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ベストフレンド [真宗カウンセリング]

最近になって念願が叶い、仏教関係以外の新しい親友が出来ました。
たまたま駅のホームで出会って会話をしただけなのですが、お互いに意気投合して、それから時々Launchなどに誘ってくださるようになりました。
最初に話しかけられた時は英語だったのでイギリス人かと思いましたが、ドイツ人でした。
彼の名前はジミー。 仕事の都合で5年前より日本に住み、ドイツと行き来しているそうです。

私が所属しているとある団体では、「日本人は日本人らしく」をモットーとしている人が数多く見受けられ、私のようなアメリカ的な考えを持つ者は、ことごとく嫌われてしまいます。
例えば、Yes, No, をハッキリ言えば、「ストレート過ぎてキツイ」と言われますし、あいさつでHugをすることなど、異性のみならず、同性であっても陰口の対象となりますし・・・、握手をすることさえもためらわれるのが実情です。

もちろん、それぞれの国や地方によって文化の違いはありますので、それを「否定するな」とは言いませんが、日本人も少しくらいは「受け入れる」という考えを持っても良いのではないでしょうか?
もっとも公序良俗に反する行為は問題外ですが、すぐに他人のアラ探しをするという日本の文化には、ハッキリ言ってうんざりです。

ジミーとは何でも話しをします。 病気の話し、宗教の話し、恋愛の話しなどなど、話しは無制限です。
他の親友とジミーとの相違点は、「お互いの文化を認め合う」というところにあると私は感じました。
例えば、お互いに相手の話は基本的に最後まで聞きます。 もっとも意味のわからない単語の説明などで話しの腰を折ることはありますが・・・。
また、感情的な発言であっても、相手の立場に立った時に自分ならどう思うのだろう?との自己との対話をして、もしそこで心が動けば、「私だったらきっとこうするだろうなぁ~」との受け答えはしますが、相手の意見に対する評価することはまずありません。 たとえあったとしても、「It‘s Funny」とか、「It‘s Crazy」などの相づちをうつ程度です。

ジミーだからそれが出来るか、それとも相手が外国人だから出来るかは定かではありませんが、ただ今日フッと思ったのです。
仏法座談会の時に、「あの人は獲ている人」 or 「あの人はまだ獲ていない人」という他人や自己判断による色眼鏡で見る人が多々います。 もちろんこれは私自身の反省点でもありますが、座談会の場では自分の思いのたけをさらけ出して、そこにかかっている私の如来さまの御心に気付かせていただく場です。
にもかかわらず、誰かが発言したことに対して、それを自分の思いで評価したり、否定したり、時には自己の意見を相手に押しつけたりする場面も少なくはないように見受けられます。
それ故に、己をさらけ出すことの出来ない人が数くおられるのではないでしょうか。 「そのような非難を恐れていて聞き開けるか!」と言われそうですが、相手の意見を箱に入れず、「あぁ、この人はそうなんだ」のところで留めておいて、内観することが自然に出来たらいいなぁ~と思いました。

そういった意味で、一時的な場面であっても、「聞いている人」、「聞いていない人」という分け方はもうやめて、そこにいる全員がベストフレンドとして、「自分はどうなん?」って聞けたらいいのに!って思うのですが・・・。

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生きている感情を言葉に! [真宗カウンセリング]

正午を少し回った頃に自宅の電話が鳴りました。
「1時37分に名古屋駅に到着! もしよかったら出てこない?」 と。
あと1時間ちょっとしかない! でも逢いたい!!  躊躇なくバスルームに飛び込んで準備開始!!!
洗った髪を乾かしながら歯を磨き、化粧をしながら服を選び、服を着ながらワンちゃんたちにトイレをさせて、電話をもらった30分後には車を発進! 女を捨てたような早さに我ながら感心!!(^.^ゞ
1時30分には名駅に到着し近鉄の改札口にてその方をお待ちする。 が…、列車が到着しても姿が見当たらず・・・、アレッ?  しばらくして携帯が鳴り、お互いがお互いを見落とした事実に口閉・・・。(^^ゞ
目の前にある探し物を見つけることが出来ないなんてね…、 たった一つのものしか探していないのに。
目にしていながら目には映らず・・・、耳にしていながら耳には聞こえず・・・、 それは何故?
みんな私の「思い」が邪魔をしている、常に正しいと感違いをしている私の思いが邪魔なんだなぁ~・・・。

GS先生とお逢いするのは4ヶ月ぶりでした。 メールでは時々お話しさせていただくのですが、お逢いした瞬間、すご~く遠い時間的な距離を感じました。 うぅ~ん・・・、なんだかとっても懐かしかったです。
Launchはレジャックの南山にていただき、この後はPastelにてSweet time!
初めはお話しを聞いているだけの心地よい時間が流れていたのですが、途中から、「でっ? 奈っちゃん、何が変わったん??」 との質問が向けられ、その瞬間に感情が停止してしまいました。
それまではいろんな思いが私の中に溢れていて、五感で入って来るものの全て、その一つ一つに反応して動き続けている感情、常に湧き出て来る感情というものが確かに存在していたのですが、「奈っちゃんはどうなの!?」との質問が飛んで来た瞬間、その問いを刃として捉えてしまうのか、致命傷にならないようにと一瞬にして感情を凍てつかせてしまい、心がその動きを止めてしまう… というか・・・、 WHITE OUT  何も見えなくなってしまうのです。
でも、質問には答えなくっちゃならない・・・。
そう・・・、 「絶対に答えなければならない」、「言葉にして出さなければならない」と、脅迫的に決め切っている私がいて、そこで活動し始めるのが、「相手は何を望んでいるのだろう・・・?」との思いです。
トラウマ・・・、と言ってしまえば身も蓋もありませんが、幼い頃から訓練されてきたことが身についてしまっているようで、我が身を守るために相手の思いを推し測り、自分の思いを抑えてしまう・・・、そんなことを未だ繰り返しているのですね・・・・・

でも、後々になって思い返せば、確かにその時々に動いている感情はあったのです。
例えば、「結局、僕と初めて会った時から何も変わっていないよね」 と言われた時、その場では 「返す言葉がない…」 との思いから何も言葉にすることは出来ませんでしたが、その土台には、「何が変わるっていうの? 私は、ずっと ず~っと 自分の革変を求め続けて来たけれど、何も変わらない・・・、変わるわけがない!・・・。 だって、変わり様のない自分と出遭っちゃったのだもの・・・。 だからおっしゃる通りよ、私はチッとも変わっていないと思う・・・」 と、 その結論が、「返す言葉がない…、何も言い返せない…」 でした。
それをそのまま言葉にしていけばいいって、教えていただいたところなのに・・・。

GS先生から今の今、「何を聞かれても、その時 その時に動いている感情を言葉にしていけばいいんだよ。 その質問に答えたくないと思ったならば、それをそのまま言葉にすればいいし、その質問に腹が立ったのであれば、その思いをそのまま口に出していけばいいんだよ」 と 教えてくださったばかりなのですが・・・・・、
これに対して、「あぁ、そうなんだ! その質問の答えを自分の中から探し出そうとしたり、相手を見ながら無理に作り上げたりするのではなく、今、動いている私自身を、ちゃんと聞いてあげることが第一歩なのだ!」 と受けていながらも、結局は聞きっぱなしで何も身についていない私でした。

過去に三回、カウンセリングのワークショップに参加させていただき、少しは自分が見れるようになった…、それを言葉に出来るようになった…、などと自讃していたのですが、やっぱり私は「言い訳」しかしていないなぁ~ って思いました。
今日、教えていただいたこと、すぐに実践することも、上手く言うことも出来ないとは思うけれど、行き詰った時には思い出して実行していきたいと思います。
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「事実」は事実として [真宗カウンセリング]

この一週間は久しぶりのハードスケジュールで、腰をおろす暇もありませんでしたが、とても充実した時間を過ごさせていただきました。
しかしながら、体力よりも気力の方に先にくたれがきてしまい、明日は予定を変更して休息日をいただくことにいたしました。 よって、久々にBLOGの更新が出来そうです。

世間は紅葉が真っ盛りですね~~~。 私もこの一週間であちらこちらの紅葉狩りを楽しんでまいりましたが、その旅BLOGを書く前に、先日、真宗カウンセリングのワークショップに参加させていただきましたことを少しだけ書いておきたくなりました。

「真宗カウンセリングは、人間が真の人間になる道。 法(南無阿弥陀仏)を根底においた、‘今’ ・ ‘ここ’ の人格的交流により、今生の問題や苦しみ、真宗に関わる悩みや疑問などを、‘今’ ・ ‘ここ’ に湧き出るままに、語り合い、聞き合い、理解し合い、新たなる自己の発見、自己と他者との法との出会いを実現していくものです。」と提唱された西光義敞先生によって生み育てられ、その理念を引き継がれた先生方・先輩方によってその場がくっきりと現存しております。
その空間に浸けていただくことの出来たのも、不可思議なる導きによって ‘今’ ・ ‘ここ’ の私に手が差し伸べられそっと背中を押してくださったおかげで、この度で三回目の参加となりました。

今回は、「事実」を事実と聞かせていただいたなぁ~と、今、感じております。

今日まで、三歳九ヶ月になる姪っ子のアミリヤが我が家に泊まりに来ていました。
彼女は本当に私にそっくりです、 と言いますか、まるで鏡ですね。 鏡(きょう)← 教(きょう)← 経(きょう) と、逆なようでいてストレートに「私」を教えてくださいます。

本当の自分を観せられる…、真実の自分を知らされるということがこれほどまでに苦痛なことだとは思っていませんでした。
だって、理想の自分が壊されて行くんです。 いえ いえ、「これが私」と思っていた私が、実は「理想の私」であったと知らされた、ということなのでしょう。

有福の善太郎さんは、「手・足でなすことも、心に思うことも、口に言うこと、耳に聞くこと、目に見ることも、夜の寝息までもが地獄行きのタネ作りとなる自分なのだ」とおっしゃいました。
 そう思えるようになるまで聞きぬかなくてはならないと思っていました。
 そんな私なのだと、ただ聞くだけでいいと耳に流していました。
私には、「真実」を真実として受ける入れる器がなかったんです・・・。
いつかは聞ける自分だとか、そう思えないからまだダメだとか、そんなことばかりを問題にしてゴチャゴチャと空回りするばかりで、「事実」を事実として受け入れることすら出来ていませんでした。

アミリヤ キャンディ.jpgアミリヤはとてもわがままな娘です。
次から次へとやりたいこと、欲しいものが出てきます。 そして自分に気に入らないことにはすぐ腹を立てるし、虫などの生き物を面白がって殺し、食べ物も好き嫌いで粗末にします。 でも、自分は良い子だと思っています。 優しい子だと思っています。 賢い子だと思っています。
自分のやることなすこと何一つとして地獄行きのタネ作りだなんて微塵も思っていません。
そんな子悪魔のようなアミリヤがそのまんまの私なんです。 しかも、私がアミリヤに見ている自分というモノは、たかだか知れたこれっぽっちの表面的な悪でしかありません。

自分が理想としている私とは正反対の 「見るも無残、聞くもおぞましいおまえこそが真実のおまえぞ!」と目の前に突きつけられ、私はこれに必死になって抵抗し続け、目を塞ぎ、耳を背けながら外にばかり恨みつらみを並べているんです・・・。
「こんな私」を観させていただけるも御法のおかげ…、だなんて大~きなお世話です!! とんでもなく迷惑な話で、如来さまをどれだけ恨んだか知れません。
その恨みにプラスして、「どうして私を苦しめるばかりで助けんのか!!」と・・・、 「弥陀よ、出て来て無限といわれる力とやらを見せてみよ!」と・・・。 そんな自分が出てくる自分も許せませんでした・・・・・・。

でも、「自分で自分を責めている奈っちゃんも事実ならば、法によって観せられている奈っちゃんも事実なんや」と教えていただき、これを私の思いで否定しようとも肯定しようとも、‘今’ ・ ‘ここ’ に 生きて動いている私には変わりはなく、事実は事実なんだって。
理想の私を思い描いている私も、真実を受け入れることの出来ない私も、御法によって観させられている私も、そのすべての私がお目当ての私で、このお目当て(私)一人にかけられた御本願なんだって。

「弥陀よ、どこにおる?! その力を見せてみよ!!」と言っている私の目の前に置かれた法の鏡こそが如来さまであり、こんな悪タレな自分が僅かでも見えているということ自体が如来さまの御力だったんだって。

良い・悪い、出来る・出来ない という問題ではなく、「事実」は事実であり、「真実」は真実なんです。
罪悪深重な私がいるという事実、そんな私のことを如来さまは全部知っておられるという事実、これを哀れに思い立ち上がってくださった仏さまがいるという事実、その如来さまのお働きがあるという事実、そして南無阿弥陀仏となって私の口から出てくださっている事実、 それらの事実をこの私が信じようが信じまいが、知っていようが知らぬまいが、「私」の感知出来ない事実があるという事実。
そんな「事実」を前に、私の思いなど入りこむ隙間はなく、私に出来ることなど何もありませんでした。
南無阿弥陀仏
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京都でのワークを終えて… [真宗カウンセリング]

京都から帰ってまいりました。 
真宗カウンセリングのワークショップに参加させていただくのは二回目ですが、今回は理屈抜きに 「真宗カウンセリングというものを体験させていただいた」という充実感に浸っている私がいます。

三ヶ月ほど前、始めて真宗カウンセリングという分野のワークショップに参加させていただいた時は、「もう二度と参加することはないだろう・・・」と、後味の悪い思いを胸に帰った私でしたが、それから三ヶ月という時間を過ごす中でこれを何度か振り返らせていただくうちに、「あぁ、これが真宗カウンセリングなのかぁ」 と・・・、まだ言葉にこそなりませんが、徐々に沸き上がってくる気付きがありまして、それをもう少しちゃんとした形にしたいな~、という思いが出てまいりました。
また、今回のワークショップへの参加動機を思い返してみた時、「安心・安全 な 場所」を求めていた私と、 「私を聞いて欲しい・・・。 また、私自身を知りたい・・・。 そして、その中で私の如来さまを聞かせていただきたい!」 との欲望にかられている私がありました。
ワークを終えた直後の今、それらをどのような形で受容しているのかと自身に問うてみれば、大きな流れに乗せていただくままに、安心・安全な 私の居場所に運んでいただき、そこで自身から出てくるままに語らせていただくうちに、本願の大海という大海原の風を感じさせていただいたという感じです。

ただ、「真宗カウンセリング」って何なのだろう・・・? という問いの答えに、ハッキリとした輪郭が見えているわけではありませんが、少なくとも前回 広島でのワークで感じたような戸惑いはなく、また、「真宗」と「カウンセリング」とに分けて考えるものでもなく、「真宗カウンセリング」って、「御法(真宗)の中に生かさせていただいている私自身を知ること」なのかなぁ~・・・・・、 これを自分一人だけで知り得るというはなかなか出来ることではないので、安心・安全な場所にて、そこで他者との関わり合いを通して、自分の内側にあるものを立体化させ、それを私自身が客観的に受け取っていくことなのかなぁ~ なんて、まだ漠然としていますが、今はそんなふうに思っています。
またkyoさんが、「真宗」と「カウンセリング」との間にある「と」が「私」なのだと教えてくださったことも、今一度振り返って深く見ていきたいなぁ なんて思っています。

それにしましても、まるっと二日間、どっぷりと法水にザルごと浸けていただいて・・・ と言いますか、 心地よい御法の温泉にでも入れていただいたような二日間を過ごすことが出来て、今は湯上り気分でサッパリとした私がいます。
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真宗カウンセリング in 広島 (後編 [真宗カウンセリング]

真宗カウンセリング・ワークショップの二日目。 この日も晴天に恵まれ、一日中室内で過ごすのは もったいない・・・ という理由を自分の中に立てて、 昨日に引き続き、「今 すぐにでも 帰りたい・・・」 との思いから抜け出せないまま、三回目のsessionにのぞみました。
そこでは、ある観点から 「苛立ち」が 「怒り」に変わっていく自分を観せられて、すごく不快な気持になりました。
そして、四回目、五回目のsessionを過ごす中、 HKさんが発言の場を与えてくださったことがきっかけとなって、これまで言葉にすることが出来なかった思いのホンの一部分ですが、口にすることが出来た… といいますか・・・、 ついうっかりと口にしてしまった… といいますか・・・、 自分の胸の内を とうとう表現してしまいました・・・・・。
しかし、それでスッキリしたかと言えば 全然そうではなくて・・・、 逆に、言葉にしてしまったことへの後悔と、私が発言したことで傷付けてしまった… という申し訳なさから、ますます 「帰りたい・・・」 との思いが募ってしまいました・・・。

「真宗」 って何…?  「カウンセリング」 って何…?  その二つがくっついた「真宗カウンセリング」 って いったい何なの…?!   私は、ここで、いったい何をしているの?! ・・・ と、 疑問というよりも、訳のわからない苛立ちでそれらに八つ当たりをしているような感じでした。

二日目夜の懇親会は、今日の自分の発言で人を傷つけてしまった・・・ という後悔から、参加することをためらっていたのですが、行かなければ行かないで心配をかけてしまうかもしれないと思い、遅くになって参加することを決めました。 でも、結果的には行ってよかったです。
今回、同じワークに参加されていたカウンセリングの専門家の先生と、お昼休みに引き続いて夜の懇親会でもゆっくりとお話しすることが出来たおかげで、心にパワーをいただきました。 「私は、私であっていいんだ・・・  私は、私でしかありえないんだ・・・」 って! 

懇親会が終わって部屋に戻ると、親友からメールの返事が届いていて・・・、 「明日、広島まで行くから、それまで頑張って!」 と。 その気持ちにも、大きなパワーをいただきました。
その夜は、その日の回想に忙しくてほとんど眠ることが出来ませんでしたが、心地悪くはなかったです。
結局、自分の頭で理解したいと思うこと自体が間違いでした・・・。 
真宗は、「この身」で聞かせていただくもの。 カウンセリングは、「今」、「ここの私」を聞かせていただくもの。  私の「計らい心」とか…、この「壊れた頭」とか…、 私がそんなものにかかりっきりなっている間にも、「そんな私だからこそ」と願いはかけられていて、ちゃんとその場をご用意してくださり、否が応でもこの身に受けさせていただいていたのだなぁ~って・・・、 これが、「真宗カウンセリング」なのだなぁ~ っと、この夜、聞かせていただきました。

翌朝は、これを自身に確かめるかのように 朝から長々と YKちゃんと仏法讃談をさせていただき、そして最終日のsessionを迎えました。

終わってみればこの三日間、アッと言う間だったように思います。
「今すぐに帰りたい・・・」と泣きべそをかいていた二日前・・・。 そして、子供のように無邪気に笑えるようになった最終日・・・。 どちらの私も私なのです・・・・・。 これから先も、ず~~~っと こんなことを繰り返して行く私なのです・・・・・。
そんな私にかけられた唯一真実の御心を聞かせていただくために、私は広島まで来させていただいたのだなぁ~って・・・。 
「今回は、時期が合ってちょうどよかったね!」・・・ ではなくて、 この私一人の為にすべてが整えられて、私一人の為の「今」をくださったのだと、強く感じました。
最後は、「S先生や、MK先生をはじめ、みんな みんな 私の為にご苦労くださったのだ!」 って、チャランポランで喜べる私と出会わせていただきました。 

神田山荘.JPG

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真宗カウンセリング in 広島 (前編 [真宗カウンセリング]

自分勝手に傷ついて・・・、 「死んじゃおぅ・・・」 なんて気持ちになって・・・、 それでも 「誰か助けて!」 って叫びは止まらなくて・・・、 そんな時、Knさんが寄り添ってくださり、S先生が包んでくださいました。
そんなこともあって、先生が今回のワークショップにお誘いくださり・・・・・、  ホントに、自分の中にドップリと浸かり過ぎているが故に自分で自分のことがわからなくて、そんな自分を詮索ばかりしているから何も聞くことが出来ない私で・・・  また、外からの視線を意識し過ぎるが故に自分を見失ってしまい、相手の気持ちに合わせることばかりしているから言葉が上手く出せない私で・・・  そんな私と もう少し上手く向き合うことができたら…、 と思って、この真宗カウンセリングのワークショップに申し込むことにしました。
それがどんなものなのか まったくわからなくて・・・、 もしかしたら、もっと もっと 自分を追い込むことになるのではないかしら・・・ という不安の中、広島まで出かけてまいりました。 ただS先生からいただいた、「私が、私でいられる場所」という言葉だけを頼りに・・・。

真宗カウンセリングの初日は支部法座の日でもあり・・・、 これに関連して心病むことがあったので、そちらの方でも気持ち的に不安いっぱいになって・・・、 そんな中でむかえた、始めての真宗カウンセリング当日・・・。
広島駅で宿舎のシャトルバスを待つ間、欠席を予定されていた先生の姿をみつけて少し嬉しくはなったのですが・・・、 ただ、宿へ向かう間中 ず~~~っと 先生のお話しを聞かせていただいて・・・、 それを自分の中で消化しきれないままに受け止めてしまったことで、 私自身の、この不安定な気持ちの逃げ道を見失ってしまったのかもしれません・・・。

そして会場に入っても自分の居場所を見つけることが出来ずに、 緊張とか、不安とか、憂鬱とか、そんなマイナスな気持ちばかりが膨らんで・・・、 私は、いたたまれずに外へと飛び出しました。
きれいな青空・・・・・  でも、風は冷たくて・・・。   そして、桜の花は咲き始めたばかり・・・・・。
一人 空を見上げている私を心配してくださったHMさんが外まで出て来て、そっと心に寄り添ってくださったことで、 その優しさに緊張の糸が少し緩んで、涙がこぼれ落ちました・・・。

そして会場に戻った時には、既におおかたのメンバーが顔をそろえておりましたが、その大半が私にとっては初対面の方々で、緊張は高まるばかり・・・。  そして何よりも、これから何が始まるのかしら・・・ という不安で、心がギュウギュウになっている感じでした。

ワークは、三日間で 7 session の予定。 ホントに、何をどうすればよいのかわからない状態で・・・、
先生が教えてくださった「カウンセリングのルール」ということにも、少し怖気づいてしまいました・・・。
でも、ここは 「話せる場所」であり、 「聞いていただける場所」である ということを自分に言い聞かせて、 初回のsessionでは、「泣きたくなるほど不安な気持ち・・・」 ということを言葉することが出来たことで、新たな心境に一歩進めた感じがしました。
それは、 自分の気持ちを言葉にしてしまったことへの後悔の想いでもあり、 同時に、「そんな私なのだ」 という気付きのきっかけでもありました。

そして、二回目のsessionでは、慌ただしく沸き起こる自身の感情に苛立ちを覚え始めたのですが・・・、 ただ、 笑顔でない自分を、叱咤する自分が出て来ないことに、 少し ホッとしながら参加出来ていたように思います。

3.28~30 food.JPG

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