 今生事にも 様々な難問題は山積みの状態であるのにもかかわらず、なんとなくいつもとは違って落ち着いている私がいます。

この御法座に参加するにあたって数人のお友達からMailをいただきましたが、その中に、今回会館デビューをなさる方がいて、とても緊張しておられるご様子をお話ししてくださいました。
思えば、私も今回の御法座でまるっと二年になり、初めて会館デビューを果たした日のことをあれこれと懐かしく思い出させていただきました。 初心忘るべからずです!

「御法座に参加させていただける」というのは、本当に御因縁だと思います。
それは、私の作った「因」ではなく、この私一人のために如来さまが過去世より積み重ねてくださった宿善によって法水の中につけていただくという尊い「御縁」を、ただ丸貰いしているだけにすぎません。
私と言えば、御法は尊いものだと時折感じさせていただきながらも、聞いた、知ったと言っては御法を自分の中に都合よく取り込んでしまうだけ・・・
だから、自分の都合に合わない御縁が巡り来たならば、その瞬間に「御法なんて!!」と 簡単に切り捨ててしまえるのです。
「私が、一つの御法座に参加させていただく」 という、自分にとってはとても些細な日常の一ページだと思っているこのことに、いったい如何ほどの御苦労を如来さまはしてくださったというのでしょう・・・。 
そんなこと・・・、 私にはわかりません。 ともすれば、如来さまのご苦労を否定するような心さえも 縁によっては飛び出てくるような私です。 いえいえ、 もともと根にあるのでしょうね~。
そうやって、如来さまが私のためにどれほどの御苦労を積み重ねてくだされようとも、これを平気で蹴散らす私がここに居るということ。 そんな私の口から「南無阿弥陀仏」と出させていただいているという事実。 こればかりは否定できません。

自分の内を観れば、いつだって絶え間なくドロドロです。
人の言葉に振り回されて、落ち込んだり…、挫折したり…。 人目ばかりを気にして、すねたり…、いじけたり…。  また、自分に甘えたり、 また、ほかのモノのせいにしたりしながら、 私は、如来さまが御苦労の結果として切り開いてくださった道とは真逆な方向へ行くことばかりしています。
そんな私をお叱りになることもなく…、あいそを尽かすこともなく…、 ただ私の来世を見据えて 過去世より 永い 永い間付きっきりで寄り添ってくださっている如来さま。
「今、ここで聞いて!」との願いによって整えてくださった御縁をいただいたからこそ、今日の御法座に参加させていただくことが出来るのですね。

如来さまは、何を 「聞いて!」 とおっしゃっておられるのか・・・。 
そこのところを見失っては聞き損じるばかりです。 もったいない…、 もったいない…。 
せっかく御法座に参加させていただくのですからね! 今生事に・・・、そして自分に流されることなく、しっかりと聞かせていただかなくっちゃ! たとえそれが凡夫のはからいであったとしても・・・・・
それでは、行ってまいります!!  ガンバレ! 奈っちゃん[exclamation×2]
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

高山別院 「仏智疑惑」の投稿文 [御法縁]

5.29 A.高山別院.JPG朝市の後に、高山別院 光曜山照蓮寺(こうようざんしょうれんじ) に寄せていただきました。 
高山別院には観光バスが止められるほどの大きな駐車場が完備されていますので、古い町並みの観光拠点として多くの人たちが出入りをしているのですが、残念なことにお寺自体に興味を抱く人は皆無と言っていいほど・・・、 通りすがりにトイレに立ち寄った人たちが境内でフラフラとしているだけで、いつ寄っても本堂はガランと静まり返っています。

私たちは本堂でお参りをしてから事務所の方へ寄せていただき、そこで、私の趣味ですね~ _(^^;)ゞ 
「ご自由にお取り下さい」との機関誌などを一通りいただいてまいりました。
その中の一枚に、高山教区の真宗同朋会から出された機関誌がありまして、なんだかとても共感の持てる文字が目に飛び込んでまいりました。
教務所の主計さんがお書きになられた 「仏智疑惑」 と題された投稿文なのですが、その一部をここに転記させていただこうと思います。 (高山教区真宗同朋会機関誌 第47号 より)

 私は宗祖の教えに触れる機会をいただいているはずだが、どうしても自分として湧き上がる気持ちが起こらず、生活の中で教えが展開しているという実感が持てない。
学びの中で、自分という存在が客観的にしか位置づけられなく、自分自身が問われていないことにもどかしさを感じる。 言わば、教養としての学びとなってしまい、自分を問うにしても教えを理解するための手段となっているのではないか。
 (中略) 私の存在、人生が問われない信はただ思い込んでいるだけのものであり、自分に言い聞かせ信じさせていただけなのである。
私に(「お前は宗教に洗脳されている」と)指摘した人が仏の世界を知らないだけだと思い上がっていたが、私の方が勘違いをしていたのであった。
 私は教えに出遇い感動していたつもりだったが、私が求めているものは一体何だったのだろうか。
仏教とは特別な苦しみを抱える人のためにあるのではなく、すべての人を問い、すべての人が救われていく道である。
しかし、私は救われざるものであるとは思いもせず、必要としていない。
都合が悪くなったときだけ助けを求め、理想に適ったときだけ信じるのが現状ではないか。
「阿弥陀仏の名を称えよ」との本願の呼びかけに本心から応えることができない。
このように本願も疑い、救いを求める心が生まれてこないため、聞きたずねることができない。
仏を念ずるとは言っても、いざ口から出てきた念仏とは期待が伴なう条件付きの自力念仏である。
しかし、そもそも自己中心的なこの存在が、常に仏を思うことができないのではないか。
 阿弥陀仏は教えを信用しないものをも先に見越して、一切衆生を漏らさず救いとると呼びかけている。
実は、仏智を疑うここに阿弥陀仏がはたらき、我が身の現実を問わせようと促しているという。
歩みの中で行き詰ってしまったとき、そこに如来との出遇いが開かれる。
私が今まで唯一頼りにしてきた「自分」という存在が、罪深い凡夫であるということがあきらかにされるのである。
 如来の大慈悲心が十方衆生を包み込んでいるからこそ、疑いながらでも向き合い続ければ、我が身の事実を問い続ける如来との出遇いが必ず開かれるはずである。
自分で自分を見つめることは不可能であるからこそ、如来の真実心に尋ね続けるしかない。
自分の闇を知らされる道は喜んで進めるものではないが、この闇が照らし出されることから救いの道が開かれる。
宗祖親鸞聖人は、このことを我が身をもって実証され、この道を歩めと現代の我々にまで勧めているのである。 呼びかける親鸞聖人、そして750年間その勧めを伝え続けてくれた先達方を信じ、自らも我が身をもって明らかにしていくことしかないだろう。  

以上、転記させていただきました。
もし私がここに付け加えるとするならば、「後生の一大事」 かな。 
だって、何のための、誰のための ‘ 南無阿弥陀仏 ’ なのかということが抜けていてはねぇ~・・・  な~んて、人ごとじゃないのに、上から目線で言ってます・・・(^.^ゞ  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

「孤独」 高山からの帰り道 [御法縁]

7.4 めぐみや.JPG高山法座の後には、いつもの料亭でS先生と一緒にお食事をさせていただきましたが、今回はいつものメンバーとはちょっと顔ぶれが違い、故に会話の内容も変わって、ちょっぴり新鮮な感じでした。
「文句タラタラな私…」という御法話のお味わいから始まって、戦国時代の一向一揆による真宗の東西分裂の史実、また、鎌倉時代の本地垂迹から明治時代に薩摩藩が徹底した廃仏毀釈の歴史、それに、東寺の国宝、一位一刀彫のウンチク(?) などなど盛りだくさんで、楽しい時間はアッと言う間に過ぎてしまいました。

食事のあと高山駅まで送っていただき、先生の乗られる列車を待っている間までは疲れを感じることなく過ごしていたのに、先生の乗られた列車が見えなくなると同時に 夕食の時にいただいたお酒が回ってきたのか ド~ッと足に疲れを感じて その場に座りこんでしまいました。
帰路の高速バスに乗り込むことすら面倒に感じて、しゃがみこんだまま 「帰りたくない・・・」と 誰に言うでもなく 一人 ポツリと呟いた時に、「あぁ・・・  私は、独りが怖いのだ・・・」 と思いました。

幸いにも名古屋までは気心の知れた法友と一緒に居られる・・・。 でも・・・・・・
帰り道、バスの車内にて今回の御法座で聞かせていただいたこと、そして今のところでのお味わいを二人で語り合いながら・・・・・、 それでも私の中の孤独感は増してゆく一方で・・・・・。
だけど、その孤独を認めたくない私でありながら、孤独に成りきれていない私もあって、私、滅茶苦茶。

車窓から名古屋の街明かりが見えた時…、高速道路を降りる時…、名駅前の最後の交差点を曲がる時…、そんなポイント ポイントでは隠しておいたはずの孤独感が噴き上がってきて、言葉を失ってしまいました・・・。
そして自分の孤独感に対して誤魔化しを始めたところで、「後がない!!」 との叫び声が聞こえた気がして、 「あぁ・・・  私に孤独を感じさせてくださるのは、そこでしか如来さまと出遇えないからなのね・・・」 と、妄念妄想の世界に落ち着き処を作ってゆく私・・・・・。

名駅でバスを降りてから、賑わいを失った日曜日の飲食街にて一時間ほどの寄り道。
HANDPICKEDというお店に入り、二人でおしゃべりしながらも、私は自身の中で一人きり、自己嫌悪の反省会・・・。 自分がどこに立ち止まっているのかすらわからなくなってしまいました。

いつものように駅まで送っていただいて一人きりになると、御法を語り合う相手をなくしてしまったからでしょうか・・・、 孤独感が人恋しさに変わって・・・、 そうなると もう そこには仏も法もなく、「私」しかない と言うことが、ハッキリと浮き彫りになってきました。
そんな今生事の孤独を否定しつつも、こんな寂しい想いをするくらいなら、私は孤独を愛してやるんだ! と 虚勢を張ってヘンな方向に前進を始める私・・・。  迷から迷へ、 苦から苦へ・・・。
ただ傷つきたくないが為に自分の心を誤魔化して、引き潮のパワーを全開にしながら何もかも捨ててしまおうと、これまたヘンな努力を始める私・・・。  闇より闇へ、 苦より苦へ・・・。
果てしなく・・・・・ 止めどもない・・・・・・・・・・・・・

でも、どんなに頑張って「愛するモノ」、いわば「私が執着しているモノ」を捨てようとしても、「自分への 愛・執着」だけは、どう逆立ちして誤魔化したって捨てることが出来ないのですね・・・。
フッと、列車の窓ガラスに映った自分の顔から視線を背けた瞬間、一方通行の愛を感じました。
常にあさっての方向に、外ばかりを見てさ迷い続けている私・・・、 嫌悪すべき厄介者と知りながらも、そんな自分しか愛することの出来ない私・・・、 傷ついた、傷付けたと、そんなところばかりに気を取られている私・・・、 そして、一度も如来さまを愛したことのない私を、如来さまは大きな心で包みこんで、ひたすら一方的に ず~~~っと愛し続けてくださっている。
「よく続くよね・・・」
有り難いだとか、申し訳ないだとか、そんな高尚な思いなど私の中からは出て来ませんでした・・・。
でも、 ただ ポツリと称えた 「南無阿弥陀仏」を、耳に聞かせていただきました。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

GS先生と宇治金時氷パフェ [御法縁]

何から書こうかしら・・・ と悩んでいたところに、ちょうどGS先生からのメールが届きましたので、まだ多少なりとも記憶のある内に、先日お会いした時のことを書いておくことにします。
GS先生が休暇を利用して日帰りで名古屋に遊びに来てくださるとの連絡が、先週末にYuさん経由で入ったのですが・・・・・、GS先生にはお会いしたいのですけど・・・・・ σ(・・;)
それでバカ丁寧にお断りをさせていただいたのですが・・・、 しかし、どんな理由であれ、「不参加」との返事をしたことで、また いつもの調子で怒ってしまわれて・・・・・。
「勝手にしろ!」と言われるままに、その日はおとなしく自宅に籠もっておりましたら、11時を少し過ぎた頃に携帯電話が鳴りまして・・・、 でも、Yuさんからの着信だったので電話に出ることを戸惑っていたのですが・・・。
だけど、いつもになくけっこうしつこく鳴るので、この分だと自宅の電話にもかかってくるかもしれない… と思い、それならば先に通話中にしてしまえ! と受話器を上げたところ・・・、発信音も何もしないのでヘンだなぁ~と思って、「あれ? もしかして通話中?」 と呟くと、 「なんで 来~へんのや?!」 と、受話器から聞き慣れないけれども懐かしい声が・・・・・
「もしもし? どこの、どちらさまで?」 と とぼけてみたものの、再度、「なんで 今日、来~へんかったんや?!」 と 聞かれて、 「すみません、先生とは会いたかったのですが・・・」 と言ったところで、「じゃ~待っているから出ておいで! 何時間でも待っているから!」 と GS先生はいつも仏さまのようなことを言ってくださるので、断るに断れなくなってしまいました。
その上、「そっちまで行くから、一時間後に駅まで迎えに来てね!」 って話しになって、ど~していいのやらアタフタ!!
まぁ~ とりあえず駅まで車で出かけて待つこと20分・・・、 GS先生とYuさんが仲良く二人で登場されて、「さぁ~、奈っちゃん家経由でJGさんのお寺に寄ってから、いつものお好み焼屋さんへ行こう!」 と、Yuさん節でスケジュールも即決! ドライブがてら市内を少し回ってからいつものお店に着きました。

GS先生とは去年の永代経の時に初めてお会いして、とてもお世話になったのですが、それ以来直接的にはお会いしていないので一年ぶりの再会でした。
でも、お会いするのが二回目とも、久しぶりとも思えなくて、それなりの緊張感はあるものの、なんだか普段着でいられる気楽さの中でおしゃべりができたり、二人で一つのパフェを食べたり、とても楽しいひと時を過ごすことができました。
ただ、御法の面においてはGS先生はとても厳しいお方です。
メールではそれほどキツさは感じられないのですが、「否定されて当然の私」というところで ピシッとお話しをしてくださるので、一方的ではない会話の中では、言葉を詰まらせてしまった時点で、「自分」と思っている私が吹っ飛んで、頭が真っ白になってしまいます。
「聞いた・知った」ではない、自分の言葉で答えることの難しさ・・・。 これを裏返せば、何も聞けていないから何も話せなくなってしまうわけで・・・、 でも・・・、 「ここまで何も聞けていなかったのか・・・!!  私は、今まで何を聞いていたのか?!」 と、呆れるよりも、悲しかったです・・・・・。

「奈っちゃんにとって阿弥陀さまって何?」 「奈っちゃんにとってのお念仏って?」 「奈っちゃんにとって御本願とは?」 そして、「如来さまは、奈っちゃんに何て言っておられるの?」

私の阿弥陀さまは、私一人に向き合ってくださっているのに、当の私は、阿弥陀さまどころか、自分自身にもさえも向き合うことが出来ずにいます。
聞かれた質問に対してきれいに答えたところで、そこに私はいません・・・・・。
見えてきたものは、「身勝手で腹黒い思い」と、「自分勝手に都合よく解釈するばかりの浅はかな思い」
私の中には、否定されて当然のものしかありません・・・。 そんな「思い」の塊が私です。
そこにかけられた如来さまの願い、その御心を聞かせていただくのが聴聞。

この日の御縁を整えてくださったYuさんは調熟の御光。 そして、自身のはからい心でとどまり続けた私の元へ、わざわざ東京から会いに来てくださったGS先生は如来さまの御心そのもの。
この御縁を、ただ有り難いだけで済ましてしまわないように、今一度、振り返ってみようと思います。
私にとっての阿弥陀さまとは? お念仏とは? 御本願とは?  そして、如来さまは、この私に何て言っておられるの? ということを聞かせていただくために。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

その不審が肝要 [御法縁]

食べBLOGも、旅BLOGも、書きたいのに書けず終いで・・・、 でも、いつかは書きたいと思いつつ・・・、 あぁ~ めちゃめちゃ溜まっちゃっています・・・・・。
他にもやらなくてはならないことはいっぱいあるのに、なんだか、すべてにおいて中途半端にやり残しているといった感覚が山積しているような今日この頃です。
「所詮は今生事・・・、 捨てモノ、捨てモノ・・・」 と 言われてしまえば実も蓋もありませんが、私は、そんな捨てモノが大好きで、「捨てモノ」という拾いモノばかりしています。

さて、旅BLOGは連載が長くなってしまうので、食べBLOGを手短に更新していこうと思います。
とんと昔(二ヶ月も前)のお話しになってしまいますけれど、YTさんに居酒屋風のイタリアンレストランへ連れて行っていただきました。
何時間も御法のお話しをしていたはずなのに、記憶に残っているのは、いただいたお料理が美味しかったことだとか、世間話で印象深かったことだとか、そんなものばかりで・・・、 肝心なところが記憶からスッポリ欠落してしまっています。 とは言うものの・・・、何が「肝心なこと」なのかなんて、自身で計らっている以外のことは何もわかってはいない私なのですが・・・。

そう言えば、蓮如さまは 『御文章』の中に、「肝要」というお言葉で 肝心・要なところをお示しくださっていますが、かつて 「その不審が肝要である」 等々のお言葉が数多く目に付いて、「なぜに疑念が肝心なことだといわれるのだろう?」 と 疑問に思ったことを思い出しました。
私は、『御文章』の内容を理解できるような智恵などありませんので、その文章から蓮如さまの真意を読み取ることなどできませんが、私勝手に解釈すれば、「問題点を持って聴聞すべし」、「その疑念、引っかかりが大切なことなのだよ」、などと言われているように思っています。

それは、御法座にて聴聞している時にかかわらず、たとえば日常生活のひとコマであっても、それを問題にしたり、また、引っかかったところを掘り下げていく作業は大切なことだと思います。
特に自分にとっての悪縁を、タネといいますか、テーマにして聞いていくと、気付かせていただけることってたくさんあります。
もっとも、生きることに余裕がなければそれも出来ませんが、それでも良縁をいただいて後々にその悪縁を振り返ることが出来た時には、やはり如来さまの御恩徳に背き続けてきた自分を知らされるし、そんな私にかけられた御本願に触れさせていただけるのですから・・・、 まったくもって至れり尽くせりのお慈悲をいただくばかりの私です。

4.16 GiGi.JPGさてさて、お店は名駅三丁目の 「イタリア食堂 GiGi」 というカジュアルイタリアンレストランで、私のお気に入りはモチモチっとした手打ちパスタの料理と、それからとっておきはパルミジャーノでした!
少し前までは時折ワインを楽しんでいた私でしたが、ここ最近、日本酒の味を教えていただいてからはトンと遠ざかってしまい、久しぶりにいただいた赤ワインは、ちょっぴり大人の味がしました。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

響流十方 [御法縁]

天川村に来て二日目。 こんな山奥でNETがつながること自体が不思議・・・
私の目には見えないけれど、この空間にはたくさんの情報を有する電波が飛び交っていて・・・、  ただ私にはその電波を受信することは出来ないけれど、でもこのパソコンはその電波を読み取ることの出来る能力を持っている・・・、 そして私がこのような恩恵を被るに至るまでには、私では知り得ることの不可能な数限りない人たちのご苦労のおかげ様なのね・・・、 な~んて考えが沸いてきて、そうしたらツイッと、「仏法を聞くというのも簡単に言えばそ~ゆ~ことで、何も特別に難しい理屈の上に聞かせいただくということではないのだわ!」なんて、フッと思いました。

だって、如来さまは響流十方 叫び通しで・・・、 でも私の目には見えもしないし、この耳には聞こえもしない・・・、 だからそんなこと今まで全然知らなかったけれども・・・、 いえ、たとえこれを聞いて知ったとしても、私にはそれを受信する力などまったくないのです・・・。
でも、このような真実があるとの教えに出遭わせていただき、この私の口から「なんまんだぶつ」と出させていただくまでに至っている・・・。 ここまでお育ていただくのに、いったい如何ほどのお手間とご苦労をかけ続けてくださっているのなんて、この私には知る由もなりません・・・・・・。

これを、この私が 信じようと 信じまいと、事実は 事実として存在しているのだと、 ただ、そうお聞かせいただきました。  そう・・・、 何度も、何度も、お聞かせいただいているのに、身に添っていないから常にすっかり忘れ通しで・・・。
だけれども、こうした何気ない日常の中で不意に知らされるアレコレが、「あの時に聞かせていただいたのは、こ~ゆ~ことなのかなぁ~」なんて結び付いたりして・・・、 はぁ~~~、 「この世の中に、仏法と結びつかないものなど、何一つとしてないのだなぁ~」 なんて思ったのでありました。

それからもう一つ、 何度聞かせていただいてもすぐに忘れてしまう私だから、「今」、「ここで」聞かせていただかなければならないのだなぁ~、 「この私」のこととして、 とも思ったのであります。

さてさて、今日から合流しました麻呂さんからのお誘いで、今からみんなでスナックへ行くことになりました。 (詳細は旅BLOGに書く予定です)
そ~なんです! 修験道の聖地として名高いこんな山奥にもスナックはあるのです! では、行ってまいりま~す (^-^)v
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

ただ「運転する」 と ただ「聞く」 [御法縁]

今日は、奈良に来ています。 一年ぶりの天川村です。
でっ、今年はなんと! 一人で車を運転して来ちゃいました~ \(^o^)/
先週、イエローハットでETCを取り付けて、そしてディーラーでカーナビのディスクを新調して!!  事前準備での出費はちょぴり痛かったけれども、でも、念願の一人ドライブ旅に出かけられることが出来たこと(^^)v、自分で自分を褒めてあげたい! な~んちゃって… (^.^ゞ

旅BLOGは、帰宅してから改めて書く予定ですが、一つだけ、今日思ったことを書いておこうと思います。

車を運転するのは好きではありません。 キライと言った方のがシックリときます。
でも、昔は自分で運転をしてあちらこちらへとドライブ旅をするのが大好きで、今のような列車旅をすることの方のが稀でした。
「怖いもの知らずだった・・・」 理由は、ただそれだけのような気もしますが・・・・・

今日、運転しながら 「あれ~?」 と思ったのですが・・・・・、 車を、「ただ運転する」だけならすごく簡単なことなんですよね。
エンジンをスタートさせて、ギアをドライブに入れ、アクセルを踏んで、道路に合わせてハンドルをきる。
そんな簡単なことなのに、何がそんなにイヤなのかと考えたとき、二つの理由が思い浮かびました。

一つは、「私一人だけが、ドライバーというわけではない」ということ。
私だけの道を、私だけが自分勝手に走ることが出来たなら、そんな楽なことはないでしょう。
でも、車社会には無数の人たちがいて、そんな他人同士が、同じ時間に、ほぼ同じ場所を共有することで、互いに接点を持ってしまいます。 例えば、前を走る車、後ろを走る車、追い越し、追い越され、対向車となったりしながら、遠からず、少なからずの接点がそこに生まれます。
これが何かの因縁に触れれば、時には己の煩悩が逆巻いたり、時には事故となって生命にかかわる事態にまで発展することも少なくはないはずです。
つまり、一人ではない限り、上手くやっていかなばならないという煩わしさとか、危険というリスクを背負うことになってしまうわけです。

もう一つは、「ただ運転するという行動のみに収まることなく、私の心が常にその行動を妨げる因縁になっている」ということ。
例えば、早く走りたいだとか、あの車の前に出たいなどの欲心。  また、怖いだとか、Highな気分だとかいった心持ち。 
そんな自身の心情が運転するという行動を面倒くさく複雑なものにしているのではないでしょうか。

それって・・・・・、 仏法聴聞も、同じなのではないかしら・・・?  と、思ったのです。

「ただ聞く」だけなら、簡単なはずです。
でも、自分一人だけで、じ~っと耳を澄ましていればどこからか御法が勝手に耳に入ってくると言うものではありませんので・・・、 御法は、その教えを本に、同じ道を歩む先生やお同行さんの声や姿を通して聞かせていただくものですから、 そこに人間関係という煩わしさが生じて、また、相手がいるために外面をとりつくろうというプライドなども働いて、「ただ聞く」ということを大いに妨げてしまうことになります。

そして、一番に厄介なのが、私の「思い」です。
煩悩具足で、悪念の塊の私ですからね・・・、 「ただ聞く」ということことを、「私の思い」で、はねつけ、捻じ曲げ、弄んで、私自身が御法を厄介で難解なものにしてしまっているのです。

考えてみたら、運転するという行為のみならず、すべてのことにおいて人間関係に煩わされ、自分の思いに迷惑しているのですね・・・・・。
自分にさえもこんなに手を焼いているのに、如来さまの御苦労は如何ほどのものでしょう・・・。
南無阿弥陀仏
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

京都へ向かう車中にて [御法縁]

京都へ向かう列車の中で、S先生の書かれた高山BLOGを、「誰のことだろう…」ではなく、この私へのメッセージとして、何度も 何度も 繰り返し読みました。
ときに空を仰いで大きなため息をついたり・・・、ときに固く目を瞑って両の手に握り拳を作っていたり・・・、ときに口を真一文字に結び瞳に涙を浮かべたりと・・・、読む度ごとにいろいろな思いが波うってめぐって来ました。

ここしばらく、このBLOGでは、御法のことも、自分自身のことも、なるべく書かないように・・・ と言うよりも、 書きたくない・・・ という思いがあって、それらを回避しながら綴っていましたが、 今こうして、ちょっとだけ書く気になったのも、先生のそのBLOGにあった 「自分の生地いっぱいで聞くしかない」 という言葉が、頭に絡み付いてしまったからなのかもしれません。

鉄橋を渡る大きな音に驚いて フッと窓の外に目を向けると、まるで時間が止まっているかのように静止した川の水面に鏡面して、岸辺の並木が現実のものとは反転した姿で映っている風景が目に飛び込んできました。
鏡面した世界では、木々は地面から地中に向かって生えているし、空は頭上ではなく足下に広がっています。  そのどちらが現実の世界なのか・・・・・、 不意にそんな疑問が頭をもたげました。

私は、「私が自覚している私」を「私」だと思っています。 同様に、その私が認識している世界を「現実の世界」だと思い込んでいます。 でも、それは真実なのでしょうか・・・・・?
そんなあてもない疑問が脳裏をよぎり、私は空想の中でその川岸に立って水面を覗き込みました。
そこには、地面に足裏を張り付けられた、頭下足上の姿の私自身がこちらの世界を覗き込んでいて、「こちらの世界こそが現実の世界よ! この私こそが現実の私よ!」 と言わんばかりの自信に満ちた目で私を見ていました。
私は、その水面の世界の私に向かって、「何の因果でこの地面に張り付いているかわからないけど、その足裏の粘着力が切れた瞬間に、あなたは頭下足上のまま落ちて行ってしまうのよ!」 と、思わず叫ばずにはいられないほどの衝動に襲われ、いったい何が夢で何が現実なのか・・・、混乱した妄念妄想の中を 長い 長い間 さ迷っていたように感じました。
でもそれはホンの数秒間の出来事で、我に返った時には、まだ列車は鉄橋を渡っている途中でありました。

私は再び、プリントアウトしてきたS先生のBLOGに目を落としてそれを読み返していたのですが、その時、何気なく視線が文字を離れて、そのペーパーを持つ自分の手の方に意識を奪われました。
「小さい・・・・・・。 私の手って、こんなにも小さかったかしら?」 
プリントペーパーを膝の上に落として、私は自分の両手のひらをシカと眺めながら、自分の手の中に、亡き母の手を思い描きました。
私の母はとても小柄な人で、故にその手もとても小さくて・・・、 そんなことを想い出しながら自分の手をみつめ、 「小さいのは母の手だけではなかった・・・、 私の手もこんなにも小さい・・・、 こんな小さな手では、何もつかめない・・・」 と 思いました。
そして、その両の手をグーにしたり、パーにしたりしながら、「私は、何を握っているのだろう・・・・・」 と 小さな声で呟いた後で、喉元まで出かかったその答えをゴクリと飲み込みながら、車窓より流れ行く風景に視線を移しました。
妄念・・・  妄想・・・  こんな小さな手では、何ひとつとして掴めない・・・・・。 
たとえ握りしめたと思ってみても、 開いたその手のひらには何も残ってはいない・・・・・。

そんな私が、とてつもなく 大きな 大きな手の中で駄々をこねているなんて、笑っちゃいます。
如来さまの その大きな 大きな手は、そのまんまの私を丸ごと包み込んでも余りあるのに・・・。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春の高山 H家 二日目 [御法縁]

キッチンの方から聞こえてくる朝の音で目が覚めました。
一晩中、ず~っと夢の中にいましたが、久しぶりに途中で目覚めることなく、朝まで眠り続けることが出来ました。
4.15 H家で雪だるま.JPGそして、 障子戸を開けると・・・!! \(^o^)/  
雪です~ぅ!!!  
夜の内に降り積もった雪で庭園がうっすらと白化粧をしてして、
まだ小雪がちらついていました!
すごく嬉しくって、私はキッチンに駆け込み、「雪よ! 雪が降っているの!」 と、二人に報告すると、「高山雪女の奈っちゃんが来ているからね、おまけのなごり雪だよ!」 って。 (^-^)v
素早く 身支度を整え、庭に飛び出して さっそく雪だるま作りです! !
雪は既に止んでしまいましたが、何とか一つ、雪だるまさんを作って適当な場所に運んでいた時、頭の部分が落下してしまい「雪だるま」ならぬ 「雪だんご」になってしまったので再チャレンジ!
しかしこの後、また倒れたり壊れたりなどして、結局三回ほど作り直しをして、やっと写真を撮るまでに至ったのが、この雪だるまちゃんです o(^o^)o   童心に帰って遊ぶのは、素直に嬉しいものですね! (#^^#)

朝食の後は、一人でご近所へお散歩に出かけました。
公園の桜は既に五分咲きで、なごり雪に濡れて少し寒そうでしたが、裏山の方へ行くと、食べ頃を過ぎたフキノトウをはじめ、スミレやナズナなどの馴染みの春の草花が、「もう、春ですよ!」 って・・・、 何か催促をされているような気がしました・・・。
この日の午前中は、H家で過ごすのんびりとした時間の中で、ETさんに仏さまのお話しをいっぱいしていただきました。

4.15 まつりの森.JPGそしてお昼からは、TMお母さんが迎えに来てくださって二人でドライブデートに出かけました。
最初に連れて行ってくださったのは、高山市郊外にある 『飛騨高山 まつりの森』 です。
こちらは、飛騨の富豪 中田金太氏が、現代に生きる飛騨匠の“技”を後世に伝えることを目的とし、山の岩盤をドーム状にくり貫いた地中に造られたミュージアムの中に、荘厳優美で絢爛豪華な「平成のまつり屋台」が8基も展示されています。 
もちろんこの中にKHさんの作品も見ることが出来ました。
他にも、秋の高山まつりに曳きまわされる屋台のミニチュア(と言っても、とても精巧です!)や、コンピューター制御ではありますが、からくり人形の実演なども見ることが出来て、屋台をじっくりゆっくり見学することが出来て楽しかったです!

この後は、同系列の『茶の湯の森』にて、おやつTimeに美味しいお菓子とお抹茶をいただきました。
そして 『茶の湯美術館』で 茶道具などの見学をしていた時に、「あれ~、これはどこかで見た覚えがあるけれど・・・」 と。  これをTMさんに聞くと、「あぁ、そ~ゆ~こと!」 と、時と場所を超えて合点 (^^)v
それは、“ 玉虫の厨子 ” でした。  以前、法隆寺で見たものと似たようなものが展示してあって、そのレプリカがおいてあるのかな? と思っていたら・・・、 まぁ~、レプリカには違いないのですが・・・、 飛鳥時代に作られた法隆寺にある国宝“玉虫厨子”を、中田金太氏が指揮して2基新造し、その内の一基「復刻版」を法隆寺に奉納、そして「平成版」をこちらの美術館に展示したというわけで、それは不気味な美しさを放ってはいるものの一見の価値はあると思います。
「厨子」とは、いわゆるお仏壇のようなもので、仏像などを安置する屋根付きの工作物のことです。
法隆寺にあるオリジナルの玉虫厨子には、玉虫の羽の輝きはほとんど見ることが出来ませんが、レプリカの「平成版」では、色鮮やかな 「霊鷲山浄土図」や、ジャータカ物語の「捨身飼虎図」などを鮮明に見ることが出来ます。

夕刻、帰りのバスの時間が迫ってきて、高山駅まで送っていただき、TMさんともお別れです・・・。
高山滞在はたったの二日間でしたが、とても充実していて、すごく長く、そしてすごく短く感じられました。
「なぜ、私はここにいられるのだろう・・・」 それを、深く考えさせていただける二日間でした。
みんな みんな 私一人の為に苦労を惜しんでお付き合いしてくださる。 それは何故? 何の為?
その答えに、自身のもどかしさが募りました・・・・・・。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春の高山祭 山王祭の夜祭り [御法縁]

H家に到着して当家自慢の美味しいコーヒーとおやつをいただいた後は、久しぶりにETさんとゆっくりお話しをすることができました。 
ETさんって、さっき見たショウジョウバカマの花のような女性だなぁ~ って思いました。 仏智に一本しっかりと立っていて、無駄のない優しさでほっこりと一人咲いているような、そんな素敵な女性です。
この後は二人で夕食作り!(^^)! 今夜は、飛騨牛のしゃぶしゃぶですo(^o^)o 嬉しい~!!!
夕食の時にいただいたお酒は、飛騨高山の「氷中貯蔵 熊の涙」という純米吟醸生貯蔵酒でした。
氷中でゆっくりと低温熟成されたお酒だそうで・・・、 難しいことは抜きに、とても美味しいお酒でした。

夕食の後はとっておきのお楽しみ!(#^^#)  H家までKnさんがお迎えに来てくださって、二人で夜祭りデートに出かけました。
青のとばりに包まれた夕闇に町の灯りがやさしく浮かび上がり、肌をさすような冷たい空気さえもその絵の中に溶け込んでいるような風景の中、Knさんにナチュラルに寄り添いながらお話しを聞いてくださったこと・・・、 昨夜までのあの辛い出来事をわずかな間でも忘れることが出来て、とても楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

4.14 山王祭 夜祭り.JPG春の高山祭 山王祭初日(14日)の夜には夜祭りが催され、日中に曳き出された12の屋台が、それぞれ100個もの提灯を灯した姿で、朱塗りの中橋から本町通りを抜けて鍛冶橋を渡り、安川通りからそれぞれの屋台蔵へと帰って行きます。
『神楽台』の太鼓の音、 祭囃子の音色、 それに合わせて舞う獅子、 何よりも日中とは全く表情の異なった屋台の姿はとても幻想的で、遠目に見ていれば思わず惹き込まれてしまいます。
でも・・・、 近目にはいろいろな方向からの感情が入り過ぎて、幻想も幻滅に変わったり・・・(^.^ゞ
と、言いますのも、 酔っぱらった観光客と警察官との諍いが目の前で繰り広げられたり・・・、 我こそは と 見物に適した場所を奪い合ったり・・・、 自分一人くらいなら と 平気で風紀を乱す人もたくさんいて・・・、
自分も含めてそんなことが目の前で繰り広げられているものですから、ものすごく現実的なのです。

Knさんと私は鍛冶橋のたもとに場所を陣取り、氷点下の川風に吹き曝されながら待つこと一時間ほど、 ようやく先頭を行く獅子舞連と『神楽台』がやって来ました。
その間、Knさんがお祭りの解説や思い出話などをあれこれ語ってくださったのですが、これが周囲にいた人たちにも盛況で、いつの間にか人気者のガイドさんになっていました。
さて・・・、 半数近くの屋台を見送ったでしょうか・・・?  とても寒さに耐えられなくなってきてしまったので夜祭りを後にして、暖を求めネオンきらめく飲み屋街へと向かい、一軒の居酒屋さんに入店しました。  暖かかったです~(#^.^#)  肌も声も解凍していくようでした。
居酒屋さんを出た後は、いつもの(?)ラーメン屋さんで夜ラーメンと餃子をいただきました。

この夜 、Knさんに、今まで自分の内だけに収めておいた濁りとか迷いを解き放ち(話し)、逆に温かいものをお腹いっぱいにいただいて、無理なく笑える自分に戻ることが出来ました。
逆に Knさんには負担をかけてしまいごめんなさい。 そして、ありがとうございました。

帰り道、道に迷ってしまい二人で迷路のような深夜の住宅街を徘徊したこと、とても楽しかったです。
迷って、迷って、自分の居場所すらわからなくて・・・、 ただ、自分が正しい思う方向へ進むしかない・・・。 それでも、絶対にたどり着けると信じることを微塵も疑わないの・・・。
私には帰る場所がある。  独りだけど一人じゃない。  そんな嬉しい迷子の徘徊でした。

そして、心配しながら私の帰りを待っていてくれる人達がいる。 私は、贅沢なほど幸せ者です。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

高山 春の散歩道 (大隆寺・錦山神社) [御法縁]

日枝神社から城山を大きく回り込むように次に向かったのは大隆寺です。
ここまで来ますと観光客はもちろんのこと地元の人とさえも会うことなく、高山の春をみつけながら、の~んびりとお散歩を楽しむことができます。 
でも・・・、 スーツケースを持っての山道はちょっと大変かなぁ~ なんて思っていたら、KHさんが荷物を持ってくださって・・・、それをRy君が代わって持ってくださったおかげで私は手ぶら状態・・・。 ちょっと申し訳なかったです。

桜の花の蕾がほころびかけたばかりの高山の春。  道端に咲くタンポポン、 あぜ道に芽を出したつくしんぼ、 山にはネコヤナギの花が咲き、 野にはいぬふぐりや仏の座が彩りを添えていました。
三人で何をお話ししながら歩いていたのか忘れちゃったけれど、瞼に残る春の風景は、とても穏やかで優しかったです。

4.14 大隆寺弁天堂.JPG日枝神社から20分近く歩いたかしら? 妙高山大隆寺(だいりゅうじ)に着きました。
本堂は小高い丘の上にあるのですが、その階段下には弁天池と呼ばれる小さな池があって、その池の中に乱石積基壇が盛られ、水上に浮いているかのような弁天堂が建てられています。
この弁天堂にもKHさんのお仕事が施されているとのことでいろいろお話しをいただいたのですが、専門用語にはまったくついて行けず … (^-^; 初めの内こそ聞き直してばかりいたのですが、途中からは聞き流しの体制に入ってしまいました。 KHさん、ごめんなさい …(^.^ゞ

4.14 ショウジョウバカマ.JPG階段を上がって本堂へと向かう途中に、ピンク色のかわいい花がたくさん咲いていて、KHさんからショウジョウバカマという名のお花だと教えていただきました。 これを漢字で書くと 「猩々袴」となります。 「猩猩」とは、中国の伝説上の生き物(?)で、お酒好きでいつも赤い顔をしているから酒豪や赤いものを指す代名詞にもなっているそうです。 きっと、愛嬌のある妖怪(?)なのでしょうね。

大隆寺は、1652年に京都大徳寺金龍院の末寺として第四代藩主金森頼直氏が創建したお寺です。
宗派は曹洞宗で、本堂には中央に座したお釈迦さまとその脇にたくさんの・・・・・ 何なのでしょう?
シンプルでありながら、いろいろな像が安置されてありました。
境内からは見晴らしがよく、目の前には遠く、真っ白な雪衣に覆われた美しい乗鞍岳を臨めました。

4.14 大隆寺.JPG

ここからは裏山を下ってKHさんのお家へと向かいました。 でも・・・、初めて通る道だったらしく、KHさんもあてずっぽうのまま、「たぶん、こっちの方でいいと思うけど・・・、 どっちの道から行く?」 と、私に帰宅ルートを尋ねる始末・・・ (;^_^A 
それで私も適当に、「お花が咲いているからこっちの道を行きたいわ!」 と、その道を進んだ先の突き当りに小さな神社がありました。 錦山神社と言います。
これを見てKHさんがひどく感激をされたので、「どうしたの?」 と 尋ねると、この神社、以前からKHさんが探し求めておられた神社で、つい先日もRy君と二人で探し歩いたのだとか・・・。
それが、たまたま適当に歩いて来た所で出くわしたものだから、「いや~! 奈っちゃんのおかげだ!」などと褒めていただいちゃって! (^-^ゞ

錦山神社の祭神は、物部守屋大連命ということで、これは大変にめずらしのだそうです。
用明天皇の時代(587年)に、崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏との間で崇仏排仏の争いが起き、これが皇位継承問題にまで発展した結果、その抗争に敗れた物部守屋大連命は、一族でこの地に逃げ落ちて来たのだと伝えられています。
その後、物部守屋大連命の御霊を奉斎したのがこの神社の起源なのだとか・・・。 そんなお話しをしながらH家に向かって野の道を行き、お家に着いたのは3時頃、ちょうどおやつの時間でした。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春の高山祭 山王祭の屋台 〚3〛 [御法縁]

前号に引き続き、山王祭に曳き揃えられた屋台の見学です。
下の写真は左側から、大国(だいこくたい)、青龍台(せいりゅうたい)、麒麟台(きりんたい) です。

青龍台 大国台 麒麟台.JPG

『大国台(だいこくたい)』 は、巡行の際に屋根棟部分と上段の縁とが違う動きをしてゆらゆらと揺れる構造になっています。
その上段の屋根には一対の孔雀 破風部分には龍、欄間には星座の彫刻。 そして中段欄間には素木の波に飛龍、柱にも龍の彫刻が施されて、下段にはユニークな表情の唐獅子の彫刻が4面に装飾されています。
毎年、くじによって決まる屋台の曳行順で、この『大国台』の順位が早ければその年は米価が高く、遅ければ安いという伝承があるのだそうです。 と、すると、今年の米価は安くなるということですね!

『青龍台(せいりゅうたい)』 は、他の屋台の屋根が切妻造であるのに対して、この屋台だけは天守閣型の入母屋造で、その上段と中段の間にもう一段加えた4層構造となっています。
これは、この屋台組が日枝神社のお膝元にあったことから、日枝神社を篤く崇敬していた国主金森氏の代行として宮本と呼ばれ、金森氏の家紋である梅鉢使用を許されて、祭事を主宰する特権を持っていたために、上段は金森氏の城の天守閣を表現し、一段高くすることで格式の高さを誇っていたのだと言われています。
その幕には台名の由来となった龍の刺繍が施され、中段にはS61年とH7年に修復新調された彩色牡丹と龍の彫刻が施されています。

『麒麟台(きりんたい)』 は、その名の通り一対の麒麟が上段の屋根を飾っていて、上から下まで一見して何とも豪勢な屋台で、高山祭の屋台の中でも最も彫刻が多く、その彫刻も逸品で、際立った豪華さを誇る屋台です。
中段・上段の木鼻部分にも麒麟の彫刻が金色に施されていますが、それ以上に何とも目を惹くのは、下段の「唐子群遊彫刻」といわれる彫刻です。
先のBLOGで記しました 名工 谷口与鹿さんの神技とも称される作品で、一本の木に彫られた木の鶏籠と、その中に刳り抜いて彫られた鶏は、KHさんの説明を聞く前から、「すご~い!!」と感嘆しました。
彩色された牡丹や高欄の素木の飛龍の華やかさを完全に奪ってしまう「籠の中の鶏」の唐子彫刻はもちろんのこと、庭で遊ぶ童子の表情の豊かさには言葉をなくしました。
見送り幕は、中国北宋の政治家、司馬温公甕割図が掲げられ、これは温公が子供の時、水瓶に落ちた友を助けるために父親の大切にしていた瓶を割って友を助け出し、これを父親が褒めたとの逸話を基に描かれたものです。

麒麟台「籠伏の鶏」.JPG

でも・・・、 もしも この『麒麟台』を一番初めに見ていたら、他の屋台が霞んで見えてしまったのではないかしら…、と思うくらいに素晴らしい屋台でした。

すべての屋台の見学を終えてから、春の高山祭の氏神様、日枝神社(山王様)へと向かいました。
何故でしょうか・・・? その道途中にある神明神社にはたくさんの観光客が参詣しているのに、メインであるはずの日枝神社まで足を運ぶ人はあまりいないようです。 (みなさん、間違えてはいませんか?)
日枝神社の本殿は、派手さはなく… そうかと言って しっとり… というのでもなく…、 たぶんお正月とお祭りの日以外にはひっそりと静まりかえっているのだろうなぁ~ という感じでしたが、私は、ここの狛犬さんのお顔が、とってもお気に入りです! (^_-)-☆
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春の高山祭 山王祭の屋台 〚2〛 [御法縁]

前号に引き続いて、山王祭に曳き揃えられた屋台をKHさんの解説付きで見学するという贅沢な旅。
下の写真は左側から、琴高台(きんこうたい)、鳳凰台(ほうおうたい)、恵比須台(えびすたい) です。

琴高台 鳳凰台 恵比須台.JPG

『琴高台(きんこうたい)』 は、中国に伝わる鯉に乗った仙人「琴高」にちなんだ屋台で、「支那列伝史」より 「琴高、赤鯉に座し来る」との故事を引用して「琴高台」と名付けたのだそうです。
屋根には1対の飛龍、 上段には彩色された牡丹と、金色の兎と漆黒の烏、 中段には飛龍の彫刻が施されています。 飛龍は龍の子であるとの説を元に、欄間にも素木の波に金色の鯉が彫られていて、 この兎と鯉の彫刻は、後に記す谷口与鹿さんのデビュー作であると言われています。
中段幕は、緋の地に金糸で波が描かれ、その中を色糸の鯉が滝に見立てた柱を登る「鯉の滝登り」の刺繍が施され、本見送り幕は、この日かかっていた徳川家16代当主家達の書「琴高仙人の詩」の他にも、替見送り幕として、垣内雲庶(かいとううんりん)による琴高仙人が鯉に乗って登場するものとがあるそうです。

『鳳凰台(ほうおうたい)』 は、屋根中央部に赤木・白毛の長鉾(龍頭剣)を掲げ、緋羅紗(ひらしゃ)の屋根覆いをまとっています。
見た目にはとても地味な屋台ですが、古来の形態を保ちつつ、蛇腹形支輪が伸縮する仕組みを取り入れた屋台で、また、中段の赤・黒・黄の三色の大幕はオランダ産の大変珍しい毛織なのだそうです。
見送り幕はシンプルな鶴の図。 彫刻は、上段に彩色された牡丹、屋根と中段柱には鳳凰、下段には屋台一周、七宝格子の地に麒麟が彫られています。

『恵比須台(えびすたい)』 は、 KHさんが熱く語る、名工 谷口与鹿さんの大作が載っていて、金具の鍍金(ときん)には純金が使用されるなど、大層豪華な屋台です。
屋根には一対の鳳凰、彫刻は、上段には金彩の波と彩色された牡丹、そして中段には波間に飛龍の彫刻が施され、欄干の彩色された牡丹をくわえた素木の獅子の表情は一見して愛らしく、それとは対照的に下段に飾られた半月形の枠の中に彫られた龍は、一瞬ドキッともしますが、でもやはりどこか温かみのある表情をしています。
恵比須台の一番の見どころとも言える手長・足長の彫像は、以前このBLOGにも書きましたが、宮川にかかる鍛冶橋の欄干に飾られた手長・足長のレプリカのブロンズ像の実物で、与鹿さんが25歳の時の作品です。 (手長・足長 谷口与鹿さん  http://aa-mujyou.blog.so-net.ne.jp/2010-02-14
見送り幕は、金髪の婦人らが自然の中で戯れているという西洋の風俗画で、恵比須台とのイメージ的関連はありませんが、これは幡(はた)見送りといわれる形式で、日本で織られたオランダの綴錦織(つづれにしきおり)として大変重要なものなのだそうです。

谷口与鹿(よろく)さんは、1822年に大工一家である谷口家の飛騨の匠 谷口権守典三郎延伝さんの次男としてお生まれになられました。
16歳の時に大工で彫刻家の中川吉兵衛さんの下に弟子入りをして29歳までの14年間飛騨で彫り続け、デビュー作は先に記しました『琴高台』の波間の鯉と兎の彫刻と言われ、これは17歳の時に彫られた作品です。
そして29歳の時に高山を離れ一旦京都へと向かい、その後43歳という若さで亡くなるまで兵庫県の伊丹で生活をしていましたが、この間に彫られた作品はほとんどないのだそうです。

私は芸術を理屈で語ることなどできませんが、今回初めて与鹿さんの作品を見て思ったのは、子供のような無邪気さと夢・・・、 大人としての寂しさと孤独・・・、 そして、人としての弱さと温かさを感じました。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春の高山祭 山王祭の屋台 〚1〛 [御法縁]

昼食の後は、Ry君とも合流して三人で祭り屋台の見学です。
春の山王祭に曳き出される屋台は全部で十二基。 この内の三基が先ほど陣屋前の交差点(お旅所前)でからくり人形の技を披露してくれたもので、まずはこの三基の屋台から見学しました。
下の写真は左側から、三番叟(さんばそう)、石橋台(しゃっきょうたい)、龍神台(りゅうじんたい) です。

三番叟 石橋台 龍神台.JPG

『三番叟(さんばそう)』 とは、能楽の「翁」が 烏帽子をかぶり扇と鈴を持って演ずる舞で、このからくり屋台では、童人形が機関樋(からくりとい)の先端に移動して、聯台(れんだい)上の扇子と鈴を手にし、面筥(めんばこ)に顔を伏せたところで白髭の翁の面を被って、謡曲「浦島」に合わせて仕舞を演ずるというからくりになっています。

『石橋台(しゃっきょうたい)』 では、長唄の「英執着獅子(はなぶさしゅうちゃくじし)」に合わせて、舞っている女性が機関樋(からくりとい)の先端に移動すると打掛が反転して狂い獅子に変身したまま舞い、そしてまた元の姿に戻ったところで両手に紅白の牡丹の花を持て千秋万歳と舞い踊るというからくりになっています。

『龍神台(りゅうじんたい)』 は、錦布で包んだ壷を抱えた唐子が機関樋(からくりとい)の先端まで移動して、聯台(れんだい)の上にその壷を置き、謡曲の「竹生島(ちくぶしま)」に合わせて唐子が舞いながら引き返そうとすると、突然その壷が開いて、中から大きな赤ら顔の竹生島龍神が五色の紙吹雪を舞い上げながら現れ、撞木(しゅもく)を振りかざしながら髪を振り乱して荒々しく舞うというからくりです。

そして、お旅所前に もう一基 曳き揃えられていた屋台は、神楽台(かぐらたい) で、これにはKHさんのお仕事も施されているのだとお話しくださいました。
下の写真は左側から、神楽台(かぐらたい)、五台山(ごたいさん)、崑崗台(こんこうたい) です。

神楽台 五台山 崑崗台.JPG

『神楽台(かぐらたい)』 は、唯一屋根のない屋台で、上段に平胴の大太鼓をのせた独特の形をしていて、祭礼では全屋台を先行する指揮車としての役割を担い、屋台後方にある一対の龍頭剣を付けた竿は、巡行における魔除けになるのだそうです。
台上では、侍烏帽子(さむらいえぼし)、素襖(すおう)姿の楽人5名が、付随している獅子舞の囃子 ‘場ならし’ ‘高い山’ ‘一つ上げ’ などを演奏します。
屋台には、彩色された牡丹や獅子(唐獅子牡丹)、そして柱や欄干には龍の彫刻が施されています。

この後、本町通りを少し歩いて主不在の屋台蔵を見てから、再び戻って朱塗りの中橋を渡り、神明町の交差点より南に向かってずらりと曳き揃えられた屋台を見に行きました。 その並び順に、

『五台山(ごたいさん)』 という名は中国の山名からきていて、中国仏教の伝承では文殊菩薩さまと文殊さまがお乗りになる獅子の住まう山であったと伝えられ、これにちなんだ装飾の施されている屋台です。
五台山では御簾は使わず、中段の三方には、丸山応挙が下絵を描き京都西陣で刺繍した唐獅子牡丹の大幕が用いられています。 また、見送りの「雲龍昇天図」の墨絵は、京都西陣で職工ら数十名が半年かけて織った綴錦織筆の名品です。
そして下段の彫刻は、彩色された牡丹と飛獅子が彫られています。(諏訪の立川和四郎作)

『崑崗台(こんこうたい)』 は、高山祭の屋台の中でも古くから存在し、以前は中国故事による林和靖にちなんだ唐子のからくり人形を乗せていたそうです。
名前の由来は中国随一の金銀の産地「崑崗」にちなみ、切破風屋根に6本の金幣をたて、屋根上には金塊を表す宝珠を乗せてこれを表現しています。
見送り幕は寿老人と鹿を描いた中国産の刺繍で、装飾は少ないですが、上段には雲と太陽と月が彫刻され、中段には彩色された牡丹の彫刻がされています。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

高山祭 春の山王祭 へ [御法縁]

バスの車中にて、パソコンに向かって書き物をしていた時、フッと一息ついて顔をあげると、窓の外にはチラホラと白いものが舞い落ちていました。 
「雪? ・・・・・」
四月の半ば・・・、 名古屋の桜はとうに散っていましたが、春遅い飛騨の里では、まだ雪の妖精たちが冬を楽しんでいたのですね~。

ちょうど一ケ月前、高山のH家よりご招待をいただいて、春の高山祭りに出かけてまいりました。
なかなかこれを書くことが出来なかったのですが、桜前線が北海道を通り過ぎてしまう前までには記しておきたいと、やっと書き始めることが出来ました。

出発の数日前にはETさんとアレコレと計画を立てていて その心積もりでいたのですが、訪問する前日になってKパパよりお電話をいただき、「わたしのプランはね・・・!」 との一声で、即、計画変更! (^-^ゞ 
それでスケジュールを初めから組み直して…、バスの乗車時間も変更して… (#^.^#)!
でも、結果的にはKパパの立ててくださった新プランによって、すてきな高山旅行となりました (^^♪

この旅の前日に、私にとってはとても辛い出来事があって、心身ともにかなりキツイ状態にありました。
そんな心持ちで迎えた高山行き当日の朝、身体的にはかなりの疲労を感じていたのにもかかわらず、気持ち的にはとてもHighになっていて、その勢いに私自身が飲み込まれてしまっていたように思います。
高山に到着して少しは気持ちも落ち着き、駅で呼吸を整えてからKHさんとの待ち合わせ場所へと向かいました。 ちょうど、KHさんのラジオ放送の生出演が終わったくらいの時間でしょうか・・・。

空は快晴だと言うのに気温は低く、その青空の下で小雪が舞うという不思議できれいなお天気模様の中、待ち合わせの高山陣屋前にはすごい人だかりができていました。
ここでKHさんに電話をすると、「今ちょうど、からくり屋台の奉納が行われているので一緒に見よう!」 と言われたその通話中にKHさんの姿を発見!
ここからは専門家(?)の解説付きで、春の高山祭を楽しみました。

「高山祭」と言われるお祭りは、春と秋の年二回、高山市の神社で催される二つのお祭りの総称です。
その一つは、日枝神社例祭として 4月 14・15日に行われる 「春の山王祭」 と、 もう一つは、櫻山八幡宮例祭として 10月 9・10日に行われる 「秋の八幡祭秋」 で、 二つとも京都の祇園祭、埼玉の秩父夜祭と並んで「日本三大曳山祭」の一つに数えられ、 また同じく京都の祇園祭、滋賀の長浜曳山祭と並んで「日本三大山車祭」にもあげられています。

高山祭の見どころと言えば、「うごく陽明門」とも称される飛騨匠の手による絢爛豪華な屋台彫刻で、これは国の重要有形民俗文化財にも指定されていています。
その専門家によるガイド付きで春の山王祭を楽しめるとは、なんとも贅沢な話しですね!(^-^)v

4.14 高山 脇茶屋さてさて、まずは腹ごしらえと言うことで、からくり屋台の奉納を見学した後、高山の郷土料理がいただける 脇茶屋 というお食事処に連れて行っていただき、お昼ごはんを御馳走になりました。
ここで、今日のラジオ出演にてお話しになった、印籠(いんろう) と 根付(ねつけ) の お話しをアレコレとしていただきましたが、これをここに記していると先に進みませんので、次回、機会があれば改めて書くことにいたします。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

久しぶりのお食事デート [御法縁]

今日から五月、  Golden week ですね ・・・・・。
何もしなくても・・・  時間は流れて行ってしまう・・・・・。  冬から春へ・・・、 そして夏へと・・・。

昨夜は、久しぶりに外出をしました。 「お出かけをしよう」という気になったのも久しぶりで・・・、 それに人と会うのも久しぶりで・・・、 もし、お誘いいただいてなかったならば、きっと出かけられなかったことと思います。
それにしても、出かけ間際には慌ててしまいました・・・(^.^ゞ  しばらく振りのおデートでしたので、身支度の手順が混乱してしまったり…、 着て行くお洋服の季節感がわからなかったり… と・・・ (((^^;)  待ち合わせの時間には 何とか間に合ったのですが、忘れ物をいっぱいしてきてしまいました。
ところが、YTさんの方がGWの連休前ということもあってお仕事の方がお忙しく、「ちょっと遅れる」との連絡が入り・・・。  そのおかげで、名駅地下街にてウィンドー・ショッピングを楽しむ時間が出来ましたので、それが気分転換になって、私にとってはちょっぴりLUCKYでした!

彼のお仕事も無事に終わって改札口前にて再び待ち合わせ。  人ごみの中に彼の姿を見つけた時、 すごく ホッ とした私がいて・・・、 それを不思議に思いました・・・。
この数週間、 一人、お家に籠もっていた時には、 知っている人・・・ と言いますか、 御法のお友達と会うのが怖い… と思っていましたので、 この日もお会いするまでは、ちゃんとお話しすることが出来るかしら…? と いう小さな不安がありました。
そして自分では気付いていなかったのですが、 電話口の私の声より、私のそんな様子を読み取ってくださった彼に指摘されて、 私… 、ホントは緊張していたのだなぁ~ って 思いました。

お食事は、名駅三丁目の 『台所 津喜日』 という小料理店に連れて行っていただきました。
お料理の品目は多くはありませんが、お酒を美味しくいただけるような内容で、お味の方も納得です!!
お酒は、〚蔵の街 半田郷〛と〚義侠(ぎきょう) えにし〛という地元愛知の地酒をいただきました。
数ヶ月ほど前より… (^-^)v、 YTさんから日本酒の味を教えていただいて以来、夜のお楽しみが増えた今日この頃・・・  この日も美味しいお酒と お料理と、 そして何よりも、今の私に無理のない内容のお話しを出していただいて、 ホッ と… 心を悩ましていたものが徐々に軽くなっていくようでした。

4.30 台所 津喜日.JPG

こちらのお店の営業時間は、18~22時まで・・・、 それにデザートメニューが一つもありませんでしたので もう一軒 (^.^)? ・・・ ということで! (^-^ゞ 
ここ最近、ハシゴの二軒目はあそこネ! と、このコースが定例化しつつある 『咲串(ざっく)おかげ屋』 さんへ! 三回目の来店となりました。

4.30 咲串おかげ屋.JPGこちらのお店は、第一に店員さんがとってもいいです。 客商売のマナーと言うよりも人柄ですね!
それに、店内に漂う 店ご自慢のおでんダシの香りがとても良くって・・・!  いつも お腹いっぱいの状態で行くのですが、その香りにそそられ、ついつい食べてしまいます。
こちらでは、前回同様、お隣り静岡の地酒〚初亀〛を いただきました。 
でも、アッという間に時間は過ぎてしまい・・・、 結局、デザートは食べられず仕舞い・・・ ちょっぴり残念でした・・・。

帰り道・・・、 何だか 今まで 一人お家でくすぶっていたのがウソみたいに楽しい気持ちになっていて、今夜は、思いっきり気分転換をさせていただきました。  ホントに、どうもありがとうございました (*^^*)
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。