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死んでいく「死」 [随筆日記]

今年もあと半月余りで暮れてしまいます。 本当に、人生なんてアッという間ですね・・・。
そう言えば先回の座談会で、「最近、自分の死に方についていろいろと思いを巡らせているんですよ~」 とおっしゃった方がおられました。
「死に方」といえば、病死、事故死、自死などといった大雑把な分け方で言われることが多いですが、例えば「病死」ひとつをとってみても、癌や心筋梗塞といった病名によっても幾通りの死に方がありますし、また「癌」といっても、細胞を侵す癌もあれば血液や骨の癌もあって様々で、その中でも苦しみもがいて死を向かえる人もあれば、眠るように亡くなられる方もあるでしょう・・・。
そうやって 細かく 細かく 見ていきますと、「死に方」というのは人それぞれなのだなぁ~と・・・、つまり、生まれた命の数分だけの「死に方」があるのだなぁ~なんて思ったのであります。

先日、先輩お同行さんで、薬を飲む分量を間違えて死の淵をさまよった方がおられました。 また、不慮の事故で危うく命を落としかけたという先輩お同行さんもおれたのですが、お二人が共通して言っておられたのが、「あぁ…、死というものは、こんなにも当たり前に来るのだな…」 というお言葉でした。

私は、「死にかけた」という経験は記憶にありませんが、「死でしまおう」と試みた経験は、まだ新しい記憶のところにもあります。
悲しいかな・・・、死のう、死のう と思えば思うほど、いかに自分が「本当の死」とはかけ離れた遠い所に「自分の死」を置いているか…、と言うことが知れてきました。
「私が思い描く死」は、所詮、自我が作り出した空想上の産物でしかありません。
だから、「当たり前の死」ということがわからないのです。 
「私の追い求める死」に手を伸ばせば伸ばすほど、本当に行くべきところとは真逆なものを必死になって作り出している私がいて、そこに「夢想の死」という落とし穴を、自らが掘っているに他ならないのだと思いました。

でも、「真実の死」は、すぐここにあるのです。 今、ここです。
そう思えても・思えなくても…、そんなの当たり前じゃんと肯定しても・否定をしても、そんなことを頭の中で論議していても・していなくても、「私の死」は、今のこの私の足元にあるという事実があるのです。
最近、「今が後生」という言葉が頭から離れません。 と言えば嘘になるけど、何か事あるごとに、「今、後生、今、後生、今、後生、・・・」 と、頭の中で繰り返されるのです。 わけわかんないです・・・。

「人間、生まれてきたのだから死んでいくのは当たり前」、「生きているものは必ず死ぬのさ」、と・・・、そう言っている自分はどうなん? 死は、他人事ではありませんぞ~!!
「生あるものは死するなり」 と 言葉で言うはとても易いです。 教えてもらったことを知識として覚えて、これを自身が肯定すれば自分の考え・意見として、これぞ間違いなし!との合格印を押印した上で、人さまの上に立って偉そうにホザクだけですからね・・・。
でも、「この私の死」が抜けちゃっているんです・・・、いつも、いつも、「私が死ぬ」というのが抜けているんです・・・。

今日は、「いろいろな死」を書きました。 「本当の死」、「思い描く死」、「当たり前の死」、「追い求める死」、などなど。 でも、どれも これも 「嘘の死」です。 全~部 嘘っぱちです!
どんな「死」を思い描こうとも、どれだけ多彩な「死」を言葉にしようとも、「私の足元にある死」とは、全く寄り添わないのです。

「死に方」にはいろいろあります。 私の死は、私の業にしたがってその死は訪れるでしょう。
我が死をも知らぬ私が、「死ぬぞ、死ぬぞ、今が後生だ!」などと人に向かって言った自分が、今、すごく恥ずかしいです。
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