SSブログ

Thai For Japan [詩・言葉]

タイに住む友達からメールが届きました。
いろいろなサイトで紹介させていただきましたが、ここにも一筆。

「久しぶりです。 元気ですか?
タイの国民的歌手、バード・トンチャイ・メッキンタイさんが、東日本大震災のために作った曲です。
日本の人たちに聞いてもらってください。」

   http://www.youtube.com/watch?v=zgy8bFVWM2E


     Thai For Japan : เบิร์ด ธงไชย แมคอินไตย์
 
      もうすぐ 新しい日が訪れる
      もうすぐ 地平線に太陽の光が見えてくる
      もうすぐ 失った気力と心の力を取り戻せるだろう
      今すぐ 今すぐ

      大波が去り 涙の波だけが残された
      それを思いやりの波に変える
      運命が多くの命を奪っていった
      それでも 涙を拭いて 歩き続けよう
      辛いことは やがて過ぎ去っていく

      波が去り 残した涙
      愛の手で 癒やそう
      悲しみや 今の辛さ
      涙こらえ 立ち向かおう 明日のために・・・

      今から 歩き出そう 未来へ
      立ち止まらず 振り返らないで
      あきらめず立ち上がり あふれる希望 この胸に
      今から 今すぐ

      波が去り 残した涙
      愛の手で 癒やそう
      悲しみや 今の辛さ
      涙こらえ 立ち向かおう 明日のために・・・

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

桜梅桃李 [随筆日記]

ご近所にも梅の花が咲き始めた三月の上旬、カメラと共にお出かけしてきました。

2011.2.26  梅園.JPG

梅の木は、遣隋使が中国から持ち帰り日本に伝えられたと言われています。
その中国の故事に、「桜梅桃李(おうばいとうり)」というものがあります。 
鎌倉時代に編纂された世俗説話集 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』の中にある 「春は櫻梅桃李の花あり、秋は紅蘭紫菊の花あり、皆これ錦繍の色、酷烈の匂なり」 というのは、この故事が元になっているようです。
「桜梅桃李」というのは、桜と、梅と、桃と、李(すもも)のことです。
互いに似たような花ではあるけれど、桜は桜として、梅は梅として、桃は桃として、李は李として、個々の特徴を精一杯に生かし、いずれも独自に美しい花を咲かせるという意味です。
桜は桜のままに、梅は梅でしかないのだし、桃は桃のままだからよいのだし、李は李なのだから・・・、「そのままの私でいいんだよ」、「そのままの私でしかないんだよ」って、教えてくれているんです。

人は、己と他者と比べては、自惚れたり、卑下したり・・・、それで傷付いたり、傷付けたり・・・、そんなことばかりしているけれど、そんな人間界に、「もう、春はすぐそこまで来ているよ」と優しく囁きかけてくれる梅の花。

私、思うのです。 「桜梅桃李」というのは、桜のふりなんかしても無意味だよ、梅になったつもりでいてはもったいないよ、桃になろうとしても無理を重ねるだけだよ、李になる必要はないんだよ。
そのままの私でいいんだから、春に包まれるままに、私らしく花を咲かそう! って。
どんな私でも、そのままの私を春は包んでくれるのですから。
花が一つ開く時、南無阿弥陀仏と聞こえます。 花が一つ落ちる時も、南無阿弥陀仏と聞こえます。

法然さまの誕生から入寂に至るまでのご生涯の行状、また法語やご消息、著述などの思想なども描かれている『法然上人行状絵図』の中にも、「桜梅桃李」という言葉が見られます。

近来の行人、観法をなす事なかれ。 仏像を観ずとも、運慶快慶が造りたる仏程だにも、観じあらわすべからず。
極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の花果程も、観じあらわさん事かたかるべし。
ただ 『彼の仏今現に世に在して成仏し給えり。 当に知るべし、本誓の重願虚しからざることを。
衆生称念すれば、必ず往生を得』 の釈を信じて、ふかく本願をたのみて一向に名号を唱うべし。
名号を唱うれば三心おのずから具足する也」  (『法然上人行状絵図』巻第二十一)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

春を告げる花たち [随筆日記]

私は花が好きです。
今を一生懸命に生きている花を見るのが好きです。
花開くのを待ち詫びている蕾、そして自信に満ち満ちて咲き誇る花。
でも、やがて、みな枯れてしまいます・・・・・

華道の師範をしていた父の影響で、我が家の庭には年中絶えず花が咲いていました。
様々な花の名前も、父から教わりました。
私は、いけ花のお稽古はあまり好きではありませんでした。
理由はいくつかありますが、やはり、枯れてしまった花を捨ててしまう時が一番に悲しかったです。
だから私は、生花ではなく、ペーパーフラワーなどのアートフラワーを作って飾るのが好きでした。
でも父からは、「それは死に花だ」と否定され嫌悪れました。

父からは、「花をいける」とは、「花を生かす」ことだと教わりました。
確かに、その通りかもしれません・・・・・
また、「いけ花は、いける者の心を現わす」とも教わりました。
でも、それが、私の胸には落ちて来なかったのです・・・・・

生きている花を切り取って「生かす」というのは、傲慢のような気がしました。
花を生けることによって、その花の美しさは引き出され、それを見た人の心は癒されるでしょう。
また、その花をいける者の気持ちを現わすことは出来ても、では、その花の気持ちはどうなるの?

先日、お散歩で見つけた春の花たちは、待ちに待った春を楽しんでいました。
そして、春を見つけてくれた人の・・・、咲いている自分に気付いてくれた人の心を癒してくれました。
そんな花たちとお話しをするのが好きです。

2011.3.11 なばなの春.JPG

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

梅の花 (妙好華の種) [随筆日記]

佐布里公園の梅園へ行った数日後の週末に四日市南部丘陵公園の梅園へ行ってまいりました。
四日市南部丘陵公園は29haもの広さを持つ市営の公園で様々な遊技場があり、その一角にある梅園には600本程の梅の木が植えられています。
この日はお天気もあまり良くありませんでしたし、梅の花もまだ二分咲きといったところでしたが、それはそれなりに楽しんでまいりました。

2011.2.24 四日市南部丘陵公園.JPG

先回の梅の花を書いたBLOGのご感想をいただいた中に、紀貫之さんの和歌を書いてくださったメールをいただきました。
    「人はいさ 心も知らず ふるさとは  花ぞむかしの香に匂ひける」 
【私釈】 人(あなた)のお心が、どのように変わってしまわれたのかはわかりませんが、懐かしき故郷に咲く梅の花は、昔と変わることなく馥郁かぐわしく今年も美しく咲いております。

梅の花を詠んだ和歌は、数多くあります。 「花(花見)」と言えば、今は桜の花を言いますが、奈良時代より前は「花」といえば、梅の花だったそうです。
梅の花は、英名で 「 Japanese apricot 」。 なんだか味気ないですね。
和名では、木の花(このはな)、好文木(こうぶんぼく)、春告草(はるつげぐさ)、香栄草(こうばえぐさ)、匂草(においぐさ)、初名草(はつなぐさ)、香散見草(かざみぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)など、情景美しく、春香るような別名がたくさんあります。

『新古今和歌集』の中に、梅の花を詠んだ歌をみつけました。
   遅くとく つひに咲きぬる 梅の花  たが植ゑ置きし 種にかあるらむ  (藤原忠平さん)
【私釈】 遅く咲く・早く咲くの違いはあれども、とうとう梅の花が咲きました。 さて、どなたが植えた種から芽を出し、花まで咲かせたのでしょうか?

これを読んだ時、蓮如さまの『御一代記聞書』が思い出されました。

陽気・陰気とてあり。 されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。 かやうに宿善も遅速あり。 されば已・今・当の往生あり。 弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと云云。 已・今・当のこと、前前住上人仰せられ候ふと云云。 昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと云云。

阿弥陀さまの智慧と慈悲の御光は、みな平等に絶え間なく照らし続けてくださっています。
では、何故に花の開くのに遅い・速いがあるのでしょうか?
私は思うのです。 一人一人が皆、違う種を持っています。 その種によって遅速があるのだと。
でも、私の蒔いている種は、今も、そして過去にも未来にも、毒花、悪花の種しか蒔いていません。
その種からは、決して、決して、かぐわしき芳香を放つ美しい花を咲かせることは有り得ないのです。
そんな種からは咲くはずもない「妙好華」と称される花を咲かせるだなんて・・・・・ いったいどなたが蒔いてくださった種から花開くというのでしょうか?

私は自らの地獄を造り続けるばかりです。 そんな私の為にお浄土をお造りくださり、そこに希有の妙華として花咲かせようなどと・・・、 これを必ず誓うと・・・、 そんな有り得ないような不思議をお約束してくださったのが阿弥陀如来さまなのです。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

佐布里公園の梅まつり [随筆日記]

スランプですかねぇ・・・  こちらのBLOGが書けません。 書きたいことは山とあるのですが・・・・。
友達へのメールとかコメントはスラスラと書けるのに・・・。 自分でもわけがわからないです・・・。
でも、写真日記くらいなら書けるかな・・・?

先月、知多市にある、佐布里緑と花のふれあい公園の梅まつりに連れて行っていただきました。
佐布里池(そうりいけ)は愛知用水の調整池で、池の周囲には梅林があって、佐布里梅と呼ばれる梅をはじめとして、25種類、約4,600本の梅が植えられている、県内でもトップクラスの梅林公園です。
久しぶりの外出にちょっと緊張しながら出かけたのが2月の21日。 まだ全体の三割ほどしか咲いていませんでしたが、それでも青空の下、穏やかな春の光にほころび始めた梅の花を見ていると、気持ちがとってもほぐれてきました。

2011.2.21 佐布里池.JPG

梅の木は、私の誕生樹です。 父が私の誕生を祝って、そして、思い、願い、愛情を込めて、庭に紅梅と白梅とを一本ずつ植えてくださいました。
今年も、実家の庭には、私と同じ年齢の紅白二本の梅の木が、今頃花を咲かせていることでしょう。

早春、私はその梅の花の開花を毎年楽しみにしていました。 花が咲いてくれるのが、ただ嬉しかったんです。 紅い梅が先に咲いて、後を追うように白い梅が咲き誇る頃、紅梅は散り落ちて行きます・・・。
それが自然でもあり、また不思議でもあり・・・。 だけど、花の咲くのが本当に嬉しかったんです。

2011.2.21 浜潮.JPG佐布里公園では、大好物のたい焼きと焼き芋を買っていただきました。 とっても美味しかったです。
この後、この日は久しぶりに着物を着て出かけましたので、Launchは和食にしようとうなぎ屋さんに連れて行ってくださいました。 お腹いっぱいいただいて、お腹も心も癒されました。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

蓮如上人の御命日 [御法座・仏法]

ここしばらく、なんやかんやと山あり谷ありしんどくて、BLOGの更新がなかなか出来ませんでしたが、おかげ様で随分と回復してまいりました。 ご心配をくださった皆様、この場を借りて、どうもありがとうございました。m(__)m


今日、3月25日は、蓮如上人の御命日です。
蓮如上人と言えば 『御文章(御文)』ですが、その第一号は、1461年3月、蓮如さま47歳の時に、道西(善従)さまに宛てて書かれたお手紙だといわれており、『帖外御文章』に記載されていると聞きました。

 当流上人の御勘化の信心の一途は、つみの軽重をいはず、また妄念妄執のこころのやまぬなんといふ機のあつかひをさしをきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたかひなくたのむこころの一念をこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまふなり。
 これすなはち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ信心を如来よりあたへたまふといふもこのこころなり。
 さればこのうへには、たとひ名号をとなふるとも、仏たすけたまへとはおもふべからず。
 ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることのかたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきなり。
 これまことの専修専念の行者なり。 これまた当流にたつるところの一念発起平生業成とまうすもこのこころなり。 あなかしこあなかしこ。


そして最後の『御文章(御文)』は、1498年12月15日、蓮如上人84歳の時に、法敬坊さまと空善さまに宛てて書かれたお手紙が、現存するお手紙の最後のお日にちとされていると聞きました。

 南无阿弥陀仏の体は、すなはちこれ願行具足のいわれなりとしるべし。また、機法一体ともこれをまふすなり。夫衆生ありて、南无と帰命すれば、すなはちこれ願のこころなり。
 抑帰命というは、衆生の阿弥陀仏をたのみ後生たすけたまへとまふすこころなり。すでに南无と帰命するところにをいて、やがて願も行も機も法も一体に具足するいはれなるがゆへなればなり。
 これによりて、善導大師は、南无といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願廻向義なりと釈す。
 されば、南无と帰命するところに、すなはち願も行も具足せしむる道理なり、とこころうべきものなり。
 されば、衆生の阿弥陀仏に後生たすけたまへとまふすこころは、われらもおなじく阿弥陀仏とならんとねがいひまふすこころなりとおもふへきものなり。 あなかしこあなかしこ。
予が身体によそへてかくのごとくをかしきことをつらねはんべり。
 老が身は六字のすがたになりやせむ。 願行具足の南无阿弥陀仏なり。


そして、3月25日(明応8年)に、山科本願寺にて85歳で示寂されました。

参考 : http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000015084

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

“後生”に保険? [随筆日記]

今日はお友達とのお食事会。 いつもは楽しくお出かけするのに、今朝から全然気分が乗りません…。
ここ最近、やらなきゃならないことはたくさんあるというのに何もやりたくない…、といいますか、頭も体も残りわずかなバッテリーでぎこちない音を発しながらやっとこさ動いているといった感じで、いつ止まってしもおかしくないような状態・・・。
今日も、申し訳ないという思いを胸にドタキャンを心に決めて、その言い訳をアレコレと考えるも思いつかず、結局はストレートに、「今日はなんだか気分が乗らないの・・・」とメールをしました。
もちろん私の方は、「気分が乗らない」 = 「食事会には行きたくない」 というつもりで送ったのですが、友達からしてみたらそこはイコールにはならなかったんですね~。 「そ~なんだ、それじゃ~後で話を聞くね!」って・・・。
ハッキリと、「行きたくないの!」とは言えないままにグダグダと独り言をつぶやいただけで、結局はお食事会へ行くことになりました。

仏法聴聞の姿勢と同じですね・・・。
「そなたを救う、今すぐに来い!」 との 如来さまのお呼び声を前にして、自分の思いをこねくり回すばかりです・・・。 「来い」と言われても、自分の気持ちが一番大事。 「救う」と言われても、大事があるとは思えないと、やっぱり自分の思いが邪魔をする・・・。

ハッキリと言えばいいんですよ、「わたしゃ死んだ先のことなんて何もわからん! 地獄だとか極楽だとか、行きたいヤツが行けばいいんや! こうして生きている“今”こそが一番大事なんじゃい!」と。
そして、「自分が地獄へ堕ちるとは思えんしなぁ~・・・。 でも、もし自分で選べるのなら、もちろん極楽行きがいい!  だけどさぁ~、今は “この世が極楽”であればいい。 “あの世の極楽”へ行きたいとは、まだまだ思っていないんじゃい!」と。
そうかと言ってハッキリと宣言出来ないのは、
「だってなぁ~…、 もしも死んだ先に行かんならん世界があって、地獄へ堕ちるようなことになったらかなわんで、“後生”っちゅ~もんに保険だけはかけておかんとなぁ~」と。
これが、私の言う仏法聴聞なんです。

でもね、こ~ゆ~自分が知れてくるという不思議に出遇わせいただくと、何だかポカポカしてくるんです。

2011.3.17 GiGi.JPGさてさて、今日はイタリヤ料理でした。
以前も入店したことのあるお気に入りのお店です。
耳に入って来る何気ない会話の数々が、仏法に翻訳されて行く不思議っていうのを味わいながらのお食事会に、チクリチクリと南無阿弥陀仏、ドヨヨヨ~ンと南無阿弥陀仏、私はアホやと南無阿弥陀仏、バカちゃうか~と南無阿弥陀仏、ただ ムシャムシャと 南無阿弥陀仏・・・・・・
今日はお食事会に参加できてよかったです。
不思議 不思議に 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

頭、愚者愚者 [随筆日記]

父とは、もう五年会っていません。 年に一度、父の日に短い手紙とプレゼントを郵送して、返却されて来なければ受け取り人が存在しているということで・・・、つまりは生存確認をしているだけの関係になっています。 私は、そんな親不孝者です・・・・・。
今まで、極力、父のことは思い出さないように…、ふれないように…、と生活をしてきたのですが、今年になってから何故かご縁続きで、私の中に父の存在がクローズアップされる日々が次々に続いています。

この一月、病気の悪化に伴い父の存在が私の中に浮上して来て、翌二月には、ある方とのメールをやり取りする中で父との関係を深く考えさせられる日々が続き、そして今月に入って、先週の東北地方を襲った三陸沖地震により、父と直接関わらなければならない状況になってしまいました。

父の実家は宮城県七ヶ浜にあり、この震災以降連絡がとれません。 塩釜や若林区に住む親戚も依然消息不明のままです。
「心配ですね~」との言葉をくださる方もおられますが、私が心配しているのは、声をかけてくださる方々が思っているような親類の安否の心配などではなく、父と接触しなければならないという自分自身の心配なのです・・・。
父をいたわって私の方から電話をすべきだという思いはあるのですが、受話器を握る手が震えます。
意を決してボタンを押すのですが、最後のワンプッシュが押せません・・・。
心の中には、言い訳、義理、誤魔化し、お上手、見栄、恐怖、不安、嘘、などなど…、様々な思いが次々と降ったり… 湧いたり…、ゴミ山のように山積するばかりで何も手がつかないのです・・・。
これに見かねたDaneが父に電話をして安否情報だけは確認してくれたものの、結局は私自身が父に電話をしなければ、このストレスからは抜け出せない私自身の問題なのです。 だけれども出来ない・・・。
こんなちっぽけなストレスで眠れなくなってしまうだなんて・・・。
おまけに頭の中が愚者愚者(ぐしゃぐしゃ)です。 なまんだぶつ~


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

東北地方太平洋沖地震 [随筆日記]

日本三景の一つである宮城県の松島。 その松島にほど近い小さな港町である七ヶ浜町に父の実家があります。 子供の頃、毎年夏休みを過ごした想い出深い場所です。
その町が、昨日の地震による津波に飲み込まれた後、石油コンビナートの火災によって今現在も黒煙を上げながら真っ赤に燃え盛っており、テレビに映し出されるその映像は、まるで地獄絵でも見ているかのようです。
塩釜の港町や、その他の海岸沿いに住む親戚の家々も津波によってさらわれたとテレビで報じられました。 でも、安否情報は一切わかりません。
少し離れた青森県三沢に住む妹とも連絡がとれない状態です。 電話はつながらず、メールを送っても返事がありません。

そんな状況を、冷静に傍観している私があります。 まるで他人事なのです・・・。
いえ、、、、、  他人事としてしまいたい私もいます・・・。

共に御法を聞かせていただく友人等から、「今回のこの大地震で無常を知らせていただきました」 と書かれたメールが何通か届く度に、私は、「へぇ~」と上から目線で感心するばかりです・・・。
確かに、「常はないなぁ~」 と 頭ではわかっているつもりにはなっていますが・・・
この災害で、身内の生・死が未だに確認ができない…。 たとえ生きていたとしてもどのような現状におかれているかまったくわからない…。
そんな状況の中にあっても、私は平々凡々とマイペースな自分の生活の中で、ノホホンとしながら必ず来ると信じている明日の為の準備をアレコレとしているのですもの・・・
私には、「無常」の「ム」の字もなければ、いかに自分が、「この世は常ならん」 ということがわかっていないかということが身にしみるばかりです。

地震に対しても他人事…、 無常に対しても他人事…、 つまり、自分の死に対しても全くの他人事にしてしまっている私なのです。

でも、一番に他人事としてしまいたいのは、観るに堪えない自分自身です。

悲惨な現状をテレビ映像で目にして、興奮する心は何?!
押し寄せる津波…、飲み込まれる家屋や車、そして人々…。 「助けてあげたい! いてもたってもいられない! 私に出来ることは何かないのかしら?!」 な~んてのは表向きで、 「おぉ~、すごいよ~、津波だよ~! あらら~ぁ…」 なんて・・・、 テレビに映し出される映像が悲惨であればあるほどに逸る心が湧き上がってまいります。
“幸災楽禍(こうさいらくか)”  災(わざわい)を幸(さいわい)とし、禍(わざわい)を楽しむ。
つまり、他人にふりかかった災いを見て喜び、人の不幸を己の幸いとして楽しんでいるような心が、ここ(私)にはあるのです。  反吐が出ます・・・。  そんな恐ろしい自分・・・、認めたくないですよ・・・。

今回の件で、「も~ぉ イヤ!!」というほどに観せられた自分に対して、「許せない!」と 自分を責めても何も始まらない・・・ と言われれば、それはそうかもしれません。
深く 深く 内観したところで、我が悪性は果てしなく深く、際限のない闇が広がるばかりです・・・
だけど、あまりにも簡単に、「こんな私だからこその如来さまの御本願でした、 私には“南無阿弥陀仏” だけです!」 というところに スッと収まってしまうほど、仏法を聞くとは甘いものではないと思うのです。

仏法を聞くとは、聞かせていただいた方程式に自分の心を乗せることではありません。

際限のない深い 深い この私の闇を観ると言うのは、とても とても辛いことです。 仏法を聞くというのは、本当に 本当に 厳しいことです。
でも、深く知れば知るほどに、もっと もっと 深い大悲の御心にふれさせていただくことが出来ます。
厳しければ厳しいほどに、大きくあたたかな如来さまの慈悲の御心に出遇わせていただくことが出来ます。 だから南無阿弥陀仏なのです。 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

二つの質問 [随筆日記]

「あと 5分間しか生きられない! となったら、何がしたいですか?」との問いに、彼女たちは思い思いの夢を脳裏に浮かべながら、口々に理想の“最後の時間”を語り始めました。
その中の誰一人として、「5分後のこと」など考えている人などおりませんでしたし、「あと5分間しか生きられない」という質問の恐ろしさを考える人もありませんでした。
それ以前に、“5分間”と限定された時間のシチュエーションは各々フリーでしたが・・・、
5分後に眠るようにこの世を去る? 5分後にこの部屋の時限装置が爆発する? 5分後に絞首刑の床板が抜ける? ・・・  それすらも誰一人として問題にすることなく・・・・・、
ただ ただ 残された5分間をいかに自分らしく有意義に過ごすか?! それが彼女たちの答えのすべてでした。 彼氏と抱き合いながら最後を迎える…、好きなものを死ぬまで食べ尽くす…、お金を使い切る…、身支度を整える…、などなど。

人は、問われたことのほんの一部からしか見ていません。 大方の人は、自分向きの一方向からしか見ることが出来ないし、受けることも出来ないのだなぁ~ と知りました。
「あと5分間しか生きられない!となったら、何がしたい?」との問いには、もちろん彼女たちが思い描いた「5分間の生き方」という問いも含まれてはいますがそれだけではなく、たとえば、「5分間という時間の大切さ」、「生きているということの意味」、「死んで行かなければならないということ」、「生・死と向き合う私自身のこと」、「そして5分後の自分」ということなどなど…、多方面からの問いかけが含まれていますのに、大半の人は、「理想の時間の過ごし方」しか思い浮かべませんでした。
これを世間では、「普通の人」と呼んでいます。

そういう私はどうなのか・・・・・
嘘か真か…、その真偽は私自身にもわかりませんが、「私は、たったの5分間だけ、お念仏をさせていただきます」と答えました。  これを世間では、「変な人(略して変人)」と呼んでいます。

もう一つ、質問をしました。
「たった一つだけ、現実的に自分に叶えられるとしたら、何を願いますか?」と。
こちらの答えも先ほどとほとんど変わることなく、宝くじが当たり…、好きな人と思いを遂げたい…、賞(名誉)が欲しい…、自分の納得のいく最高傑作を完成させたい…、などなど・・・。
そして私の答えは、「病気を治したい」でした。

この問いを、「自分は仏法を求道しています!!」と宣言している人たちに問うたなら、どのような答えが返って来るかしら?と想像してみましたが、未信の人ならば、「信心決定したい!(悟りを開きたい)」とか答えられるのかしら?
ただし質問は、「現実的に」「自分に」叶えられることを問うています。
聖道門であれ、浄土門であれ、「自分」を知れば知るほどに、その願いは「非現実的」なものだと知らされるはずですので、この問いの答えにはならないはずです。
では、「自分は既に獲信しています、悟っています!!」と宣言している人たちに問うたなら、どのような答えが返って来るかしら? なんてことは、あまり興味はありません。

少なくとも私自身は、仏法の「ぶ」の字も、南無阿弥陀仏の「な」の字も「あ」の字も出てきませんでした。 私の願いの中には、仏も法もなければ、三世も後生もないのです。 空っぽです。
あるのは、果てしない欲ばかり・・・。 自分の思いを遂げるための欲心だけで、その願いには切りがありません。 終わりがないのです。
一つ叶えば、また次の一つに手が伸びます。 死ぬまで、願い、願い続けて止むことはありません。
死ぬ前がこんなんですからね、死んで燃やされ骨になって後、何を願い続けるのでしょうかね・・・?

私の「病気を治したい」との願いの先には、「もう病気にはなりたくない」→「死ぬまで健康でいたい」→「死にたくない」にたどり着くでしょう・・・。
お金を欲した人も、愛を欲した人も、名誉を欲した人も、結局はみな同じ・・・、「死ぬまで幸せでいたい、苦労はしたくない」→「死ぬのは恐い、死にたくない」に収まって来るのではないでしょうか?
哀れですね・・・・・

「あと5分間しか生きられない!となったら、何がしたいですか?」
「たった一つだけ、現実的に自分に叶えられるとしたら、何を願いますか?」
今一度、考えてみませんか? 今一度、自分を顧みてみませんか?  南無阿弥陀仏

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

辻家の家庭法座 [座談会・懇親会]

   「今日は、命がけでお話しをさせていただきます」

   それが最初の一言でした。
   一気に溢れ出した涙・・・・・
   私は、ただここに、当たり前のごとくに座っているだけでした。
   誰のおかげもなく
   誰のご苦労も知らずに
   私は、なんも知らんと、用意された座布団の上にただ座っただけでした。

   誰の為に命をかけてくださっているのか・・・
   何のために命をかけてくださっているのか・・・
   「命をかける」とはどんなことなのか・・・
   皆、自分の智恵でわかったような気になっている人たちの姿に、
   鏡を見るが如くに哀れな自分が映し出されました。

   「わたしと同じ仏にさせる!」
   その二言目を、ただ惚け~と耳に聞き

   「絶対に失うことのない宝物をあげる!」
   との三言目に、命がけの説法とは真逆の方を向いている私

   「必ず救う」は、如来さまの願いです。
   「仏にさす」は、如来さまの誓いです。

   私には何もない・・・・・・
   私には、私(我)そのものしかない・・・・・・
   それすらもわからん私なのに・・・・・・

   最後の一言は、
   「どうか仏になってください、 どうぞ“南無阿弥陀仏”をもらってください」
   そう言って床に額を擦りつけられた如来さまに、
   「ごめんなさい」 と 泣いて称えた 南無阿弥陀仏をいただい上に
   「ありがとう、信じてくれてありがとう」 の 南無阿弥陀仏もいただきました。

   南無阿弥陀仏を聞かんならんのは、他の誰でもないこの私でした。
   ただ ただ 私の為の南無阿弥陀仏でした。
   それを知らんで、
   それを知らんで、
   私(我)の願いばっかりに執着しておる私に
   果てしない過去より、南無阿弥陀仏となってずっと一緒におってくださった。
   南無阿弥陀仏を知らん私を、南無阿弥陀仏でずっと包んでおってくださった。

   これ一つ
   これ一つ、
   どうか、どうか、聞いてくださいと、南無阿弥陀仏になってくださった。

   その御苦労など全然わからん・・・・・・
   私には、全く 全く わからんけれど、
   どうぞ、どうぞ、聞いてくださいの南無阿弥陀仏は、
   こんなにも こんなにも いつも一緒におってくださったのです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

ギルガメシュ 「私の死」 [心]

今日(2/17)は、「ノアの洪水の日」なのだそうです。
昔、父がキリスト教を信仰していた影響で、「ノアの箱舟」の物語は、幼い頃より知っていました。
始めて読み聞かされた時、「どうして雄♂と雌♀の二匹じゃないとダメなの?」との質問をした覚えがありますが・・・、 さて・・・? 何と答えてもらったのかは覚えておりません。

仏教の『経典』というのは、お釈迦さま自らが語られた御言葉・御教えを、羅漢となられたお弟子さま方が書き遺してくださった記録であるのに対して、キリスト教の『聖書』というものは、イエスさまが語られた御教えではなく、過去の伝承的な物語や後世の使徒らが書かかれた著書の集体本であります。
その一つに「ノアの箱舟」のお話しがございますが、これは、インド神話やギリシャ神話など、世界各国に同じような物語がいくつも残されております。
中でも 『ギルガメシュ叙事詩』にあるウトナピシュティムの洪水物語に、興味深い一節を見つけました。
ギルガメシュというのは、古代メソポタミア(紀元前2600年頃)に実在していた王様なのですが、彼の死後、神格化された彼の伝説を叙事詩にした説話集が『ギルガメシュ叙事詩』と呼ばれているものです。

ギルガメシュはかなりの暴君で、その横暴を見かねた神は彼のライバルとしてエンキドゥという野人を地上に遣わしました。 地上に降りたばかりのエンキドゥは智恵なき獣でありましたが、聖娼婦シャムハトとの六晩七日による「交わり」によって野人性を失い、代わりに知恵と判断力を得ました。
その後ギルガメシュとエンキドゥは何度も対決するのですが力互角にて決着がつかず、そんな中で二人の間には友情が芽生え無二の親友となって旅と冒険を繰り広げます。
物語にはギルガメシュとエンキドゥの種々の伝説が書かれているのですが、彼らの数々の行いは神々の怒りをかうこととなり、神によって作られたエンキドゥは、神の意向により死してしまいました。

ギルガメシュは、自分と同等の力を持つエンキドゥが死んだことから、「自分も死すべき存在である」ということを知り、今まで何にも恐れることのなかった彼が、「死の恐怖」に怯えるようになったのです。
そしてギルガメシュは、「永遠の命」を手に入れるための旅に出て、その途中でうわさに聞いたウトナピシュティムという人を求めて西へと向かいました。 その人は、神が起こした大洪水の時に箱舟を作ったことにより永遠の命を手に入れたと言われている人でした。
ギルガメシュは、その最後の旅でウトナピシュティムという人に会って不死の薬草のありかを聞き出したのですが、しかし、それを手に入れることは出来ませんでした。

「自分の死」というものを、「この私の死」と受け取るというのは簡単に出来ることではございません。
ギルガメシュは、エンキドゥの死によって、「人間は死ぬものだ」ということ知り、それは「自分も死すべき存在であるのだ」と我が身に知らされて、生れて初めての恐怖というものを体験しました。 「自分の死」という恐怖です。
親友を失ったギルガメシュは、別離の苦を知り、「死」という苦に埋没して、己が己を衰弱させ、生きていることの苦というものを知ったのだと思います。 その根源は、「自分の死」です。

ギルガメシュの「永遠の命」を求める旅の過酷さは物語に書かれておりますが、自分の命を削ってまで、自分を生き永らえさせるモノを追い求めるなんて・・・、まことに、まことに虚仮なことでございます。
永遠の命が 欲しくて 欲しくて たまらない・・・。 私は死にたくない・・・。 死ぬのが怖い・・・。
言いかえれば、欲望全開のままに、自分が「今」死ぬとも知らずに、自分のして来たことの責任を負いたくない。 それ故に、自分の力で、頑張って、頑張って、命がけでなんとかできると自分を信じ、何とかしようと生き踏ん張っている・・・。
それが私の姿です。 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

死への思いは変わらぬままに… [Poem]

   人は、一人では生けて行けません。
   でも、独りになりたい時があります。
   このまま、ず~っと独りでいようと決心した時、
   それはきっと、人との縁を切るのではなく
   この世との縁を切ることになるのだと思います。

   人は、決して一人では生きて行かれません。
   でも、どうにも独りになろうと心の動くことがあります。
   そうすると、涙が溢れて来るのです・・・
   訳もわからず、泣けてきちゃうのです・・・

   悲しくて、苦しい時には、逃げ出したくて死を望み、
   嬉しくて、楽しい時にも、これで終わりと死を求め、
   いつも いつだって 私は生きることに後ろ向きです。

   今日の夕方、少し元気のない親友から届いたメールに、
   「生きていることそのものが悪いことなのかもしれない」
   と、書いてありました。
   私は、幼い頃から、ず~っとそう思って生きてきました。
   だから、いつも 待っている・・・  死を待っている・・・

   本当は違う! 私は生きたいの! って叫んでも、
   この迷った脳裏は、光り輝く後生の幻影を描き出して
   私の目の前に、勿体ぶりながらチラつかせるのです。

   本当は違う! 私は死にたくなんかないの! って叫んでも
   真っ暗闇の中で、やさしく囁きかけられたその声に、
   言われるがままに手を引かれ、
   更に 更に 奥深い闇の世界へと導かれてしまいます。

   仏法を聞くとは、私の後生を聞くこと・・・。
   それは、私の思いで作りだした後生を聞くのではなく、
   真実の鏡に映し出された私の今と過去と未来を聞くということ。
   でも、聞いても、聞いても、聞いても、聞いても、・・・・・・
   一向に寄り添わないのが私です。

   真実に盾突いて、癇癪を起こして、逃げ惑うばかりの私です。
   だから、常に真実の方から寄り添ってくださっているのです。
   真実に背を向けて、駄々をこね、逃げ回るばかりの私です。
   でも、そんな私のそのまんまを、
   大きな 大きな 力で、マルっと丸のまま包みこんでくださっている。

   だから私は変わらない・・・ 何も、なんにも変わらない・・・
   「私は生きていてはいけない存在なのだ」との考えも変わらない、
   ただそれが、どんなにか如来さまを悲しませることになるのか、
   ただそれを、知ってしまっただけのことなのです・・・・・・
   南無阿弥陀仏
   南無阿弥陀仏
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

涅槃 [随筆日記]

今日は、涅槃会です。 お釈迦さまがご入滅なされた日とされています。
実際に正確な月日がわかっている訳ではありませんが、南方仏教からの伝承により、中国にて2月15日(旧暦)と定められたそうです。

涅槃(ニルヴァーナ)とは、煩悩の火が吹き消された状態をいい、迷妄のなくなった心の境地ということなのだそうです。 一切の迷いを離れるというのは、現在迷いの真っただ中におります私には、とても とても 想像の及ばない世界です。

お釈迦さまは、「生きることは‘苦’である」と教えてくださいました。 でも、「苦」とは何でしょう?
私は、常に苦悩の中に居ます。 でも、今までは、そんなことも知りませんでした。
悩みのある時だけが、「苦」であり「不幸」であると思い、その悩みが解決してしまえば、「楽」であり「幸福」だと思っていたからです。
でも、姿かたちは違えども、悩みや苦しみといったものは次から次へと私に襲いかかってまいります。
波のように寄せては引き、寄せては引き、決して絶えることがありません。
その苦悩の根源は何なのか・・・?  お釈迦さまは、それは「煩悩」であると教えてくださいました。

では、「煩悩」とは何なのでしょうか?
煩悩とは、自分で自分を苦しめる、私自身だと思います。
辛くて、悲しくて、苦しいのは、みんな みんな 私の欲のいたすところでございます。
途絶えることのない欲望は、叶えられれば叶えられるほどに深くなり終わることを知りません。
叶えられても、叶えられなくても、終わりなき欲望は怒りを生みだし、愚痴を作り出します。
常に自分の思いに執着をしているが故に煩悩は絶えることがない・・・、 これが私の正体であります。

煩悩だるまの私だもの、苦しいのは当たり前です・・・。 でも、この涙は何なのでしょう・・・
今、自分が何に悲しんでいるのかわかりません。 でも、涙が止まりません・・・・・
なんで泣いているのか私自身わからないけど、でも、如来さまはわかってくださっています・・・。
この私の苦しみも、私のこの悲しみも、そしてどうしようもないこの気持ちも・・・、 自分のことなのに私にはわかりません・・・、 全然わからないけど、でも、如来さまだけはわかってくださっている・・・。
我に迷い…、我に苦しみ…、何もわからないまま不安を抱え…、それでも生きていかねばならない私に、いつも いつも 寄り添ってくださっているのは、如来さまだけです。

悲しいです…。 辛いです…。 でも、そんな私と共に涙して苦しんでくださっている如来さまには涅槃の安らぎなどなくて・・・、 ただ ただ 私の苦悩の深海で、この私一人の幸せを願って御苦労をしてくださっています。
ごめんなさい南無阿弥陀仏  ごめんなさい南無阿弥陀仏   そして、南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

Valentine's Day [随筆日記]

今日は、バレンタインデーでした。
学生時代は好きでしたね~! 大学の帰り道、贈る人の顔を思い浮かべてぇ~… な~んてことは皆無でしたが、毎日、自分にプレゼントをするためのチョコレートを物色するのが楽しかったです。o(^o^)o
銀行員時代は嫌いでしたね~! 職場は圧倒的に男性のが多く、義理チョコを渡さなければならない習慣に、「何でこんなことにお金を使わなくっちゃならないんだ!」って、ホント愚痴っていました。(一_一;)

アメリカに住み始めて驚いたのは、日本式バレンタインデーというのは、あくまで日本独自の習慣であったという発見です。 つまり、日本のバレンタインデーは、本来欧米でいわれているバレンタインデーとは、全く異なった日本独自の風習であったということを知りました。

バレンタインデーの起源は紀元前までさかのぼり、セント・バレンタインズデーとも言われていますが、実はキリスト教を起源にもつ祭典ではありません。
ギリシア神話に伝えられる結婚と母性の女神・ヘーラーを原型にもつ、ローマ神話の家庭と結婚の女神・ユーノーの日(2月14日)にちなんで始まった行事が起源とされていますが、今では「愛を誓う日」として、世界各国で独自のスタイルにてイベントが催されています。

ただ、世界の中でも日本のバレンタインデーは独特で、まず、「女性から男性への一方的な愛の告白をする日」とされているのは日本だけのようです。
また、贈り物がチョコレートに限定されているという点も特徴のようですね。

私が住んでいたアメリカ東部のバレンタインデーでは、男性から女性へ、それも親しい恋人や奥さんに対して、日頃の感謝や愛の言葉と共にスイーツや花などを添えてプレゼントを贈るという習慣があります。
ですからアメリカ人の友達には、「女性から男性に愛の告白?! それも、親しい間柄ではない人にも贈るの?!」 と、日本のバレンタインデーの習慣にはかなり驚かれ、軽く非難されたこともありました。
でも、私はアメリカのバレンタインデーが好きでしたね~。 何で?って・・・ _(^^;)ゞ  それはですね、
バレンタインデー当日になると、バレンタインギフトの半額セールが始まるんです~ぅo(^o^)o
Godivaのチョコレートなど、ここぞとばかりに買い貯めたりなんかして!(((^^;) OH! LUCKY!!

そう言えば、一年くらい前だったと記憶しますが、「鬱病の人はチョコレートを多く食べる」との研究結果を発表した医学雑誌の記事に対して、「チョコレートをたくさん食べるから鬱病になるのだ」との見解で対抗した心理学者がいたことを思い出しました。
NETで記事を探してみたのですが見つからなくて確かなことは言えませんが…、少なくとも私自身、普段はあまりチョコレートを口にすることはないのですが、気分の落ち込みが激しくなるとやたらとチョコレートが食べたくなります。
現にここ最近、波はあるものの禁断症状的にチョコレートを欲することがあります。
今日もチョコレートとコーヒーでお腹がいっぱい・・・  これでは、胃を悪くしても仕方がありませんね。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

「真実」と「不実」 [心]

お腹が痛い・・・。  いろいろな原因が重なって、ここ数日、お腹が不服を訴えています。
昨日は、支部法座がありました。 支部活動における種々の問題もあって何かと大変ではありましたが、まぁ~ それはそれ。 御法話をいただき、それなりに法悦をいただいて、これを大事に持ち帰ろうとする私に、「ホンマかいな?!」と私の体調が邪魔をします。
お腹が痛い・・・。  法悦・・・?  そんなもん、いつの間にか、どこへやら・・・?!
まったくもって「真実」とは無縁の我が身に、はぁ~・・・ とため息・・・。
自分の都合で法悦だ何だとほざいているだけで、所詮はこの程度なのです。 我が身の苦痛の前には、「法も悦も利用価値なし!」とばかりにサッサと切り捨て、‘「私」大事’ というヤツばかりがのさばります。
いただきものの法悦すらも自分の手柄にした上で、これを自身の中に取り込もうとするばかり・・・。 そして自分の気の向くままに、こっちにやったり、あっちへ放ったりと、本当に大事ものなどまるで存知なし。
そんな我が身を通して、「仏法まことやなぁ~」 と 味合わせていただきました。

仏法と出遇う前までは、「真実」って、自分が作るものだと思っていました。
でも、自分というヤツを知れば知るほどに、こんなモノ(私)に「真実」など作れるはずがないと知らされ、「「真実」は作るものではない!」 と断言出来るに至るまで、いったいどれほどの「偽真実」をこしらえてきたことか…。 そしてこれを壊される度に、何度悔しい思いに泣き、これを人のせいにしてきたことか…。

また、仏法を聞き始めた頃には、どこぞにある「真実」というヤツを手に入れることこそが、「真実への道」だとも思っておりました。
真実はいずこに? と・・・、 「真実」を発見するため、それと出遇う為の苦しい旅(人生)を「聞法」と呼び、そして、そこに苦悩と安心を交互に見つけては、その度に 「あぁ…、私は 「真実の道」を着実に歩んでいるのだ…」 などと本気でそう思っていました。

でも、これらを、「あぁ、間違いだった!」 と気付かせていただい時の、あの呆気らかんとした感覚・・・。
歓喜も懺悔もない・・・。

ただ、私が何と思おうとも、たとえどんな私であろうとも、絶え間のない「真実」が、「真実」の方から常にこの私に向かって働きかけてくださっている。 その光を真正面からこの身いっぱいに浴びながら、何も感じていない私がここにおった・・・。 「真実」を「真実」だとわかるはずのない私がここにおるのだと・・・。 これに対して文句や言い訳と言った類いの言葉が出て来んようになってしまった不思議を、ちょっぴり不思議に 「ありゃ?!」と感じただけのこと・・・。

お腹が痛けりゃ、御法どころじゃない私。 どんなに大そうな法悦であっても、身体の苦痛で即吹っ飛んで、今生の我が身の一大事、二大事、三大事こそが大事、大事と慌てふためき、そんな苦悩の連続に、出て来るものは愚痴ばかり・・・。 はぁ~・・・
こんなにもお粗末この上ない「私」というモノを観させていただける力こそ、ただ ただ いただくばかりの「真実」だったんやなぁ~。 「真実」を「真実」と知らせてくださる力こそが「真実」だったんやなぁ~。 「真実」なんてもんは、ようわからんけど、「虚仮不実」の私を知らされる度に、仏法まことと「真実」が浮き上がる。 自分勝手なものだけどね。
でも、有り難いさね~!  「虚仮不実」であることを観せられる度に、有り難いさね~ぇ!!
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

赤いガーベラ [随筆日記]

今日は、久しぶりに忙しい一日を過ごしました。 でも、久しぶりに動くことの出来た一日でもありました。 体調は徐々に回復傾向に向かっていて喜ばしいことでありますが、でも、まだ無理は利かないようです・・・、今日は少々疲れました。

急激に病状が悪化してからちょうど一ケ月になります。 
私は、自分自身を騙しつつ表面的に誤魔化すことを特技としておりますので、元気がなくとも元気にしていられることは結構上手に出来るのですが、でもそこで、ちょこっとでも気を抜けば、糸の切れたマリオネットのように動けなくなってしまいます。 だから緊張は必需品!
糸の切れぬように祈りながら・・・、 でも、もし切れちゃったら出来る範囲で切れたことに気付かないふりをして、動ける範囲のところを酷使するのが好きみたいです。
はぁ~・・・・・、 また無意味な自己分析などをしてしまいました・・・・・

2.10 花と団子.JPG今日の午前中は、ちょっと嬉しいことがありまして、所要もあったので少しばかり外出をいたしました。 ホンの数日前までは、新聞を取りに出ることも出来なかったのに、快方を実感できて我ながら嬉しい~!
用事を済ませてお花屋さんの前を通りかかった時、菊の花のよい香りがしたので、それに釣られてお店の中でしばらく和ませていただき、久しぶりにお花を購入、ガーベラとかすみ草をいただきました。
花には団子・・・、という方程式が働いたのか、お花を買ったら今度はお団子が食べたくなりまして、2軒隣りの和菓子屋さんでみたらし団子を購入しました。 なんだかとってもHappyで、久しぶりに春のような心持ちになって、ポカポカした感じで帰宅したのですが、それからが忙しかったです。
明日の法座の準備は、ある程度のことは事前に済ませておいたのですが、最終確認や不足していたものを揃えたりと・・・、それに電話やメールに追われ、ナガラ作業でアレコレこなして、久しぶりに頑張った気がいたします。

それにしましても・・・、 人と接するのには、健康であることが不可欠だなぁ~ と、実感いたしました。
「人と接する」ということは、イコール、「御法を聞かせていただく」と言えると思います。
今日も、法友との電話やメールなどのやり取りをする中で、数々の無慚無愧な自分を、その人を鏡として観させられ、その度に、「ホントに・・・、御法を聞かせていただくとは厳しいことなのだなぁ~」と、切に感じました。 これを書き始めたら長~い文章になってしまいそうなので、ここではやめておきますが・・・。

話しをお花屋さんに戻しまして・・・
店内を物色しながら、春っぽいお花が欲しいなぁ~と思ったのですが、なんだかピンとこなくて・・・
目を惹かれたのは、赤いガーベラの花でした。 それに合わせて黄色のガーベラと白いかすみ草を選びました。
家に帰って、自作のカップに花を活け、これを眺めながらお団子をいただき、ホッと和みの一時。

夜になって仕事もひと段落ついたところで、デスクの片隅から真っ直ぐに私を直視している赤いガーベラの花を見ていたら、その花言葉を調べたくなりましてネットで検索してみました。
驚きました・・・・・・
ちょうど一年前にも同じことがございました。  私が・・・・・・・、 自死しようとした時と同じです・・・。
母からのメッセージが届きました・・・・・・。

「1リットルの涙」という本の主人公と同じ病で母はこの世を去りました。
その本が映画化され、ドラマ化もされたのですが、私はその映画もドラマの最終回も見てはいないので知りませんでしたが、ネットにはこんなふうに書いてありました。 「赤いガーベラといえば、ドラマ「1リットルの涙」のラストシーンで、主人公のお墓に皆がこの花を添えて涙を誘ったことで有名です」 と・・・。
赤いガーベラの花言葉は、「前進」。 そして「元気な笑顔」と書いてありました。 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

「業」ってなに? [随筆日記]

「魂の記録」というのは、「業の履歴書」とも言えるのでしょうか。
人は、フッとした瞬間に魂の記憶を垣間見ることがあると聞きました。
でも、「業」って何なのでしょう・・・・・?
私がやっている全ての「行為」だというのは聞いて知ってはいるのですが、「業」って何なんだろう・・・?
そんな質問をしたら、「業というのは、身・口・意の三業のことで、「身業」は行動のこと、「口業」は言動のこと、そしてその大元ともいえる「意業」は心で思うこと、この三業で作り続けているものが阿頼耶識にため込まれ・・・云々 などと説明をしてくださる方もおられると思いますが・・・、 でも・・・、よくわからないけれど、私はもっと別なことを聞きたいような気がします。

お釈迦さまが教えを説かれる以前から、「三世」だとか、「因果の道理」という思想があったのだと聞きました。 でもそれは、真理を知らぬ人々の作り上げた空想の産物であったということも聞きました。
そんなことを頭の片隅でモヤモヤっと考えていたからでしょうか・・・、 「業」って何? なんて疑問を自分の中に繰り返してしまうのは・・・。

今日は、お昼を過ぎた頃から不調に見舞われて、そんな体調の優れない時には、フルボディーのレッドワインのようなどす黒い赤紫色の世界が全身を覆っているような感覚で、なんだか自分の「業」という激流に飲み込まれながら、そして酔っぱらいながら溺れ流されているみたいです。
でも、時々息継ぎをするために水面に顔を出すことの出来る瞬間があって、その一瞬だけはフワッと楽になれるのですが、でもまたすぐに激流に飲み込まれ、魑魅魍魎とした妄想の世界でもがき苦しんでいるような・・・。
このどす黒い赤紫色の激流から、ピョコンと顔を出し時にだけ垣間見ることの出来る世界は、子供がクレヨンで描いたような薄黄色の光の世界です。 熱くもなく、寒くもなく、眩しさもなくて、ただ ただ 心地いい光の世界です・・・。
熱にうなされた身体に翻弄されている時には、こんなヴィジョンのシネマを見ながら、「生」について、そして「死」について、フッと考える時間をいただけます。 でも、どれもこれも全部私の妄念妄想です。 だから、答えはないんです・・・。

「業」もそう・・・。 いくら考えたとて、答えの出ることではないのでしょう・・・。
たとえ答があったとしても、それは知識レベルにとどまる程度のものであるか、あるいは私の智慧ではとても受け入れることなど出来ぬものであるかのどちらかでありましょう。
それに、今の私には、自分が何に引っかかっているのかすらわかっていないのですら・・・、まったく、どうしようもないですね~。

ただ、夢見心地に熱にうなされながら脳裏に見たことを、ここに書き留めておきたかっただけなんです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

言い訳 [心]

私は、お相撲さんの世界のことにつきましては頓と疎いのですが、今、世間をお騒がせしておりますニュースの概要くらいでしたら、ある程度のところまでならついて行けます。

「八百長」というのは、相撲界に限らず、スポーツ界ではあるまじきこと・・・。 
でも、この「八百長」という言葉、その由来は相撲界と全くの無関係というわけではないのですね~。
その昔、八百屋をしている長兵衛さんという人が囲碁仲間の伊勢ノ海五太夫(大相撲の年寄)さんと碁の勝負をしては、わざと負けていたのですって。 なぜ?って、お店の商品を買っていただくためのご機嫌取りです。
しかしこれが後にバレましてね、真剣勝負を装いながら事前の打ち合わせ通りの勝負をつける「いんちき」という意味で、八百屋の長兵衛を略して「八百長」と呼ばれるようになったそうです。

八百屋の長兵衛さんの場合も「理由」があって八百長をしたように、今回の事件で関与を認められた関係者の方々にも「言い分」というモノがあったわけです。 これ、いわゆる 「言い訳」というやつですね。
この「言い訳」ってやつですが、この世を生き抜くためには大切な行為だと思います。
世間の人たちは、その「言い訳」を聞いて、これを各々独自の世界で「善し」・「悪し」との判断をつけて、敵にも・味方にもなってくれるのですからね! 内容によっては、刑罰だって減刑されます。

自分の行動には、必ず「言い訳」がついて回ります。 たとえ無意識にしたことでも、後々には立派な言い訳が組み立てられて、いつも自分の行為を正当化しようとします。
でもまぁ~、この世のことならこれでOKです!!
だって、言い訳もせんと寡黙な人を気取っておっても、あんまりいい目はみませんからね~ぇ・・・
それから、たとえ言葉には出さなくとも、他の人からは見えないところ、つまり、私の心のド真ん中にズボンッ!と立っているのは、やっぱり 「でも私は!」、「だけど私は!」という 『我』 であり、言い訳をしまくっている人も、無言を貫いている人も、所詮はみな同じな穴のむじなだなぁ~と思うのです。 少なくとも私自身はそうです。
快調に言い訳の出来る時には、裏も表もなく他人のせいにしまくっておりますが、言葉に出せない心境だったり、口には出せない事情があったりした時でも、心の中では 「たとえ世間が認めてくれなくても私は悪くない! 私は正義を貫いているのだ!」と少なからず思っている自覚はありますし、たとえ鬱症状の出ている時に、「全部 全部 私が悪いんだ! すべての悪の根源は私なのだ!」って思っていながらも、身体はこれを受け付けていないというのが正直なところです・・・。

人に対しても、自分に対しても、私は、いつも いつも 言い訳ばかりです。
世間向きには通用する「言い訳」というやつも、閻魔さまの前ではまったく通用いたしません。
いくら自分で自分を「善し」としていても・・・、 世界中の誰もが「善し」と認めてくれたとしても・・・、 私のする行為のどれ一つをとってみても通用する「言い訳」など一欠片もござらん!! とのお叱りを受けたことがございます。

今・・・・・、 とても悲しい気持ちになりました・・・・・・。

言い訳の出来ない世界があることを教えてくださっても、言い訳の止まない私・・・。 そんな私を如来さまは責めたりなどなさいません。 でも、悲しんでおられます・・・。 この涙が、そう教えてくださいました。
言い訳をしたくなったら、 他人ではなく・・・、 自分でもなく・・・、 私の如来さまに言ってみます・・・。
南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

二年前はインドでした。 [随筆日記]

書きかけた文章があるのですが・・・、 途中からチョットばかり体調が思わしくなくて…、全く書き進めることが出来なくなってしまいました。  でも今は、薬でボ~ッとはしていますが、少しずつ良くなって来ています。
それで、なんとなく二年前のことが思い返されたので、昔のBLOGを何気なくサラサラッと目を通しておりました。 ちょうど二年前にインドへ行った時のBLOGです。

出発の前の緊張感が日々綴られていて、今にして思えば、「いったい何を心配していのだろう・・・」という感じですが、あの時は本当に不安でいっぱいだったのですね~。
でも一人で頑張っていたあの日の自分をほめてあげたい! って思いました。

そう言えば、あの時、何度もデジャヴュを体験しましたっけ~・・・。
最近も、ある方とメール交換をするようになってデジャヴュの体験をいたしましたが、
実際は、ど~なのでしょうね~ぇ・・・、 記憶の錯誤なのか・・・、白昼夢のようなものなのか・・・
その辺のところはよくわかりませんが、子ども時代には頻繁に体験したことです。

インドの大地を初めて目にした時、言いしれぬ懐かしさを目にしました。 と言っても、実際に目で見ているものに対して懐かしさを感じたわけではございません。
次から次へと脳裏に映し出される、まだ見たことのないビジョンに興奮して、夜もなかなか寝付くことが出来ずに、同室のMrさんが眠ってしまわれるまで、ず~~~っと一人でお話しし続けていましたっけ!
今も、あの時に見た風景のいくつかを覚えています。

私にとってインドって何なのでしょうね~・・・
今週も京都へ行った際、S先生とインドの想い出話しなどをしておりましたが、「昔に戻りた~い!」なんて、そんな気持ちになりました。 でも、「昔」っていつのことなのでしょう? 自分でもよくわかりません。
だけど、もう一度行きたいな~ インドへ・・・・・・  今度は、もっとゆっくり滞在したいです。

先日、支部のKLにて、実際にインドへ行った者としてサールナートのことを書かせていただきました。
きっかけは、その日の御法話の中で「初転法輪」の話しが出されて、支部員の数名の方から質問されたのが縁となったのですが、UPした後の感想文は一通だけ・・・  それも、「よくわからなかった・・・」と言われて、ちょっとショックを受けました。 正直なところ、もうちょっと嬉しい反応を期待していたのですが・・・(^-^;
まぁ~、また気が向きましたら、インドのこと、改めて書いていきたいと思います。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

否定的人生観 [座談会・懇親会]

一昨日から一泊二日で京都に滞在。 朝から体調が思わしくなく出かけることを躊躇しておりましたが、夕食後のドライブから徐々に調子を取り戻してきて、夜の伝道研修会への初参加が叶いました。
その冒頭にS先生がおっしゃった 「否定的人生観」 という言葉が、あれからず~っと頭に残っておりますので、先生が何とおっしゃったのかは忘れてしまったのですが、今一度自分なりに味わってみたくなりました。

性格的なことを言えば、私は「自己否定」のタイプに属するでしょうね。
昨日も、事務所のコピー機が唐突に動かなくなったのですが、私はその横で仕事をしていて、「えっ?! もしかして私の負のエネルギーで壊してしまったのかしら?」なんて冗談的な発想をけっこう真面目に自分の中で熟成させてしまったりします。
まぁ~ これはさておき…、こんな思考回路をレパートリー豊かに取り揃えておりますので、人の失敗をも自分のせいに考えてしまったり、自分の成功を素直に認められなかったり・満足しきれなかったりと、ある意味損な性分にございます。
こと一番に厄介なのが、自分自身の失敗についてです。 後悔と自責の念に囚われて、自分自身を責め・追い込むことを何よりの専決事項とし、意識する・しないに関わらず、これに努めてしまいます。
これは性格的と言うよりも病的な面を多分に有してはおりますが、「オマエが悪い!」、「オマエのせいだ!」と言われれば、その言葉通りに自己暗示をかけ、少しでもこれに抵抗する思いや、反抗をする心を見つけたならば、即刻、そんな自分・その心を咎め抹殺しようと努め、ますます自己否定の泥沼へと沈んでゆきます。
それが正しい方法だと自動判定された時点で、他のアイディアをも閉ざしてしまうのでしょうね・・・。

この道の終着地点は、「自己の存在否定」 です。
経験のある人にしかわからないこととは思いますが、ここまで到達してしまいますと、「おまえなんか死ねばいい」 との言葉ですごく楽になれるんです。 自分の行く道を示していただけた喜びと、これで責任を果たすことが出来るという満足感、それに何よりも、やっと苦悩から解放される…、と、そんなふうに思うことが出来るようになるんです。

先生のおっしゃった 「否定的人生観」というものがどのような意味かはわかりませんが、確かあの時、「自分で思っている自己否定と、仏教で言われている自己否定とは違います」と言われたように思います。
私が否定している私は、自己の善し・悪しの基準でもって、「悪し」と判断した部分を自分自身で糾弾しているにしか過ぎません。
「オマエのせいだ」と人から責められたり、「オマエが悪い」と人から反省を強要されたりした時に、自分の中にこれを認めることの出来ないものが少しでもあれば、その思いは苦しみになります。
そんな自分を「良し」と判断すれば、少なくとも自分で自分を責める必要はないと思います。
だけれども、そんな自分を「悪し」と判断するから、自分で自分を責めてしまうのでしょうね・・・。

では、「仏教で言われている自己の否定」というのは、何なのだろうな? と考えました。
私には小難しいことはわかりませんが、先の「自分でする自己否定」というのは、あくまで私の判断基準、その時々の自分の思いでもって、「悪しき私」というものを責めているのに対し、如来さまは、そんな私をも肯定してくださっています。 南無阿弥陀仏
たとえ世界中の人が「私」を否定しても…、自分さえも見限った「私」であっても、私の如来さまだけはそんな私を許してくださっていいます。 それなのに、私が「私」を許すことが出来ずに責めているのです。

だからと言って何でも許されているということでは決してございません。
それが、「仏教で言われている自己の否定」なのではないでしょうか。
つまり、仏さまの目から見られた「私」という物柄を教えていただき、その御教えと照らし合わせた「私」というものがどのような者であるのか、そこのところで自分の思い違いを否定されていくのが、「仏教で言われている自己の否定」 ということなのではないでしょうか。

何につけても自分の判断基準を第一に、自分の思い「我」なくして生きていくことなど出来ない不実の私が飽きもせずにやっている「自己否定」というのは、一見、自分を否定しているようでいて、その実は、自己満足への「自己肯定」でしかないのだと思います。
そんな不実な私を真実の目から御覧になって、これを教えてくださっているのが仏教です。
その真実とは真反対な「自己」を観させていただくということが、「否定的人生観」ということなのかなぁ~? なんて味わっております。  南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

癒し [心]

「何をしている時に癒される? どこにいる時が癒される?」 と 聞いてくださった方がいます。
たぶんですが・・・、 普通 こんな質問をされたならば、まず自分の中で「癒し」というキーワードに引っかかったアレコレを思い浮かべて、自分にとっての最上の癒しとは?と考えるのではないでしょうか?
もちろん私も、この質問に答えるべく自分なりの回答は一考いたしました。
私が 「癒されている」 と感じるのは、 光を目に…、風を肌に…、水音を耳に…、そんな自然の不思議に抱かれながら「生きているということ」、それはつまり「愛されているということ」が実感できている時に癒されているなぁ~と感じます。 と、そうお答えさせていただきました。
でも、この時、まず私の頭に浮かんだのは、私はこの問いかけ自体にとても癒されているなぁ~と感じたことであります。

「癒す」とは、病気や傷、苦しみなどをなおすという意味であり、それを質問するということには、二種類の意味があると思います。
一つは、「自分に癒しが必要で、どうしたら癒されることが出来るのかと自身のためのアイデア(得策)を得るために聞く」ということ。 そしてもう一つは、「質問した相手を癒すために、何をするのがベストなのか、自分に何が出来のか、そのアイデア(得策)を得るために聞く」ということ。 この質問に限ったことではございませんが、自分の為に聞くのか、それとも相手のために聞くのか、という方向の違った二種があると思います。

私へのその質問は、後者の意味をもっていました。 つまり、自分が何をすれば相手を癒すことが出来るのかとの問いかけでした。 ですから、その心がとても嬉しくて、その心にとても癒されたんです。

相手にそう問いかけること自体はさして難しいことではないと思いますが、相手から受けた答えを実践していくとなると、出来ることと、出来ないことが出てきます。
ましてや抽象的な回答であった場合、よほど相手のことを理解していなければ、その真意を読み取ることは不可能で、せっかくの問いかけも、その心も、二束三文になってしまうでしょう。
でも、もしそれが出来たならば、それは癒しへの最短コースとなるでしょうね。

つまり、 「癒す」 = 「治癒する」 ということは、相手をよく知る必要があります。 これは不可欠です。
どんなに良い薬や治療法があったとしても、その症状に合致していなければ効力を発揮することはできません。 それどころか、余計に病気を悪化させてしまうということにもなりかねません。
その症状に合った薬や治療法というのは、細かく見て行けば見て行くほどに、一人一人違ってくるはずです。 簡単に見ていったとしても、例えば同じインフルエンザウイルスに感染した人でも、その年齢や感染時期や症状によって薬も治療法も違ってくるでしょう。

私は、仏さまというお医者様に、「無明業障」 という、この上ないおそろしい病にかかっているのだと診断され、そのお薬を処方していただきました。
同じ病気にかかっている人は、私の周りにもたくさんおられ、みな、同じお薬を処方されています。
でも、治療法は一人一人違います。 私には私に合った治療をほどこしてくださっています。
それが出来るのも、私の病状を事細かに、その根の部分から知りつくしておられるからです。

「どこにいたら癒せるのか」、「どうしたら癒せるのか」、これを知るために、私を知りつくしてくださったのが阿弥陀如来さまです。 そして如来さまご自身が“南無阿弥陀仏”というお薬になってくださいました。
だけど、その効果は私にはわかりません。 なんたって、私は病気である自覚がないのですから・・・
それでも、その御心にふれさせていただい時、とても癒されるんです。

「何をしている時に癒される? どこにいる時が癒される?」 と 聞いてくださったその心に癒されたんです。   南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

信じる心 [心]

「信じる」ということは、とても難しいことです。 いいえ・・・、 私には出来ないことだと思います。
この自分さえも信じることなど出来ないのですから・・・。

私の中からはいろいろな思いが次から次へと絶え間なく出てまいります。
「信じたい…」「信じてる!」「信じてる?」「信じられない」「信じさせて」・・・・・ 心コロコロ心も無常。

「何を信じて、何を頼りに生きていますか? 究極の拠り所はなんですか?」 と聞かれれば、御法の世界では、「“南無阿弥陀仏”です!」なんて、心にもないことを口にしたりしますし、人によっては、「“南無阿弥陀仏” これ一つで他はなんにも要りません!」とまでおっしゃる方もおられます。
でも、私の場合は、ホントに口先だけです・・・。 実際は、お金が頼りであり、家族や親友が頼りであり、そして何よりも自分自身の身体や思考を頼りにして生きています。
「“南無阿弥陀仏”でお腹いっぱいになれますか?」ともよく問われるのですが、一時的にそんな気持ちになることはあったとしても、「何が起きても“南無阿弥陀仏”!」、「諸行無常の世の中だもの、“南無阿弥陀仏”さえあればいつだって胸焼けするほどお腹いっぱいよ!」 な~んて・・・、 私にはとてもじゃないけど言えません。

「後生」が抜けては仏法とは言えません。 でも、「後生」を抜いた仏法モドキの世界にドップリと浸かりながら聞く御法は、所詮、上記のようなものなのです。

私は「今生事」に精一杯で、縁あって「後生」に思いを触れさせていただくことはあったとしても、まずは目前の「今生事」を何とかしなければ、とても「後生」のことなんて聞いてなどおられんわい!と、「後生」はいつも後回しです。

先の 「信じる」・「信じない」の話もそうです。 後生も 仏さまも 抜きにした、今生事の話しです。
今は信じていても、数分先にはわかりません。 そう・・・、 変わる心がわかっているから怖いというのもあるのでしょうね。
つまり、私には、信じる心など持ち合わせていないのです。 
「約束」は、破るためにあるのだとよく言われますが、「信じ心」は、裏切るためにあるのだとも言えるのかもしれませんね。 それは、とても寂しいことだと思います・・・・・

「信心」と言うのは、信じる心と言うことです。 しかし、無常の心を持つ私の「信心」なんて、ホンの一時、この私がすがりつくための拠り所としての「信心」が芽生えたにしか過ぎず、これはやがて枯れていきます。
じゃ~、「信心」って何?

「信心」は「信じる心」です。 でもそれは、私が何かを信じる心ではありません。
私が信じているモノは、私の欲心であり、妄念妄想でしかありません。
私には信じる心などありませんが、そんな私を愛してくださっている御心、それが「信心」だと私は思うのです。
「自分は誰からも信用されてない・・・」、 「誰も自分のことなんか信じてくれない・・・」
そう呟いているその人、ひとりひとりを信じてくださっている御心があります。
私にも、あなたにも、あの人にも。 世界中の人が誰ひとりとして信じてくれなくても、その御心は、昔からず~っと、今現在も、そしてこの先の世でも、「あなたを信じていますからね!」との御心で包んでくださっています。
だから、私は信じられんままでいいんです・・・、 残念ながら、信じたくても信じる事の出来ないのが私なのですから。 でも、そんな私だから信じてくださっているお方がおられるのだなぁ~ と、今、ノホホンッと味わっております。 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

解き放った思い [随筆日記]

メインBLOGを 『蓮華の薫るこの庭で』 に引っ越しをしてから、ちょうど一年が経ちました。
毎年、年末になりますとBLOGのお引っ越しがしたくなり、年始を期に移転し続けて来たのですが、今年は何故かその気も起こらず・・・、なので、もうしばらくはこちらで続けていきたいと思います。

今は・・・・・・、 なんだか、放心状態・・・、 こ~ゆ~感じを久しぶりに味わっております。

以前、「話す」ことは、「放す」ことだと教えていただいたことがあります。
おしゃべり好きな人がやたらめったら喋りまくるということではなく、自分の内なるものを「解き放す」には、「話す」という手段を用い、「話す」ことによって、自身の内に秘めたるモノ、あるいは蓄積されてきたものを「解き放つ」という意味にございます。
それを容易く出来る人もいれば、全く出来ない人もいるでしょう。 また、場所や相手によって出来たり出来なかったりもするでしょう。 ちなみに私は、文字にして(書いて)放つことは苦手ではありませんが、口に出して(話して)放つことは苦手でございます。
まぁ~、どちらにせよ解き放っていることには変わりはないと思うのですが・・・?

そうかと言って内なるモノのすべてを放っているわけではもちろんございません。 放ちたいけれども放てないというモノもたくさんございます。 それはなぜかしら?
一つには、格好の悪い自分、悪性な自分と言うものは隠しておきたいですからね~。 そしてもう一つは、自分に火の粉のかかるのがイヤなんです。 つまり、嫌われたくないんですね~、 私は良い人と思われていたいですもの。
ですから、言いたいことも言えずに内に秘めたまま「放つ」ということは極力避けて生きてまいりました。 私さえ我慢すれば…、私がこの思いを放たなければ、私も世間も丸く収まる・・・と、そう信じておりましたし、それが人のためでもあると思い込んでおりました。
でも、フッと思ったんです・・・・・、 それって本当かしら?  私は今、何を頑張って装っているのかしら? 誰の為? 何の為? 何を守ろうとして取繕っているのかしら・・・? 自分を押し殺しておかなければならない理由はいったい何処にあるのかしら・・・? そんな疑問が出て来て、自身に問いかけてみました。
でも・・・・、 答えはみつけられませんでした。 ホントに ボ~~~~~ッ としていて・・・。

今日、私は、私にとってとても大きなことを解き放ちました。
昨夜からず~~~っと思案しながら意思を固め、睡眠薬を飲んでも眠れないほどに悩み続け、そしてやっとの思いで決意をしました。 でも、決意はしても、解き放つにはすごく勇気が必要で・・・、何度も 何度も挫折しそうにならながら、それでも一つのことを解き放ちました。
それは私にとって、ある意味、逃避行してでも生きる道を選ぶか・・・、それとも命を賭けての棘の道を選ぶか・・・、そんなとても大きな選択をある方に解き放ちました。
解き放った後は、足の力が抜けてしまい、しばらくの間は立つことも出来ず・・・、それほど緊張いたしました。

でも、解き放ってよかったと思っております。 後悔はないです。
これから、新たなる棘の道を進むことを選択いたしました。 とても厳しく、か細く、不安定な道です。
失敗は・・・・・・・・・・、終わりを意味することになるでしょう。
でも、解き放ったことでスタートラインに立つことが出来ました。 今は、感謝 感謝 です。
南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

なまんだぶつ [心]

早いものです。 今年になってから もう一ケ月が過ぎてしまいました。
時の流れを「無常」という言葉で片付けてしまうことは容易いけれど、それは「無常」ということがわかっていないからだと思います。 私は…、本当にわかっていないです・・・・・

辛いことがあると、時間の過ぎるのがとてもゆっくりに感じられたりします。 私にとってこの一ヶ月間…、いえ…、この半月間は、とても とても 長く感じられました。 でも、この一年,二年は、今までにないような苦悩の連続で、そんな経験を重ねた割には、長~くもあり、短くもあり・・・、 今はそう感じる…、ただ、それだけのことなのですね・・・。

ここ最近、この一,二年のマイナス的要因な出来事が頻繁に思い返されたりして、記憶の時間的錯覚にフッと飲み込まれそうになることがあります。 ここ一,二年の記憶と言っても、「あの時こんなことがあったね」などといった “出来事” の回想といったものではなく、“心(想い)” の積弊といいますか・・・、 とても辛かった時の心境が、まるでドラマでも見ているようにフラッシュバックするような感覚に襲われることがあります。
私・・・、 その度に人のせいにしてきて・・・、 そんな自分に嫌気がさします。

今朝・・・・・・・・・・  思いもよらぬ出来ごとに動揺しました。 それが現実のものなのか、記憶の錯覚であるのか、すぐに飲み込むことが出来ませんでしたが、それはまぎれもなく現在進行の出来事であると認識した後は、かなりHighな気分になって・・・、それからしばらくすると今度は緊張がどんどん高まり、それに耐えられなくなって薬を服用し・・・、その後の記憶はぼやけています。
でも、お昼過ぎにいただいた一通のメールで、今日初めて自分と出会うことが出来ました。 そして思いっきり泣きました。 随分と長い間、泣きながらお念仏をいただきました。 なまんだぶつ。

発作が起きて胸が苦しくなったり痛くなったりすると、そこの所を刺してみたくなるんです。
死んでしまおうだとか、命がど~のこ~のと深く考えているわけではなく、ただ楽になりたいと言いますか…、こんな邪魔っけなものなどエグリ取ってしまえ~!とか、ただそれだけなんです。
でも、それがどんなことなのか・・・、どんな結果を招くことになるのか・・・、それらとちゃんと向き合うことをそのメールは教えてくださいました。
そして、私は如来さまの願いのもとに生かされているのだということを、改めて説いてくださいました。

自分に与えられた命を全うするということは、簡単なことのようですが、本当はすごく難しいことです。
そして、真実を知らないということは、本当に 本当に 恐ろしいことであります。
人として生れてきたことを当たり前のように思い、生きていることを不思議とも思わず、死んで行くことも知らないのですから・・・  私は、何もわかっていない、 本当に、何一つとしてまるでわかっていない・・・。
真実を真実として聞くことが出来ないんです・・・・・。

でも、声は聞こえます。 こんな私でも、声は聞こえます。 なんまんだぶつ  なまんだぶつ

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

因果の道理 (今生編) [心]

今日の夕方、フッと湧き上がったことをBLOGに書いておこうと思いパソコンに向かったのですが、これをUPした後、外出先で先ほど書いたものがとても気にかかり、携帯電話の小さな画面で読み返してみましたら、まぁ~ 随分と傲慢な文章が書かれていて、とても恥ずかしいと思いました。
それに、先ほど書きたいと思い立ったこととは内容がズレていて… といいますか、書こうと思っていたことが書かれておりませんでした。 と言うことで、改めまして書いてみたいと思います。

書きたかったテーマは、先ほどと同様に 「因果の道理」 でございます。
最近体験いたしましたある出来事を通して、私を支えてくださった多くの法友らがみな口をそろえて言うのです、「それこそ因果の道理そのものじゃん!」 と・・・・・。
「因果の道理」とは、自分の蒔いたタネ(因)は、自分の元で実(果)を結び、これを自身で刈り取っていかんならん世界があるという真理です。
その人が受けている結果というのは、他の誰のせいでもない自分自身で蒔いたタネが実を結んだのであって、これはどんなに身近な人であろうとも他人が肩代わりすることなど決して出来ないのであります…、自分自身で受けていかんならんのです。

先のBLOGに書きましたのは、「命」ということを軸に因果の道理のお味わいをさせていただいたのですが、自分の造った原因のその結果を受けるのは、何も次生に限ったことではございません。
子どもの頃によく言われませんでしたか? 「ほ~ら、罰が当たった」って! 私はよく言われました。
ことわざには、「身から出た錆」とか、「汝より出ずるものは汝に返る」などと言われ、仏教では、「自業自得」とか、「因果応報」と言った言葉もあります通り、自分の犯した罪で自分自身が苦しむことになるのだよというのは、誰もが周知しておられることと思います。
ただ、ここで問題なのは、「知ってはいるけど、そうは思えない!」と言っている自分がいるということであります。

悪い結果・・・、つまり、「自分のこの苦しみは、自分のせいなのだ。 自分が犯した罪の結果なのだ」 と、100% そう受け入れることが出来るかと言ったら、そりゃ~無理な話ですわね~。
私のような病気やトラウマを持っている人、また自分を責めてしまう性格の人などは、「オマエが悪い! オマエのせいだ!」などと言われると、「そうだ、私が悪いんだ・・・、すべて私のせいなのだ・・・、こんな私を許しちゃいけないんだ!」と言って自分自身を追い込むことはあります。
でも、「私が悪かった」と頭で受入れていたとしても心が苦しみ出すでしょ? 自分を追い込んでしまうのも、「自分が悪いんだ」と無理に納得させようとするからではないでしょうか。
「本当に自分が悪かった。 こんな私だもの苦しいのは当然の報いであり、辛くて当たり前だわ」と受けていたならば、苦悩などなくなりますよね・・・・・・

要するに、因果の道理は知っていても、これを受入れる事の出来ないのが私なのです。
だから罪を罪とも思わずに悪を重ねて、その報いを受けると腹を立てては人のせいにして更に悪を重ねていくという悪循環にドップリとこの身を浸けているのです。

因果の道理は常に有効です。 
私がしている言動や行動、私が心に思ったことも、そのすべてが「因」というタネまきとなり「業」となります。 そしてその結果を受けていかんならんという真理があります。
「まさかこんな結果になるとは・・・」との後悔はしても、それを人のせいにしている間はやっぱり苦しいと思います。 たとえ自分の中に直接的な原因を見つけることが出来なかったとしても、今、自分が受けている結果のその原因はこの私にあるのだと仏さまは教えてくださいました。  南無阿弥陀仏

最後に一つ、今日の夕方、フッと湧き上がってBLOGに書きたかったこと。 それは、
どのような「果」を受けようと、そこには「因」があるからです。
「因」があるということは、私がしでかしたことの裏となり表となった、おかげ様の「犠牲」と、おかげ様の「御苦労」があるのだということを忘れてはならないなと、フッと思ったわけであります。  南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

因果の道理 [心]

仏教は、「因果の道理」を教えてくださいます。
「因果の道理」とは、自分のやったこと(因)に、自分で責任(果)を取っていかねばならない、ということでありますが、情けないことに、私は自分のしたことに責任を持つことが出来ません。
ですから言葉を変えて言うならば、「因果の道理」とは、自分がやっているすべてのこと(因)において、必ずその結果(果)を受けていかねばならないとの理にかなった道が定められている、と教えてくださっているのはないでしょうか。

因果の道理でよく言われますのは、「命」についてでございます。 私は自分が生きるために、当たり前のごとく他の命を糧にしているわけですが、一つの命を奪ったならば、その責任は自分が有する同等の持ち物で返していかねばならないということ、それが責任を果たすということでございます。
つまり、「私が生きるため」 という自分本位の理屈のもとに私が喰ろうた命であっても、その命を奪ったという事実、原因を作ったからには、この私の命でもってこれを返さなければならないという結果を必ず受けねばならないということ、それが「因果の道理」なのだよと教えていただきました。

よく、テレビのニュースやドラマ等で、殺人事件や交通死亡事故などの被害者家族らが、加害者に向かって、「オマエの命でもって償え!!」と言われる場面を目にいたしますが、これは人間同士の世界に限ったお話だけではございません。 鳥や、魚や、全ての動物にも私と同じように命があって生かされているのです。 それぞれに、たった一つしかない命なのです。
それを、「私は人間だから」と言って奪ってもよいという理屈など通用しないのが因果の道理です。
なぜならば、すべての命は平等だからです。 南無阿弥陀仏

もしも人間を食用とする生き物がこの地球に存在していたとして、「私は食べ物として生まれて来たのだから、どうぞ食べてください」と納得して食われることなど出来はしませんよね…、「この世は弱肉強食の世界、どうぞ強いお方さまが生きていかれるために私を食って下さいまし」などと、たった一つしかない自分の命を喜んで差し出す者などいようはずがありません。
それは、たとえ食用として育てられた牛や豚、鳥や魚にだって言えることです。
彼らにも心があります。 捕らえされ、屠殺される時には、殺されるということがわからなくても、「怖い!」と叫んでいます。 「助けて!」と懇願しています。
きっと私も同じです・・・。 「死ぬかもしれない、殺されるかもしれない」とは思っても、自分が死ぬとは思えずに、ただ 「助けて! 怖い! 殺さないで!」と、もがき叫ぶことしか出来ないと思います。

これをお読みくださった方の中には、「そんなこと、知ったこっちゃない!」と思われる方もおられると思います。 でも、私も同じなんです。 そんなの知ったこっちゃないんです。 私が生きていくためには、他の命を美味しく料理して、私の持っている五感と欲をただ満たしたい! それだけなんです。
でも、「その責任をとっていかなければならないんだよ」 と教えてくださっているのが仏さまの教え(仏教)であります。

しかし、先にも書きました通り、私にはその責任を果たすことができません。
私が生まれてからこの方、ましてやこの先どれほど生きられるのかはわかりませんが、その間にいったいいくつの命を奪うことになるのでしょうか? ちなみに、私の命は一つしかございません。

随分と都合のよい話ではございますが、私が食べ物として喰ろうている命のすべては、この私一人を生かすために、私の如来さまご自身の命を投げ出してくださっているのだと教えていただきました。
私が生きていくためとはいえ、私が喰ろうた一つの命の責任を私はその場ですぐに返すこともなく、今、こうして生かさせていただいております。 それは何故でしょうか?・・・・・・
如来さまがおっしゃるには、「何故に生かさせていただいているのか」を知るために、人間として生まれさせていただいたのだと・・・。
何故、人間として生かさせていただいているのでしょう? 
これを教えてくださっているのが仏教です。 「因果の道理」があるのだよ! と。
この世で如来さまが肩代わりしてくださっている私の責任を、次の生では私自身が受けていかねばなりません。
「因果の道理」は、「真理」です。 信じようと信じまいと真理なのです。   南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

如来さまにお任せ [心]

今、やりたいことがあるんです。
でも、それをしてはダメなんです。
だから、すごく複雑な心境で、とにかく落ち着かないのです・・・。
頭で理解していることと、心が求めていることとが、ず~~~っと チグハグなんです。
そんなことを先日のBLOGにも書きましたが、今、自分の中でたった一つのことが明確に、「やりたい」と「やってはいけない」とに分かれていて、頭と心で戦っている感じです。

職業柄、私のような危険人物を身近で見て来たキャリアを持つ親友に、今、いろいろと教えていただいています。
今まで誰にも話せなかったことを一つずつ言葉に出来るようになってきたのも、私の知らなかった私を彼が指摘してくださって、そんな自分と出会っていく私をそっと支えてくださっているからだと思います。
自分でも驚くような自分を発見した時にはやはり戸惑います。
その戸惑いを一人で抱え込むことを禁じられ、何でも話せと受入れ態勢万全に聞いてくださって、これをストンッと受け止めてくださった時、私は初めて自分に対して正直になれたように思いました。

でも、自分に正直になるのと、その正直な気持ちを行動に移すのとは別問題です。
その思いを行動に移すことが誰にとってもベストの選択であるのならば、即実行!というのも悪くはないでしょう。 でも、行動することがベストであるかどうかの選択は、自分自身で見極めるのはとても難儀なことです。
やはり、当事者ではない見方の出来る人の意見が頼りとなりますし、私のようにそれ相応のキャリアの中で同じ様な事例を経験的に見てきた親友の意見ならば、これほど頼りになることはありません。

私が今、どうしてもやりたいこと・・・。
それをすることによって良い結果が出るのか悪い結果が出るのか…、それは誰にもわかりません。
また、今後をより良くするためにと考えて、今、どうしてもやりたいけれどもこれを行動に移すべきではないと判断しそれを我慢していることが、はたして正解なのか不正解なのか…、それも誰にもわからないことです。

親友からのメールと時を同じくしてInさんからこんな言葉をいただきました。
如来さまが出来る事なら、出来る範囲で何とかしてくださいます。
 もし無理な事ならば、何故に無理なのかを、ちゃ~んと気付かせてくださいます」 と。

私にあるのは、「こうしたいんだ!」 との思いばかりです。 たとえ自分が砕け散ることになったとしてもかまわないから、とにかくやりたいんだ!と、我省みず欲と希望と楽観で我が思いを煮えたぎらせるばかりです。
みんなが口をそろえて「無理はするな」と言ってくださっているのに、私一人が我慢できずにいる・・・。
「自分をもっと大事にしてね!」というみんなの願いを…、その心を…、私は自分のわがままで踏みにじろうとしている・・・。
これって、私が御法に向かう姿そのものです。
如来さまに任せられずに自分の思いを優先させて、自分の考えを良しとている姿そのまんまです。

そのまんま・・・、「私の願いはこうなんだ!」と叫んでいるままに、如来さまにお任せします。
「絶対に良い結果を出してよね!!」 なんて暴言を心中にたぎらせているまんま…、後生も何も抜きにして、私は如来さまを利用するばかりです。 南無阿弥陀仏

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

ただ取りとめもなく・・・ [随筆日記]

「私、もう大丈夫です! こんなに元気になりました! 今はとってもHappyで~す!」 なんて・・・
それは嘘であると、私自身が気付いていないということが問題のようでして、「ホントはどうなの?」と、自分自身に耳を傾けてあげることが大切ですよと教えていただきました。
でも、それは私にとってなかなか難しいことです。 私は、自分の身体を過信するばかりで、とても粗末に扱っているのではないかなぁ・・・。 「自分ほど大切なものはない! 他に比ぶるものなどない程に我が身が大切!」という心の持ち主でありながら、私は、自分の声に全然耳を傾けてあげていないのですもの・・・。 それでホントに自分が大切、愛してる って、言えるのかしら?
「私は大丈夫!」との自分勝手な思い込みだけで、本当の声を聞いていないどころか、聞いてあげようとする心もない・・・。 それって、ものすごく自分勝手な愛し方ですよね。
「奈っちゃん、今日はどう? 今、どんな感じ?」 自分に聞いてみました。
気持がぶらぶらしています。 そんな自分にイライラしたり、鈍い疲れを感じたり、少し気分が沈みがちです。 なんだか昨日の憂鬱をそのまま引きずっているようで、書きたいことも途切れ途切れに止まってしまいます。

昨日のお昼頃にちょっとだけ悲しいメールがいくつか重なって入って来たためか、ここ最近、下降線状に悩んでいたことが、またまた坂道を転がり落ちて行くかのように心身共に右肩下がりとなってしまい・・・、おまけに夕方には、先週の検査結果をいただきに病院へ行って来たのですが、ドクターから 「よろしくないねぇ・・・」との報告をいただき、薬の数もレベルもアップしてしまい、ますます下落に拍車がかかって少し自暴自棄になりかけていました。

帰宅してからは、現在進行の問題に一点集中で頭がいっぱいになっていたのですが、夜になって親友からのメールが届き、それですごく気持ち的に救われました。
薬なんか比じゃないですね~、人の心の温かさというのは。 本当に助けていただいています。
言葉一つで人を殺すことも出来ます。 そして、言葉一つで人を救うことも出来ます。
「言葉」なんて、ものすごく頼りなくて、嘘っぱちなモノかもしれないけれど、それでも、たった一つの言葉が、凶器にもなり、薬にもなるのだということを忘れてはいけませんねぇ・・・
私というヤツは、そんな頼りのない「言葉」に頼ってでしか生きていかれない孤独な凡夫なのですから・・・。

その親友からのメールに返事を書いているところに、恩師ともいうべき方からのメールが届きました。
それを 何度も 何度も 読み返す内に、どんどん視野が広がって来たように思います。
視野が広がってきますと、逆に自分がどんどん小さくなっていきます。 自分の大きさが変わるというわけではありません。 たとえばトイレの個室に籠もっている間は、目の前の壁とそれに付属した備品しか目に入らず、その空間の何割かを私一人で占有していことになりますが、たとえば東京ドームという空間に居たならば、視野の中には私の目に入らない事実も存在し、自分という存在の小ささが実感できてくるでしょう、そんな感じです。
そうかと言って何がどう変わったのかはわかりませんが、いろいろな意味でちょっとだけ動けるようになってきたと感じています。

でも、やっぱり取りとめのない事を書いて、何も進展していない・・・。
う~ん・・・  この世も 自分も わからんことだらけです。 なんもわからんのを「無明」って言うんです!
ありゃ?

nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

猿芝居 [Poem]

今日は、心がすご~くいっぱい動いた一日でした。 
「人生皆苦」、「心不定」、まさに仏説まことなり。 北へ行って凍ったり…、南に向いては自惚れて…、西に飛んではその気になって…、東に落ちてパニクッたり… と、まるで別人格がいくつも現われたようなあわただしい変身の一日でした。
だから、書きたいことがウンとあって、何から書いてよいのやら・・・? 
だけど、まずは私の心を動かしてくださった方々にお礼を申し上げるのが先決でございます! 
私の大切な皆々様へ、 迷いの凡夫と観せていただきましたこと、ありがとうございます。
そして、こんな私の為に御苦労をしてくださって、ありがとうございます。  南無阿弥陀仏

さて・・・、 何から書こうかしら?  う~ん・・・、 そ~ですね~!!
一番、心を動かしてくださったのは、「猿芝居」ですかね~ェ [るんるん]
では、変身の一日だったということもあり、「芝居」つながりで変え歌など作っちゃいましょう~ [わーい(嬉しい顔)]
小椋佳さん 作詞・作曲の 『夢芝居』 より、 歌詞を変えまして猿芝居です。 (^_-)-☆

            世間向きには 猿芝居
            台詞ひとつ 手抜きはしない
            誰の筋書き 四苦八苦
            行く先は 闇で見えない

              人との縁に あやつりつられ
              自我の想いで 人をも裁く
              刹那心に 踊る人生
              良くも悪くも 猿芝居

            過去も未来も 猿芝居
            迷い心 おさえられない
            欲も瞋恚も 愚痴となり
            とめど無き 罪を重ねる

              自分の業に あやつりつられ
              自我の深さに 傷付け・傷付き
              どうせ芝居の 人生ならば
              軽く明るく 猿芝居

              智慧の光に あやつりつられ
              自我を照らされ その心知る
              今が後生と 幕は待たない
              無常と知らず 猿芝居

              私いつでも 猿芝居

今日いただきました、とっておきのお手紙よりお言葉をちょうだいして、こんなん出来ました (^-^)v 
Inさん、どうもありがとうございました[黒ハート]

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。