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高山別院 「仏智疑惑」の投稿文 [御法縁]

5.29 A.高山別院.JPG朝市の後に、高山別院 光曜山照蓮寺(こうようざんしょうれんじ) に寄せていただきました。 
高山別院には観光バスが止められるほどの大きな駐車場が完備されていますので、古い町並みの観光拠点として多くの人たちが出入りをしているのですが、残念なことにお寺自体に興味を抱く人は皆無と言っていいほど・・・、 通りすがりにトイレに立ち寄った人たちが境内でフラフラとしているだけで、いつ寄っても本堂はガランと静まり返っています。

私たちは本堂でお参りをしてから事務所の方へ寄せていただき、そこで、私の趣味ですね~ _(^^;)ゞ 
「ご自由にお取り下さい」との機関誌などを一通りいただいてまいりました。
その中の一枚に、高山教区の真宗同朋会から出された機関誌がありまして、なんだかとても共感の持てる文字が目に飛び込んでまいりました。
教務所の主計さんがお書きになられた 「仏智疑惑」 と題された投稿文なのですが、その一部をここに転記させていただこうと思います。 (高山教区真宗同朋会機関誌 第47号 より)

 私は宗祖の教えに触れる機会をいただいているはずだが、どうしても自分として湧き上がる気持ちが起こらず、生活の中で教えが展開しているという実感が持てない。
学びの中で、自分という存在が客観的にしか位置づけられなく、自分自身が問われていないことにもどかしさを感じる。 言わば、教養としての学びとなってしまい、自分を問うにしても教えを理解するための手段となっているのではないか。
 (中略) 私の存在、人生が問われない信はただ思い込んでいるだけのものであり、自分に言い聞かせ信じさせていただけなのである。
私に(「お前は宗教に洗脳されている」と)指摘した人が仏の世界を知らないだけだと思い上がっていたが、私の方が勘違いをしていたのであった。
 私は教えに出遇い感動していたつもりだったが、私が求めているものは一体何だったのだろうか。
仏教とは特別な苦しみを抱える人のためにあるのではなく、すべての人を問い、すべての人が救われていく道である。
しかし、私は救われざるものであるとは思いもせず、必要としていない。
都合が悪くなったときだけ助けを求め、理想に適ったときだけ信じるのが現状ではないか。
「阿弥陀仏の名を称えよ」との本願の呼びかけに本心から応えることができない。
このように本願も疑い、救いを求める心が生まれてこないため、聞きたずねることができない。
仏を念ずるとは言っても、いざ口から出てきた念仏とは期待が伴なう条件付きの自力念仏である。
しかし、そもそも自己中心的なこの存在が、常に仏を思うことができないのではないか。
 阿弥陀仏は教えを信用しないものをも先に見越して、一切衆生を漏らさず救いとると呼びかけている。
実は、仏智を疑うここに阿弥陀仏がはたらき、我が身の現実を問わせようと促しているという。
歩みの中で行き詰ってしまったとき、そこに如来との出遇いが開かれる。
私が今まで唯一頼りにしてきた「自分」という存在が、罪深い凡夫であるということがあきらかにされるのである。
 如来の大慈悲心が十方衆生を包み込んでいるからこそ、疑いながらでも向き合い続ければ、我が身の事実を問い続ける如来との出遇いが必ず開かれるはずである。
自分で自分を見つめることは不可能であるからこそ、如来の真実心に尋ね続けるしかない。
自分の闇を知らされる道は喜んで進めるものではないが、この闇が照らし出されることから救いの道が開かれる。
宗祖親鸞聖人は、このことを我が身をもって実証され、この道を歩めと現代の我々にまで勧めているのである。 呼びかける親鸞聖人、そして750年間その勧めを伝え続けてくれた先達方を信じ、自らも我が身をもって明らかにしていくことしかないだろう。  

以上、転記させていただきました。
もし私がここに付け加えるとするならば、「後生の一大事」 かな。 
だって、何のための、誰のための ‘ 南無阿弥陀仏 ’ なのかということが抜けていてはねぇ~・・・  な~んて、人ごとじゃないのに、上から目線で言ってます・・・(^.^ゞ  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏
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