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甘えてもいいんだよ [御法縁]

私は、なかなかの根暗人間です。
必要以上に人さまからの忠告を受け入れてしまうし、不必要に自分自身を責め立ててしまいます。
それを上手いこと吐き出せたら良いのでしょうが、そこのところも不器用な上に、ある人から、「君は、自分の話しを聞いてくれる人に寄り付いて行くが、そんなことをしていてもいいのか!」と問われ、私は、「話しを聞いてくれる人に近づいてはいけないのだ。 話しを聞いてもらってはいけないのだ」と受けてしまい出口を私自身で閉ざしてしまいました。
そしてしばらくは、ただ一方的に受け続ける状態が続いたのですが・・・、 心には限界がありました。
ゴミは、溜まれば溜まるほどに重くなり悪臭を放ちながら目の前を塞いでいきます。 そうなると、目にモノを見ても何も映らず、耳にモノを聞いても何も聞こえず、ただ ただ ゴミ溜めに埋もれて行く「私」というヤツを傍観することしか出来なくなってしまいました。

そんな状態の私でしたが、外から穴を開けてくださり、「安心して流してもいいんだよ、どんなモノでも流していいんだよ」と、場所まで作っていただいたことで、恐る恐るではありましたが、何も整理の出来ないままに上辺の方から 一つ 二つと吐き出すことが出来ました。
それでも、話しを聞いてもらうのはいけないことではないのか? こんなことをしていたらまたダメだ、逃げるな、甘えるなと言われるのではないのか? と、自分で作り上げた罪悪に畏怖する心は止みませんでした。

そんな私に、「奈っちゃん、甘えてもいいんだよ」 って・・・。
今までも、いろんな人がそう言ってくださったのですが、私は、どう甘えたらいいのかその甘え方がわかりませんでした。
でもそれは、私が 全部 今生腹で聞いていたからわからなかったんです。 
誰から言われても、その人の言葉としてしか聞けていなかったから今生事としてしか受け取れなかったんです。

でも、「甘えてもいいんだよ」というのは、そう言ってくださった人を通して、如来さまが言ってくださっていた御言葉でした。

この二年、何も聞けない私の耳にも、「そのまま 任せよ」との如来さまの願いを何度も聞かせていただきました。 その如来さまが、「そのわたしの願いに甘えておくれ」と言ってくださっていたことに、今の今までまったく気が付きませんでした。
「甘えてもいいんだよ」と言うのは、そう言ってくださった人の思いに甘えるのではありません。
「甘えてもいいんだよ」と言うのは、自分の導き出した考えに甘えるのでもありません。
善知識、御同行が、「奈っちゃん、甘えてもいいんだ」と言われたのは、「如来さまの願いに甘えればいいんだよ。 奈っちゃんは頑張らなくてもいいんだよ」って、そう言ってくださっていたのに、私は、人に甘え、自分に甘えて、その行為を自分自身で叱咤して・・・・・ そんなことを ずっと ず~っと繰り返してきたのです。

「甘える」というのは、如来さまの願いを聞かせていただいて、これを受け入れることでした。
私が自分を許す・許さないじゃないんです。 自分で自分をどれだけ責めても苦しくなるばかり・・・。
こんな私を責めることなく許してくださっている如来さまの願いに甘えさせていただく。
「そのままでいいよ 任せておくれ」
そのままの私を許さなかったのは私自身。 でも、そのままの私を抱きしめてくださっている如来さま。
私は、「そのままの私」にかけられた願いを聞かせていただき、そのお慈悲の心を「はい」と受けて、その懐に甘えさせていただくだけでよかったんです。

「何を聞かせていただくのか」がブレていたから、「甘えるな!」とは聞いても、「甘えてもいいんだよ」とは聞けなかったんですね。 南無阿弥陀仏

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